「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」




"acCoMpaNy"




 僕が里香の下僕と化して数日が経った。

 本を借りて来いとか喉が渇いたとか、文字通りパシリのような生活を強いられている。手の甲へのキスを根に持っているのか、里香はネチネチと姑が嫁をイビるが如く難題をふりかけてくる。

 だが、それに負ける戎崎 裕一ではない。

 なんたって以前から里香のパシリをしていた身だ。ミカンを投げつけられ、罵倒されても動じはしない。むしろ懐かしいくらいだ。

 初めはヤケになって僕に悲鳴を上げさせようと頑張っていた里香も、途中からは諦めたのか、今では普通に接してくれる(無論、パシリとして)。

 後で聞いた話なのだが、里香は手馴れた僕の働きに心底驚いたらしい。まあ、自分でも分かっているけど、外見がなよなよしているからなあ、僕は。すぐに根を上げてもおかしくはないと思われていたのだろう。事実、前回はすぐに文句たらたらだったのだが。それを里香が知る由もなく、『イヤに能力が高いパシリ』として認めてもらえた(?)ようだ。

 閑話休題。

 僕は手元にあるコップを片手に、里香のベッドに歩み寄る。彼女は本に夢中だった。どうやら、みゆきに借りてきてもらった『ピーターラビット』の本を読んでいるらしい。表紙には『フロプシーのこどもたち』とあった。

 みゆきは間違えなかったけど、僕のときは『こわいわるいうさぎのおはなし』を借りてきてしまったんだっけ。それでしこたま怒られて、外は極寒なのにまた外出することになって。

 いま思えば、それもいい思い出だ。


 「なによ、ニヤニヤしちゃって」


 人の顔を見て笑うのは失礼だろう。謝罪しながら言い訳をする。


 「里香って本を読むの好きだよな」

 「入院してるんだから当たり前でしょう。これくらいしかすることないわよ」

 
 どこかの病院は娯楽室なるものがあると聞いたことがあるけど、当然、この病院にそんなものはない。あるとしても、売店と休憩室くらいだ。老人患者が多いこの病院は、自然と活気がなくなる。皆は病室にこもっているか、理由もなく散歩するかの二択だった。

 そんな中で、例外なのが多田さんであるのだが。

 彼は亜希子さんの尻を求め、今日も今日とてちょっかいを出しに逝っている(誤字にあらず)ことだろう。


 「それに、裕一だって本は読むでしょう?」

 「……アレはマンガだけど」

 「でも、本は本よ。あたしは小説が好きなだけ。文章を読んで、そこから考えられる先を想像するの。マンガは考えなくてもパッと見で理解できるでしょう? アレは筆者が伝えたいことがダイレクトに伝わるの。読者に考えさせる小説と違ってね」

 
 なるほど。僕は頷いた。

 マンガは気楽に読める娯楽で、小説は考える娯楽。確かに、病院生活が長い里香には、小説の方が有意義なのだろう。何度も何度も読み返して、筆者が伝えたかったことを想像する。当たらなくてもいいのだ。考えること、それが大事なのだから。

 さて、と。里香が読んでいた本を閉じて、僕に向き合った。


 「いくわよ」

 「おう」


 どこに? なんて野暮なことは聞かない。

 里香が行きたいところに行けばいい。僕は、彼女に付き添うだけだ。










 廊下を歩いていく。少しすると、突き当たりで僕たちは立ち止まった。

 目の前には両開きの扉。その上には、『手術室』と書かれてあった。どもりながら里香の名前を呼ぶと、僕を驚かせられたのが嬉しいのか、上機嫌で入っていく。

 多分、里香は最初、パシリにして僕を困らせるのが楽しみだったに違いない。それなのに文句も言わないで仕事をこなすもんだから、面白味にかけたのだろう。ヒイこら嘆く姿を見て喜ぶ・・・・やっぱり、里香って『S』なんだろうか。

 そうしている間にも、両開きの扉が音を立てて閉まる。慌てて僕も入っていった。

 まず目に入るのが、広い部屋の中央に置かれた手術台。ここに寄ってたかって医者が蠢く様子を想像すると、少し背筋が寒くなった。なんだか人体実験をしているみたいで。

 手術台の上にあるのが大きな照明器具。ドラマとかでもよく見かけるアレだ。お椀を逆様にして、その中に丸いライトが十個、等間隔に並んでいる。周りにも心電図モニターとか、点滴台とかが置いてあった。手術中には本当に使われているのだろう。どことなく使い込まれた雰囲気が漂っている。

