「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」
"SisteR_S"
ものごころついたときから、その人はすでにそこに居た。 私の兄と名乗る男は裕一といって、美男でも不細工でもない、そこらへんに居そうなごく普通の男だった。 性格はかなりの見栄っ張り――――――これは男という種の共通なのだろうが――――――で意気地なし。大見得を切ったはいいが、結果が伴わずに泣きを見るタイプ。いつも自身を省みない。私から見れば、この上なく愚かなことだ。 この世に生を受けて、自身を認識して。できることとできないことを知った。 生身で空を飛ぶこと、素手でコンクリートを砕くこと、手を触れないで物を動かすこと。数えだしたらきりがない。自分一人でやり遂げられるものだって数少ないし、誰かに頼らないとそれすらも危うくなってしまう。 その点、自分にはできることとできないことの、明確な基準を知っていただけ。 聖夜に髭を生やしたお爺さんが、トナカイに引かれたソリに乗ってやってくるなんて、信じる以前にその話を自慢げに語る大人の頭を疑った。あまりにも自信満々に語るので、その人も知らないのではないかと思い、親切心で「物理的に無理」だと教えてあげると、渋い顔をして追い払われた。「可愛げのないガキだ」なんて言われて。 だから、幼い頃の兄が一生懸命に戦隊モノの番組を見ているのがこの上なく煩わしかった。 本当に携帯電話一つで変身できるとでも思っているのだろうか。 母親に変身セットを買って買ってとせがむ兄を尻目に、私はその流れるCMを観察してみた。プラスチックでできた、明らかにコストダウンを図った外面に、小さな豆電球を取り付けた光る携帯電話。ボタンを押すと体が眩い光に包まれ、毎回平均47秒で変身を終える。赤青黄色、ついでにピンク。この人たちは普段仕事をしてるんだろうかとか、怪人の中で露出度の高いお姉さんは人間とのハーフなんだろうかとか、考えるだけ無駄なのでやめることにする。 CMを眺めていると、母親が嬉しそうに聞いてきた。「月香も欲しいの?」「さっき欲しいって言ってたよ」絶対に言ってないから、馬鹿兄。私が不満げに顔をしかめたのを、普段はすましているのに恥ずかしがっているのだと勘違いした母は、よりにもよって私にもその光る携帯電話を買ってくれた。 嬉しそうに外箱を開ける兄を、母親は微笑ましそうに見守っている。 視線を兄から私に移し、「あなたも開けてみなさい」と目で訴えてくる。せっかく好意で買ってもらったものを、足蹴りにするほどスレていないので、表面上は無表情で蓋を開けていく。 兄が嬉しそうに振り回している携帯は赤を基調とされていて、自分のはピンクだった。テラテラと無意味に光る光沢は、妙に寒気を誘う。 どう? と、母親が聞いてきた。 経験上、無愛想な返事を返すと決まって母親が落ち込むのを知ってた私は、無難に「ありがとう」と感謝を述べる。聞き遂げると、嬉しそうに頬を緩ませる。 ゴハンの準備をするからと去っていく背中。 兄は、相変わらず意味もなくボタンを連打し、「変身「変身「へんし「へん「へ「へ」と重なった電子音の声がなり続ける。はっきり言って五月蝿かった。 ボタンを押す気にもなれない私は、一刻も早くその場から立ち去りたかった。 部屋に戻って本でも読もうか。 この年齢だが、いまの私には個室が与えられている。曲がりなりにも我が家は一戸建てであるし、部屋がちょうど一室余ったからだ。 どうでもいいが、最近、父親が死んだ。 戎崎 裕一と戎崎 月香は、兄妹としては明らかに異質であったが、自分らの父親に対する認識は同じだった。 飲んだくれ。 まったく、日本人の文学は素晴らしいものだと思う。こうも的を得た日本語なんて涙すら出てきてしまう。 ギャンブル狂いで、家に居たときはいつも酔っていた気がする。どうやら私よりも、同性である兄に目を付けていたらしく、ことあるごとに、「女の子は大切にしろ」だとか「金を借りるのはほどほどにしろ」だとか、非常にタメになる教えをご教授しているようだった。 