 
 「裕一、寝てみてよ」


 パンパンと、緑色の布が被されている手術台を叩きながら言った。布の下は黒いビニール張りで、あまり寝心地は良さそうになかった。


 「ま、マジですか……?」

 「あたしはいつだってマジよ」


 異様にハイテンションの里香が笑った。ニコニコ笑っている。上機嫌な里香はかなり可愛いんだけど、手術室をバックにされるとかえって怖い。ほら、アレだよ。ミ○キーマウスの着ぐるみが、手を振っている最中に首がポロっと落ちるみたいな(?)

 頭がパニックになりながら、いつの間にか手術台に寝そべっている自分。

 真上から里香が見下ろしてきて、「ごほん」とわざとらしく咳払いをした。結構顔が間近だから、胸が高鳴る。そのまま顔を近づけてキスしたい衝動を抑えるのに苦労した。

 
 「では、手術を始めます」

 「おい」

 「まず胸の真ん中を喉仏の下から鳩尾まで切開し、胸骨を切開します。心臓が見えるようになったら、人工心肺装置で血液の流れを確保しつつ――――――」


 キラリと光る金属を見つけ、僕は慌てた。


 「ちょ、ちょっと待て! おまえ、なに持ってんだよ!?」

 「メスよ」

 「……さいですか」


 あっさりと返されてしまったので気が削がれてしまった。

 里香は鈍く光る銀の刃をかざしつつ、ふふふっ、と笑いながら、逆行で真っ黒な影になりながら近づいてくる。手に持たれたメスだけが光り輝くサマは、ある意味幻想的である。

 
 「物騒だな、ちゃんとしまっておけよな、病院のヤツも」


 手術台の傍にあるカートには、メスやら注射器やらハサミやらが並んでいる。きっと、拷問部屋にだって同じものがあるに違いない。それほど凶悪だった。

 メスを僕の方に向けながら、里香は言う。


 「信頼して。大丈夫だから。たぶん……いいえ、きっと」

 「希望的楽観なんですね、先生メッサー


 右手に携えられた細長い刃が、答えるようにキラリと光った。


 「安心しなさい。あたしは調理師免許準二級よ」

 「食人医師カニバリズムですか!?」


 芝居かかった口調で凄いことを口走る里香に、僕は耐え切れず声を上げた。跳ね起きたせいで里香が驚いて退く。

 それと同時だった。


 「誰かいるの!?」


 怒声を発しながら亜希子さんが入ってきた。うわあ、前もこんなことがあったような。

 慌てて里香を見ると、すでにしゃがみこんで回避済み。僕は手術台から転げ落ちて、勢いそのままに台の下に身を隠す。

 手術台の下は異様に狭く、すでに先客である里香が陣取っていた。あの状況では、どう考えてもここくらいしか隠れる場所はないのだ。必然的に、里香とくっ付く形になってしまった。


 (ちょ、ちょっと、くっ付かないでよ!)

 (あ、ああ)


 口だけパクパクと動かしながら会話をする。狭い空間にすし詰めにされたせいか、里香の顔は紅潮していた。

 ベタベタ(ペタペタじゃない)と、亜希子さんの足音。きっと誰もいないのか確認している最中なんだろう。見つかったら、きっと殺されるんだろうけど、僕の意識はそんなことお構いなしだった。

 間近にある里香の顔。

 甘い香り。

 全てが、あの日のままだった。

 あ、ヤバい。急に涙腺が緩んで……。

 
 (な、なんで泣いてるのよ!?)

 (……ごめん)

 (そんなに嫌だったの? ここに来るのが。それとも、谷崎さんに怒られるのが怖いとか……)


 心配そうに聞いてくる声を聞いて、僕は胸が痛んだ。

 男の癖に泣くなみっともない。

 聞こえてくる心の声に、僕は情けなく反論する。

 いや、だってオレ。戎崎 裕一だし。

 情けなくて、意気地なしで。それが本来の戎崎 裕一なのだ。

 こうやって手術台の下で馬鹿騒ぎをして。それがなんて楽しいことか。二度と戻らないと思っていた日常。里香の笑顔。泣くなという方が無理なんだ。

 
 (――――――もう)


 サラ、と髪をすかれる感触。里香が僕の頭をなでてくれている。ぐずる子供をあやすような優しい手つき。

 そのまま、引き寄せられて、おでこが里香の体に触れた。少し細すぎる体。白い肌。甘い匂い。懐かしくて、忘れかけていたその全て。


 (意外にちゃんとしてるって思ったら、泣き虫なんだね、裕一って)


 トクトクと彼女の心臓の音が聞こえてくる。

 もしこの音が止まってしまったのなら、それは死を意味するのに。優しくて、暖かくて。重い心臓病を患っているなんて到底思えなかった。


 (ふふふっ、なんだか赤ちゃんみたい)

 (……せめて子供みたいと言ってくれ)


 高校生にもなって乳児は勘弁願いたい。


 (大きな赤ちゃんですねー。よしよし)


 笑いを堪えながら抱擁してくる。嬉しいんだけど釈然としないものを感じるのは気のせいではないだろう。くすくすくす、と下手すれば亜希子さんに聞こえてもおかしくないくらいだ。さすがにまずい。

 と、足音が近づいてきた。

 このままだとバレてしまうので、顔を上げて「しー、しー」と声を押さえるように言ってみる。だが里香は堪えようとしても噴出すの繰り返し。人間とはおかしなもので、笑ってはいけないときに限って笑いが止まらないものなのである。

 こうなったら仕方がない。軽く掌で里香の口を押さえる。むぐー、という呻き声が聞こえてくる。もちろん、鼻は塞いでいないし、声が漏れない程度だから口で息だってできるだろう。

 そして、近かった足音が遠ざかっていき、扉の閉まる音が聞こえてから、ようやく落ち着くことができた。


 「ちょ、いきなり何するのよ、この強姦魔!」

 「人聞きの悪いこと言うな!」


 結構傷ついたので、半ばマジで怒鳴った。だけど目の前で、冗談だよ本気にしちゃってー、と笑い転げる里香の姿を見ていたら、そんなのはどこかに飛んでいってしまった。

 僕が泣いていた理由、聞かないんだな、里香。

 気を使ってくれているのか、ただ単に忘れてしまっているのか。きっと前者なんだろうけど。

 ありがとう。

 里香の笑顔に目を細めて。

 僕は、心の中で、そう感謝した。










 「見つからなくてよかったよね」

 「いやまったく」


 屋上へと続く階段を上る。あの後、里香が屋上に行きたいと言い出したのだ。体調を聞いて、大丈夫だと分かると僕は頷いた。そのとき、里香に少し心配性すぎると言われたけど、こればっかりは譲る気はなかった。

 錆びついている扉は重い。頑張って一人で開けようとする里香の後ろから、そっと手を重ねた。


 「こんなときのためにオレがいるんだろ? お姫様」


 里香は腕越しに、恥ずかしそうに微笑んだ。

 ギイ、という音と共に、扉が開かれる。外から流れ込んできた空気は冷たく、だけど澄んでいるから気持ちがいい。

 屋上には真っ白なタオルやシーツが風になびいていた。たくさんの人々が使ったシーツ。それ以上の人間が病院にいて、少なからずその中で命を落とす人間もいる。

 顔も知れない、誰か。

 そして、顔見知りの、誰か。

 誰かが死んで、誰かが生まれて。命が消えたり現れたり。病院ほど生死が激しい場所はないだろう。

 高台の上にあるだけあって、眺めは格別だ。だというのに、眼下の街はどこか寂しげだった。まるで人々に見捨てられた街。誰も住んでいない、人気のない街。あってもなくても、誰も困ることがない、儚い白昼夢のような。


 「ねえ」


 立ち止まって、里香が言った。風が彼女の長い黒髪を巻き上げる様子は、幻想的だった。


 「どうしてなの?」


 質問の内容が読めず、首を傾げる。


 「あたし、死ぬかもしれないの」

 「ああ」

 「でもね、死んでも構わないと思ってる」

 「そうか」


 淡々と打ち明けられる心境を、僕はどこか冷めた表情で返す。分かっているのだ。彼女の言葉は、表面上だけじゃない。その言葉には、こめられた思いが詰まっている。思っていても、口に出せない。考えていても、言い出せない。