呆れたことに母親を泣かし、それでも酒もギャンブルも止めることはない。 幼心に、どうして母は別れないのか不思議でたまらなかった。 そんなある日、父が死んだ。 死因は分からない。母は知っていたのだろうが、まだ小学生にも上がっていない娘に詳しく話す親などいるはずがない。 酒の飲みすぎによる肝硬変だったかもしれないし、不慮の交通事故だったかもしれない。 ただ言えることは、酒臭くて暑苦しい父親には、もう二度と会えないということだった。 兄も、私も泣かなかった。 その代わりに、母は泣きに泣いた。父が死んでから、半年は鬱状態だった。いつもボー、っとしてて、家事や仕事以外は空を眺めていることが多かった。兄は心配して声をかけるが、帰ってくる返事はいつも決まって、「大丈夫。なんともないわ」の一点張り。下手すれば精神病院送りになった母を見るのも、そう遠くではないかもしれない。 さすがに、こんな私でも母親を心配するのは同じだ。 遺伝子提供者だとか、衣食住を養ってもらっているだとか、そんな理屈を抜きにしても、母親は母親なのだから。 台所に立つ、煤けた背中。 昔聞いた、「負け犬」って言葉がよく似合いそうな気がして、無意識に眉をしかめる。 ねえ、と、私はエプロンの裾を引っ張りながら言った。 なに? おたまを片手に振り返る母。 無理した笑顔を浮かべているその人に、私は言ってやった。「料理の作り方を教えて」と。 どうして? 月香にはまだ早いだろう。私を見る瞳が語った。 コトコトと、鍋が水蒸気を噴出す音。台所には、野菜を煮たときの特有の匂いが充満していた。見上げる形の私。頭より高い場所にある、食器。確かに、自分にはまだ早いかもしれない。ろくに下準備も、食器出しもできていないのに、料理を教えろとはいい度胸だ。 それでも、教えて欲しいと言った。 困惑する母を見据え、私の唇は動く。ただ、率直な意見を。 「元気のないお母さんのゴハン、美味しくないから」 その日から、私の料理修行が始まった。 ときどき邪魔をしてくる兄を追い払い、母と二人で試行錯誤を繰り返した。私が上る台のこととか、子供用の包丁のこととか。メキメキと腕を上げる娘に驚き、そして喜ぶ母は、以前と変わらぬ様子を取り戻していた。 このときばかりは、異常な吸収率の高さに感謝したものだ。 一回見たものは即時に覚え、勉強だってやろうと思えば小学生レベルなんてすでになんてことない。だけど、それだとマズい。テレビでも、IQが高い少年少女がたまに放映される。そうなった後の彼らはどうなるか知ったこっちゃないが、あんなに騒がれるのはごめんだった。 表面上は、少し器量のいい才女。自分で言うのもなんだけど、結構押さえて、こんなところだ。 あらかた、基本の料理をマスターした頃、それは起こった。 例の変身携帯電話を持った兄が、私の部屋に飛び込んできたのだ。そう珍しいことではない。だけどその日は少し様子が違っていた。顔を蒼白にさせた兄が、折れ曲がった趣味の悪い携帯電話を片手に泣きながら飛び込んできた。それを見て、一瞬で理解する。どうやら兄は、携帯で遊んでいたときに壊してしまったのだろう。大方、奇声を上げながら振り回して投げ飛ばしてしまったのか、ぶつけてしまったのかの二択に違いない。 お母さんに知られたら怒られる。泣きながら言う兄に、なにを当たり前のことを、とため息を吐く。母だって大金持ちなどではない。父が残した生命保険を崩しながら、少ない給金で今日を生きているのだ。できることなら無駄遣いは避けたいところだったのだろう。 兄と私の養育費。詳しくは分からないけど、少なくても数千万はいきそうな気がする。見栄っ張りな兄は大学に進学するとか言い出しそうだし、その後に職がなくてフリーターをやっている姿が目に浮かぶ。 まあ、人のことは言えないけど。 やろうと思えば自分だって働ける。さすがに高校は出るとして、バイトしながら専門の勉強を独学で続けるくらいの自信はあった。その後に大手企業に就職――――――できたら、いいなあ。 無論、世の中はそんなに甘くはない。私が才女だったとしても、それは子供のうちだけで、大人になったら少し頭がいい程度になるかもしれない。その前に病気になるかもしれないし、交通事故にあうかもしれない。心臓を杭で打っても死なないと思っていた、あの父親のように。 それは兎も角。 前の前には、泣き続ける兄が居る訳で、それで私に何をして欲しいのか。 聞くと、一緒に謝って欲しいと言い出した。確かに無難な手だろう。二人で謝れば、「遊んでいる最中に、二人の不注意で壊してしまった」と言い訳ができる。 だが、それでは怒られるだけで、私にはなんのメリットもないではないか。 そう反論すると、月香は妹だろうと怒り出した。さっきまでは泣いていたのに、急に怒り出すとは、感情が豊かなことで。本当に、無邪気で羨ましいくらいだ。 地団駄を踏む兄をなだめて、私は言った。だったら、その壊れた携帯を私のものにすればいい。それで壊れていない私のものを、お兄ちゃんのものにする。そうすれば怒られるのは月香だけで、お母さんには怒られないで済む、と。 実を言うと、このとき、私は少し期待をしていたのだ。 そんなの月香に悪いとか、それじゃあ意味がないとか。兎に角、少しは年上らしく振舞って欲しかった。だけどそれも淡い期待だったようで、にべもなく兄は同意し、これで怒られなくて済むと安堵したようだ。 まあ、小学生に期待するのは間違っていたのかな、と、幼稚園に通う前の私は思うのだった。 壊れた携帯の気色悪い蛍光シールを剥がし、もう一つの携帯――――――机の中で眠っていたので、新品同様だ――――――のピンク色のシールも剥がす。それから赤いシールを私の携帯に貼って、壊れた方にピンクのシールを貼る。 外見は同一なので、シールを張り替えれば入れ替えるのも容易い。 こうして私のピンク携帯が壊れたことになり、兄の赤い携帯は、シール部分以外は新品同様に生まれ変わった。 嬉々として喜ぶ兄と、壊れた携帯を持つ私が居る部屋に、母がタイミングよくやって来た。手に握られている壊れた携帯を見るなり、母は言った。「……壊れちゃったの?」 私は無言を通した。そうした方がリアル感があるし、母も同じく怒られて沈んでいると勘違いしたようだ。ふう、とため息を吐く母。誰だって自分が買ってあげたプレゼントを、不注意だとはいえ壊してしまったら落ち込むだろう。 だが、黙りこむ私を見てマズいと思ったのか、兄は口早に言う。「る、月香が振り回すからいけないんだ。危ないから駄目だよって言ったのに」 母が私を見る。 ごめんなさい。ピンク色の携帯を握り締めながら言った。自分から言い出したことなのに、なぜか途方もなく悔しかった。兄に擦り付けられたことなのか、自分が言い返せなかったことなのか。どちらにしろ、私が壊したことになっていて、母が悲しそうに見てくるのが、この上なく不快だった。 それから、私はお小言を聞いた後、セロハンテープで補強された携帯を母から受け取った。 横では、例の携帯を持ちながら、兄がテレビを見ていた。ちょうど戦隊モノの再放送をやっているようだ。目を輝かせて、食い入るように画面を見ている。その姿には、さっきまで泣きながら携帯を握り締めたことなど、微塵も感じさせない。 きっと、私が身代わりになったことなど、とっくに忘れているのだろう。 変身シーンに合わせて、兄がボタンを押した。「変身!」その声色を聞いて、私は体を強張らせた。赤色の携帯は男の声で発せられるそれも、元々はピンク色の携帯なので声も女性のものだった。兄は気づく様子もなく、「変身!」「変身!」とボタンを連打する。 振り向く。 母は、悲しそうに兄を見ていた。なにを考えているのか分かってしまった私は、「全部自分のせいなの」と、見上げる形で言いつくろう。 しばらく無表情だった顔が、柔らかいものになる。すっ、と手が伸ばされ、反射的に身を縮めたのだが、一向にゲンコツは飛んでこない。恐る恐る目を開けると、母の所々擦り切れている手が、頭に乗せられた。そして優しくなでられる。気持ちいいなあ、なんて思ってしまうあたり、どんなに大人ぶっても、まだまだ自分は子供なのだと実感できた。 