 誰か、気づいてよ。

 なぜか、そんな声が聞こえた気がしたから。


 「あたしが重い心臓病だって分かると、みんな態度を変えるの。可哀想に、とか。若いのに大変ねえ、とか」

 「……」

 「正直言って、張り倒してやりたかった。なに分かりきった表情してるのよ、って。あんたたちに分かるはずがないじゃない。何年も病院暮らしで、学校に行けなくて、友達もいなくて! そうやって磨耗して、絶望して! たかが短期入院のくせに分かりきった顔するんじゃないわよッ!!」


 吐き出される、心の沈殿物。

 苦しくて、不安で。

 だけど、泣き言を言うことさえも忘れてしまったのは、いつからなのだろうか。


 「――――――あたし、死ぬかもしれないの」

 「そうか」

 「ねえ、どうしてなの? どうして普通に接してくれるの? たくさんこき使って、意地悪なことばかり言ってるのに」


 どうして、優しくしてくるの。彼女は言った。

 
 「なら、どうして欲しいんだ」


 僕は言った。

 答えは返ってこない。意地悪な質問だって分かってる。だけど、こればっかりは彼女の口から言って欲しかった。他でもない、秋庭 里香の、その口から。

 
 「あんたは、あたしのものよ。あたしに忠誠を誓いなさい。あたしに尽くすことを至上と考えなさい」

 「おう」


 どうして。小さく漏れた声を、確かに聞いた。

 いつもは態度デカくて、意地っ張りで。だけど、人一倍心配性なのが里香だった。心臓病のことを知って態度を変える人間たち。哀れむような目で見てくる大人たち。その視線が、彼女を磨耗させ、傷つけていることに、気づいていないのだろうか。

 だから答える。

 ――――――あたし、死ぬかもしれないの。

 ああ。

 ――――――死んでも構わないと思ってる。


 そうか。

 だからどうしたんだよ、里香。

 だからどうして欲しいんだよ、里香。

 おまえは生きている。確かに目の前で笑っている。暖かくて、優しい匂いで、こんなにも素晴らしい輝きを放っている。

 いろんなものを奪われてきて、今も一刻一刻奪われているとしても。

 彼女は、こんなにも輝いているのだ。


 「どうして、って聞いたよな?」


 コクン、と頷く。


 「里香だから」

 「え?」

 「里香が死にたいっていうなら構わない。里香が生きたくないっていうなら構わない。でもな」


 隣に佇む、里香の手を握った。

 風で冷えた指先を温めるように、そっと。細すぎる手は、まるで硝子細工のようで。握る僕の方が、震えてきそうだった。


 「里香が生きたいっていうのなら、応援する。里香が楽しく生きたいっていうのなら、楽しくする。そう決めたんだ」


 風が吹いた。バサバサと布がはためく音がして、里香は砲台山を見つめていた。

 握り返される左手。

 冷たい空気の中で、そこだけが人の温もりに溢れている気がした。


 「――――――パパも、同じ病気だったの。ずっと入院してて、あたしが8歳のときに思い切って手術をした。だけど失敗。それをどうにかしようとした2回目の手術の最中、パパは死んじゃった」

 「……死ぬのが怖くないって嘘なんだろ?」

 「うん。あたしはただ、決められないだけ。死ぬのは怖くないって言いながら、明日はもう目が覚めないんじゃないかって、毎晩怯えながら目を瞑るの。でもね、ママを心配させたくないから言わない。入院費とか、あたしの世話とか、かなり負担になってると思う。それでもね、ママは一度も文句なんか言わない。泣き言だって言わない。一番苦しいのは、ママのはずなのに」


 里香は自嘲するように笑った。


 「それでもね、考えちゃうんだ。こんな体で産んだママが憎いって。病気だったパパが憎いって。どうして普通の体じゃなかったのかな? どうしてあたしだったのかなって」


 誰だって一度は考える、“もしも”の話。

 里香は、“もしも”心臓病なんかじゃなくて、普通の体で、普通に学校へ通って。友達がいて、勉強して部活して。そんな、当たり前のことを夢見ていたのだろう。だけど、それも今では、考えなくなったのだ。考えたところで適うはずもない夢。ならば、最初から期待しない方がいいと。