これからは、気をつけなさい。頭をなでられているから、俯いているせいで顔は見えない。奥の方から「わかったー」という威勢のいい声。 こうして、その日は夕飯を食べて就寝となる。机の上には、セロハンテープで固められた、ピンク色の携帯電話。 シール部分が剥がれかかっている所にも、きちんとテープは貼ってあった。 それを見届け、苦笑いしながら目を閉じる。 その日から、私は兄のことを、“裕一”と呼ぶようになった。 「では、お待ちかね。遠足の班を決めましょう!」 まだお姉さんと呼んでもおかしくはない、我が4年2組の担任が言った。昔ちらっと見たことがある、子供番組のお姉さんによく似ていると思う。着ぐるみと並んでみたら、結構絵になるんじゃないだろうか。 周りのクラスメートたちが騒ぎ立てる中、私は視線を上げて、教室の一番前にかかった時計を見る。 午後2時半。 うん。これが終わる頃には鐘も鳴ることだろう。とはいっても、本当に鐘が鳴る訳じゃなく、テープに録音された鐘の音が、ノイズ混じりに景気よく流れるだけだ。 いい加減、新しく作り直したらいいのに。なんなら生演奏で木琴を叩いてやってもいい。鉄琴でも構わない。 「今回はなんと、好きな人同士で組んでもいいことになりましたー」 わああ、という歓声。 ちょっと待って欲しい。この担任は仲間は外れが出ることを考えないのだろうか。ほら、好きな人同士だとどうしても余りが出てしまうのだ。 ポツン、と残された私を見て、その女教師は顔を引きつらせた。女教師、いつも思うんだけどあなた馬鹿でしょう。 「え、えーと。月香ちゃんを入れてくれる班はないかなー?」 「だって戎崎面白くないもんー」 「喋んないしー」 「睨んでくるしー」 所々で声が上げる。担任はオロオロと、やめなさいやめなさいと沈めようとする。男子も女子も、面白がって声を上げるばかり。 まあ、自分でも面白くない性格なのは自覚している。だからとやかく言われても気にしないし、どっちかというと、いま騒いでいる人たちとは関わりたくない方だった。 無言のままでいると、担任は私を引っ張ってあるグループに連れて行かれた。 そのグループは言うところの余りものだ。ジャンケンとか言い争いで負けた輩が群れを成す混成グループ。他の班は男女で分かれているのに対し、この班は男女混合。文字通り滅茶苦茶だ。 あまり宜しくない視線を向けられ、「よろしくお願いします」と言うと、何人かが律儀に返してくれた。 「先生」 「なにかしら、月香ちゃん」 「お手数をおかけします」 頭を下げると、顔を見なくても、担任の頬が引きつっているのが分かった。 帰りの会(高校とかではHRというらしい)が終わると、私は家に向かう。集団で帰っていく小学生たちを抜いて、家に辿りつく。その間、約10分。 インターホンを押さないで、鞄から鍵を取り出すと、そのまま鍵穴に入れて手首を動かす。ガチャリ、という音。ドアの向こうには、誰もいない。母親は仕事だし、裕一は未だに入院中だ。 肝炎と聞いたときは、結構驚いたものである。病気なんて、せいぜい風邪とか肺炎くらいしかかかったことがなかったのに、熱っぽいから病院にいってみれば、いきなり入院しろなんて言われるとは。だからもっと早くに行けと、口を酸っぱくして言っていたのに。あの馬鹿は。 靴を脱いで部屋に上がる。まず目に入ったのは溜まった洗濯もの。洗ってはあるけど畳んではいないヤツだ。その中から裕一の下着と上着を取り出す。パンツとかが目についたけど問題ない。かれこれもう数年も洗濯当番をしていれば、イヤにでも耐性はつく。 取り出した服を畳み、袋に入れてからリュックに詰める。 入院中とはいえ、洗濯物を全て洗って畳んでいたら身がもたない。だから畳むのを省略し、必要になったときだけ畳んで持っていく。 いつも着ているパーカーは、自分で洗うように言ってあるから大丈夫だろう。 冷蔵庫の中を物色し、プリンを二つ見つけたので持っていくことにした。何も差し入れを持たずに行くと、文句を言ってくるなんて何様のつもりなのだろう。