 確かに、その通りだ。

 期待しなければ、落胆することはない。元から望んでいないから、裏切られることだってない。

 
 「裕一って本当に面白いよね。いっつも考えられないこと言うし、するし。大人に見えて子供だし」


 口に手を当てながら、笑った。

 僕は握り締めている手を、解けないように指を絡ませる。一瞬反応したものの、素直に彼女も絡めてくれた。


 「死にたいっていうのなら、構わない。生きたくないっていうのなら、構わない。でも――――――」


 一言一言、噛み締めるように、ゆっくりと。

 澄んだ風の中で、里香の声は旋律となって、音を紡ぐ。


 「生きたいっていうのなら、応援する。楽しく生きたいっていうのなら、楽しくする、か」


 飲み込まれた声は、どこか儚げで。

 僕は、消え去らないように、聞き逃さないように、耳を凝らす。


 「口先だけだったら、どうとでも言えるわ」

 「そうだな」

 「本気で思ってるの、そんなこと」

 「おう」


 間髪入れずに答えると、少し驚いた表情で、里香は僕を見た。それから、一息ぶんだけ遅れて笑い出す。本当に、面白いヤツ。涙を堪えながら、彼女は笑った。

 そうさ。

 これが、戎崎 裕一なのだ。

 確証はなくて、口先だけだったとしても。

 それを実現させるために、走って、転んで、怪我をして。痛みに嘆いて、泣きそうになって。馬鹿だと罵られて。

 それでも、また走り出すのだ。

 誰かの手を借りて。

 自分を奮い立たせて。

 二度と過ちを繰り返さないんじゃない。

 新しい、一度目を始めるために。

 僕は、足掻くのだ。


 「もし手術するのなら、覚悟しなきゃ駄目なの、パパみたいに」

 「砲台山、か」

 「よく分かったわね」

 「まあな」


 一度おまえと行ったことがあると言っても、信じてもらえる訳がない、か。


 「パパがね、手術する前、山につれていってくれたの。パパがまだ小さくて元気だった頃、よく遊びにいってた場所なんだって。ホントは駄目なのよ、山に登るなんて。でも、無理をしてつれてってくれたの。パパ、きっと覚悟してたんだと思う。その山がどこだったのか、あたし忘れちゃってた。小さい頃だったし、山のちゃんとした名前をパパは言わなかったから。パパはね、その山のこと、砲台山って呼んでた」

 「そうだったのか」

 
 僕は相槌を打った。

 一息すると、再び里香は語り始める。


 「裕一が教えてくれたよね。あの山が砲台山だって」


 里香の瞳には、砲台山が映っているのだろう。父親と上った、思い出の場所。覚悟を決める、最後の場所。手術をする覚悟。そのまま息絶える覚悟。その全てが、あの砲台山にある。

 代わり映えのない、日常で。

 本を読んで、山を見つめて。

 死んだ父親とか、迷惑をかける母親とか。

 死ぬかもしれない、自分のこととか。

 心の底で、考えているのだろう。

 里香は言った。

 死ぬのが怖くないなんて、嘘だと。

 死に怯えて、だけどどうにもできなくて。

 無力な自分、無知な他人を憎むことしかできなくて。

 里香は、そうやって過ごしてきたのだ。


 「もう一度、あそこに行ってみたいな」


 それから、付け加えるように、呟く。


 「そうしたら、あたしも覚悟ができるのかな」


 自分自身に聞くように、そして死んでしまった父親に尋ねるように。

 里香は、震える声で言うのだ。

 バサバサと。

 ひっきりなしに、風が吹く。


 「冷えてきたわね。戻るわよ」


 彼女は、踵を返して、扉の方へ歩いていく。手をつなげたままの僕は、引きづられるように後を追う。だけど、離そうとはしなかった。僕も、里香も。きっと、理由を聞いても、『離したら寒いでしょう?』なんて言って怒り出すのだろう。

 触れ合う肌が、温かく。

 触れ合う心も、暖かく。
 

 「ねえ、裕一。いつか、つれていってくれる?」


 砲台山に。里香は、前を向いたまま問う。


 「――――――ああ、きっと」


 おまえを、助けてみせる。

 僕の覚悟は、すでに決まっている。

 だから、神様。

 いましばらく、安寧の時間を、どうか。

 僕たちに、与えてください。



 ――――――いや、神様。



 あなたが与えてくれなくても。

 僕がきっと。

 オレが絶対。

 里香の笑顔を、守ってみせる。

 だから、神様アンタだけには、里香は渡さない。

 テメエも覚えておけ。

 絶対に忘れるなよ、戎崎 裕一バカヤロウ







                                                    ■ "SisteR_S"に続く ■