ブツブツ言いながらも持っていく私もアレなんだけど。 昔から、裕一は兄というよりは、“弟”みたいな感じだった。手がかかるし、我がままだし意地っ張りだし。 以前に、誰かが正面からこう言ったことがあった。「おまえ、兄貴のくせに能力低いな」と。私は怒ると思ったんだけど、いや、前もそうだったから確信していたのに、裕一は顔色一つ変えずに「ああ。そうだな」なんて言った。その様子に、言った本人も、私も呆気に取られてしまったものだ。 見栄を張りたがる裕一には、私という妹は脛の傷だろう。周りは兄を役立たず呼ばわりし、妹をベタ褒めする。 なのに、裕一は。 「ああ。そうだな」なんて。 本当にそうだから、と、言わんばかりに肯定したのだ。 それは、確か数ヶ月くらい前のこと。 ある日を境に、裕一は変わった。いや、姿形や性格が変わった訳じゃない。でも、その日から、確かに変わったのだ。 私を見る目は、他人を見つめる目だった。 妹とか家族じゃなくて、初めて出会った人間に向ける、それ。 なんだか、悔しかった。 なんだか、寂しかった。 その日から、あまり私の手を煩わせることは少なくなって、顔も合わせる機会が減った。意図的に避けてるのは明確だった。 なにか嫌われるようなことをしたのだろうか。 自分では思いつかなかったので、思い切って母親に聞いてみた。 すると、母は苦笑しながら、「裕一は気を使っているのよ」と、言った。月香も年頃だから、兄と一緒に居るのは嫌だろうから。まったく、他人に気を使うなんて裕一らしくもない。母がまた笑った。 裕一らしくない。 確かに、その通りだ。 今までは、私のことを鼻にかけて、いろんな雑用をやらされたし(悪気はないんだろうけど)、兄というよりは弟といった方がしっくりときた。 なのに、急に兄らしくなったのは如何なる魔法か。 そんなこんな考えているうちに裕一が肝炎になって、こうして病院を行ったり来たりしている訳なのだが。はっきりいって学校に行くよりは百倍マシだった。馬鹿な担任がいない。五月蝿いクラスメートもいない。裕一の病室に行って、着替えを渡して、リンゴを向いて。オレにもくれと懇願する裕一に高笑いして。 まったくもって不本意だが、楽しかった。 本を読んでいるだけでも、無言で外を眺めるだけでも。 学校とは、天と地ほどの差があると言っていい。 「……よし」 リュックの中身を確認して、鍵を片手に玄関へと向かう。靴を履くと、なんだかキツい気がした。 外に出ると、やっぱり肌寒かった。木枯らしっていうのかな、こんなの。ぼんやりと空を見上げながら思う。 空気は澄んでいて。 青空はどこまでも遠かった。 病院に入ってナースステーションの前を通りかかると、看護婦の谷崎さんが話しかけてきた。茶髪で気の強そうなつり目。若いから爺さん連中にモテるらしい。もっとも、年のいった爺さんたちにモテても、あんまり嬉しくはないだろうが。 ベタベタという足音。 「よう、月香ちゃん。お見舞いかい?」 一瞬、頭の中にゴロツキのお兄さんが浮かんだ。南無。 「はい。今日もお見舞いです」 「いつも大変だな。なんだ、裕一が来るように言ってるのか?」 「違います。私が勝手に来てるだけですから」 無愛想に返すと、谷崎さんは「うっ」と身を引いた。失礼な人である。 「アンタ、将来大物になれるよ」 「どうも」 「へえ、でも不思議だねえ。兄はあんなにヘッポコなのに、妹はしっかりしてるんだから」 「……」 聞きなれた言葉。 兄は愚鈍だとか、兄は無能だとか、兄は出来損ないだとか。 確かに裕一は手がかかるし意地っ張りだし頼りにならない。だけど、それだけじゃないのも事実だ。私にはないものだって持っている。 あの雨の日のことなんかも驚いたものだ。 仔猫の飼い主を探しに、真夜中の雨の中を走り回ったらしい。私には、到底できないことだ。 なのに、周りの人間はよく見もしないで無能だと言う。あんたらに比べたら裕一の方がマシだ。断言できる。だけど、裕一も裕一で、何も言い返さないのが腹立たしかった。罵倒を甘んじて受け入れて、その通りだと本人が納得している。 よく分からないけど、悔しかった。 無能だという人間も、そうだと受け入れている裕一も、まとめて張り倒せたらすっきりするに違いない。 「……裕一、病室に居ますか?」 腹立たしさを飲み込んで、抑揚のない声で聞いた。感情を押さえつけるから、自然とこんな声になってしまう。そうでもしないと喚きだしそうだったから。 谷崎さんの話では、今日は検査がないそうだ。まあ、一応自分でも覚えているのだが、念のために聞いてみた。 お礼を言って踵を返す。「ちょ、」何かを言いかけている声を無視して、私は歩き出した。あの人も、裕一のことを無能だと思っているのだろうか。 そうだとしたら、あまり好きになれそうではない。 「――――――ちょ、ゆうい……さわ…………よ」 病室から声が漏れている。廊下まで聞こえているのだから、結構な大声だ。 でも、ゆき姉さんの声じゃない? 気配を消して中を覗くと、秋庭さんがいた。私たちと接しているときは大人しい感じだったのに、今はその正反対だ。 猫を被っていたんだろうか。だとしたら、なんで裕一の前でだけ脱ぎ捨てているのか。 前々から、秋庭さんと裕一の関係は怪しかった。まるで以前に会ったことがある雰囲気だったし、今もこうしてじゃれあっている(?) 一つ息を吸って、吐く。 「裕一、入りますよ」 私は、ドアを開いた。 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■ 「裕一、お茶」 「うい」 急須を取り出してお茶ッ葉を入れて、ポットからお湯を注ぐ。適度に蒸らしてからコップに注ぐと、玄米茶特有のいい匂いが広がった。僕は緑茶や烏龍茶よりも玄米派である。渋みも少ないのがいい。 里香専用のコップに注がれたお茶を渡す。「ん、ありがとう」性格はアレだけど、里香はきちんと礼を言うから憎めない。これで使うだけ使っていたら、僕もついていかないだろう。 まあ、惚れた弱みと相乗効果で囚われている訳なのですが。 あの一件以来、検査がない日はちょくちょく里香が遊びに来るようになった。歩かせるのも悪いから僕が出向くと言ったら、ミカンを投げつけられて、運動不足だからいいの。なんて怒られた。心配して言ってあげたのに理不尽な。 それは兎も角。 病院という生活環境は信じられないくらい暇なのである。 重病を患っている患者さんや、暇だとは考えられないくらい切羽づまっている人たちは別だろうけど、僕たちのような表面上は普通な患者にとってはまさしく監獄のようなものだった。入院して一週間はなんとか我慢できる。なにせ入院直後は病状が酷いせいで意識が朦朧、暇だと考えることさえない。そして一週間が経ち、病状もなりを治めてくるようになると――――――もう大変。 朝起きて検温し、味気のない朝食を喉に通し、あとは昼までマンガを読んだり勉強したり。これまた塩と石灰を間違えたんじゃないかって昼飯が出てきて、一応全部食べきらなければならない。下手に残すと「具合が悪いのか」と疑われるのだ。たまったものじゃない。 午後になるとさらに暇になり、ブラブラと出歩くようになる(動けないけど元気な患者はまさに地獄だろう)。 行くとしたら中庭、あとは休憩室、僕の場合は屋上くらい。屋上はあまり人気がない。行くまでに疲れるのが老人方に不人気な理由だろうけど。 一日中病室に居るのは駄目だ。曜日、時間感覚がおかしくなってくる。テレビも有料だから、いつまでも見ているのは不可能だった。 数ヶ月入院しただけの僕が根を上げて脱走を試みているくらいだ。 何年も病院暮らしの里香の辛さなんて想像もできない。 だから、僕はできるだけ里香の傍に居ることにした。まあ、執事みたいなもんだ。お茶、と言われればお茶を入れ、本が読みたいと言われれば、リストをもらって図書館に行く。 月香が聞いたら、なに馬鹿なことをしてるんだ馬鹿阿呆裕一、なんて言われそうだ。 「ねえ、裕一」 コップを傾けながら、気だるげな声。曇った声色がさらに気分をロウテンション。 里香はぶしつけに僕を仰ぎ見た。 「暇なんだけど」 「今頃気づいたのか。オレは入院二ヶ月目でそう思った」 肝炎の熱が引いて倦怠感が完全に抜けた頃、僕はこの病院がとてつもなく恐ろしいものだと認識した訳なのだが。 「あんた、たった二ヶ月で根を上げたの? 修行不足もいいところだわ」 なんの修行をしろと? 「いい? この閉鎖空間を生き残るには勇気と根気と運気が必要なの」 「はあ」 まあ、言いたいことは分かる。一旦全てを諦めると一気に鬱モードになるからな、病院ってのは。 里香の言うとおり、毎日なにかしらの楽しみを探さないと、長期入院なんてできやしない。彼女の場合は読書なのであって、僕が見ると網膜に焼付けを起こしそうな長ったらしい文書を嬉々として読んでいる。 生憎、僕は説明臭いマンガも駄目だ。 その場の流れで読むことになった『銀河鉄道の夜』とか『チボー家の人々』とか、覚えているのはそれくらい。内容は難しくて半分も理解できなかった。元々小説は考えさせるのが目的なのだし、僕は筆者の思惑にドップリと片足ばかりか腰まで嵌ってしまったのだろう。こんな本を毎日読んでいるんだから、里香は文系が得意なのかも。 「なのに裕一ったら、毎日病室でぐうたらするか屋上で昼寝するかの二択じゃない」 「たまに休憩所行くけどな」 あそこに居ると亜希子さんが襲ってくるので、あまり長居はできないのだ。 「そこでよ。なにか面白い話をしなさい」 「唐突だな」 「あんたが言ったんでしょ? 『楽しく生きたいっていうのなら、楽しくする』って」 僕の声色まで似せて言う里香。全然似てないけど。 「まあ、言ったけどさ」 乗り気でないのに気づいたのか、不満げに形のいい鼻を鳴らす。 ただでさえ機嫌が悪いのに、これ以上悪化させたら僕の立場がない。下僕(暫定的)である戎崎 裕一には、己が主君である秋庭 里香には本能的に逆らえないのである。 頭を捻って、『面白い話』とやらを考えてみる。 真っ先に浮かんだのは、友人の中でも突出してハイな山西 保。こいつさえ居れば、どんな合コンも絶好調で終えることができる……らしい。 というか、山西って合コンとかするのか? アレで結構ウブだからな。 「んー、じゃあ、怖い話でいいか?」 「却下よ」 お姫さまはオカルト嫌いらしい。 「じゃあ、多田さんからもらったエロ本の話でも」 「いいけど?」 「ごめん。嘘です」 その凍てつくような笑顔はやめてください。悪夢に出そうです。 まあ、兎に角。 面白い話と言われて、そう簡単に口から出るのは漫談家くらいだろう。生憎、僕に話術はないし、聴き人を引きつけるようなカリスマもない。 そういえば、以前は学校の話なんかで盛り上がったっけ。 自信満々で提案すると、「却下」と、肩から袈裟切りに切り裂さいてくれやがりました。 「学校の話は水谷さんたちから聞いているわ。十分」 僕が抜けている間に結構話を進めていたらしい。となると、前回よりみんなと里香の仲はよくなっているのか? だとしたらいいことだ。 ニヤニヤしていると、気持ち悪いとミカンを投げつけられた。 「そうだな、だったらみゆきたちとの昔話なんてどうだ?」 「昔話?」 オウム返しに里香は言った。 「ああ。この間、里香が父親のこと話してくれただろう? だから今度はオレの父親とか、月香のこととか、みゆきとの話だとか」 「水谷さんと裕一って幼馴染だったよね?」 「幼稚園からずっと一緒だった。見ての通り、伊勢は狭いからな。学校だって少ないから、近所だと必ず一緒になる」 加えて少子化が進んだせいか、一クラスあたりに30人としても、一学年に二クラスが当たり前だった。みんながみんな、こんな田舎くさい所に居られるか、と、東京に出て行ってしまうのだ。そういうヤツらは高校や大学に進学する機会を狙って出て行く。残ったのは、学力不足だとか家の事情とかで、行きたくても行けないグループ、そして元から伊勢から出る気がないグループだけ。 そのことを話すと、里香は「裕一はどっちだったの?」と聞いてきた。 声に詰まる。 前の僕は、伊勢から出て行きたいと渇望していたけど。 A型肝炎になって、里香と出会って。 東京とか、進学なんて、綺麗サッパリ頭から消え去っていた。 東京に興味がないのかと聞かれて、ないと言えば嘘になる。日本の中心と言われる都市には行ってみたい。だけど一人暮らしをするには不安がある上、親からの仕送りがなければやっていけない。 つまるところ、いくら格好つけて上京したとしても、親元から離れられないのは同じなのだ。 いつまでも仕送りに頼って、バイトしても小遣いに消えるのなら、上京したのは遊びに行ったことになる。それでは面目が立たないし、そもそも毎月ウン十万と仕送りしてもらえるほど、ウチの台所事情が景気いい訳でもない。 働き手である母さんに頭が上がらないのは、こういった経緯があった。 「……上京したいと思ってはいたさ。前は、な」 「今は違うのね」 どこか嬉しそうに里香は言った。僕も微笑んで頷き返す。 「ま、いまは里香の下僕だしな」 「人聞きが悪いわね。家臣と言いなさい」 するとアレか。僕が家臣だとすると、里香はお殿様……じゃなくて女王様……でもなくて、お姫様なわけか。 そうだな。僕は白馬に乗った王子様って柄でもないし。 姫様を守る一兵卒(?)あたりがちょうどいいだろう。 それからは、僕の父親の話とか、月香の小さい頃の話とか、みゆきとの昔話とかを話した。いつになく目を輝かせて真剣に聞いてくれるので、僕は調子に乗って饒舌に語った。飲んだくれとかギャンブル狂い。落ちモノゲームとかカメラの話。月香は昔から生意気だったとか僕よりも頭がいいとか。 みゆきの話になるとさらに熱も加わる。なんたって、幼い頃の遊び相手はほぼみゆき相手だったからだ。公園で砂山を作ったのもみゆき。夏にプールで泳いだのもみゆき。いま思い出してみると、結構な幼馴染だったのだと改めて認識させられる。 僕のあだ名が『サンマン』だとか。できることなら、南極大陸の底が見えないクレパスに投げ込んで永久にオサラバしたい思い出とかは伏せておこう。アレは知られちゃマズいだろ。名誉の毀損だ。人生の汚点だ。 みゆきの胸を鷲づかみにしたのも、断じて事故である。故意ではありません。本当です。 あの事件で気まずくなったのも事実だけど。 「……そっか。やっぱり、思い出がたくさんあるんだね」 里香。 そんな、寂しそうに言うなよ。 ほら、考えてみろよ。これからたくさんいい思いでを作って、アレだよ、学校行ったり海に行ったり。花見とか月見とか、やることなんて数え切れないほどあるだろう? いまは少ないけどさ。これから作っていくんだよ。思い出ってヤツを。 「里香、オレは宣言しよう」 いつになく真面目な顔をしたので、固唾を呑んで里香も向き直った。 「これから、おまえにたくさんの楽しいことを体験させてやる。昔の思い出とか、今までの辛さとか、全部塗りつぶすくらい」 「……」 「だから、さ。その。あんまり悲しそうな顔するのはやめろよ。笑う門には福来るって言うだろ? それに、美人が台無しだ」 顔を赤くしながら言うと、里香は頬を膨らましたかと思うと、堪え切れないように笑い出した。 む。真面目に言ったんだぞ。笑うことないだろ。 少し怒りながら反論する。里香は素直に謝って、「だって全然似合わないんだもん」と、また笑い出した。 「でも、お礼は言っておく。約束よ。さっきの言葉、忘れないでね?」 「男に二言はない」 胸を張っていったところで、病室のドアが開いた。「裕一、入りますよ?」月香が顔を覗かせて、僕を確認すると入ってくる。背中には大きすぎるリュックが背負われていた。中には僕の着替えとか、マンガが入っているはずだ。 悪いことしたなあ。体に似合わないリュックを見て、僕はそう思った。 「お邪魔しちゃ悪いかな。あたしは帰るわね」 「そうか? 別に構わないけど」 月香の方を見る。数秒送れて、コクンと頷いた。 改めて里香に振り返ると、すでに帰り支度を始めているところだった。帰る気満々のようだ。 無理に引き止めても仕方がない。 「また来いよ」 「うん。じゃあ、月香さんもさよなら」 「……はい。さよなら」 里香が出て行く。 相変わらず、月香は仏頂面で見送っていた。 ■ "SisteR_S_2nd"に続く ■ |