「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」





 "rEFusal"






 頼み事してもいいかな、と、里香ちゃんは言った。

 なんでも、町の図書館から本を借りてきて欲しいのだそうだ。断る理由もないあたしは快く頷いた。

 里香ちゃんと出会って数日が経ち、少しずつ打ち解けてきた実感がある。初めは遠慮して敬語だったけど、今では砕けた口調になっているし、こうして頼み事も言ってくれるようになった。

 彼女は、思い心臓病を患っているらしい。

 聞かされたとき、あたしたちは衝撃を受けた。その上、いつ死んでもおかしくない体だと、里香ちゃんが自嘲して教えてくれたとき、さらに衝撃を受けた。

 そして、分かってしまった。

 死んでも構わないと、彼女は思っている。

 死んでも構わないと、彼女は諦めている。

 確かに死は恐ろしい。けれど、逃れようもないのなら、黙って受け入れてしまおう。

 そうすれば、多少は落ち着く。

 諦めれば、確かに落ち着く。

 でも、あたしは思ったのだ。

 当人じゃないから言えることだ。あたしが偽善者だから言えることだ。他人のことだから、言えることだ。

 それでも、諦めて欲しくないと、そう思ったのだ。

 確かに無責任かもしれない。

 死に怯えて、自由に過ごせなくて、病院に缶詰で。
 
 それでも、諦めて欲しくなかった。

 そう思ったのはあたしだけではないようで、世古口くんも、里香ちゃんの話を聞いてから、積極的に話しかけるようになった。里香ちゃんも気づいているのだろう。だけど、一生懸命な世古口くんが話題をなくして困っている姿を、里香ちゃんがおかしそうに見ているのも、また事実だった。

 死に怯えていても、楽しいものは楽しい。悲しいものは悲しい。

 少しずつ楽しいことを知ってもらって、生きたいと思って欲しい。

 あたしたちは友達だ。

 困っていれば助けてあげたい。

 悲しんでいれば慰めてあげたい。

 少しずつ、少しずつ。

 あたしたちは友達になれてきた。

 だけど、足りなかった。

 里香ちゃんの背中を後押しする、あと一歩が、あたしたちには足りなかった。
 
 相変わらず月香ちゃんは無愛想だけど、里香ちゃんを心配しているのは明らかだ。
 
 世古口くんだって同じだ。里香ちゃんを心配している。

 あたしも二人に負けないくらい、彼女を大事だと思っている。哀れみだとか、そんなものじゃない。友達だから心配しているのだ。今にも壊れそうな硝子細工。触れただけで崩れそうな、砂のお城。

 そんな里香ちゃんを、救ってあげたい。

 だから、裕ちゃんにも頼んだ。

 あたしが知る限り、裕ちゃんは強い人だから。以前とは比べ物にならないくらい強い人だから。

 きっと里香ちゃんのことも励ましてくれると思っていた。

 だけど、帰ってきた答えは拒否の言葉。

 不治の病を持つ女の子となんて、とてもじゃないが話せない。不用意に傷つけてしまうかもしれない。自分がいると、かえって悪影響になると、裕ちゃんは言った。

 泣きそうな顔で、そう言った。

 だから、何も言えなかった。あたしも、世古口くんも、月香ちゃんも。

 会ってみなければ分からないじゃないか、そう反論することもできた。でも、裕ちゃんの表情を見てしまった。泣きそうで、悔しそうで。反論したら、裕ちゃんの大切な何かを汚してしまいそうで、何も言えなかった。

 もしかして、前に会ったことあるのかな。三人は思った。里香ちゃんに聞いてみても、知らないと一点張り。

 でも、と。

 里香ちゃんは、裕一には会ったことはないけど、そんな、壊れそうな雰囲気・・・・・・・・を持つ人には、会ったことがある、と言った。

 あたしの知る裕ちゃんは、強い人だ。捨て猫の飼い主を、深夜まで探しているような、そんな優しい人だ。

 だけど里香ちゃんが絡むと、裕ちゃんは弱かった。まるで恐れているような、そんな感じ。自分は駄目なんだと、見ていてヤキモキするような、意気地なしの裕ちゃん。

 例えれば、アキレス腱みたいなものだ。

 体はどんなに強くなっても、心はどんなに強くなっても、そこに傷を付けられると、死んでしまう。弱点じゃない。そこは心臓みたいなものだ。

 必死に弱点を克服しようと鍛えても、そこだけは鍛えられない。

 裕ちゃんにとって、里香ちゃんこそが、鍛えられないアキレス腱だった。どうしてそうなったのか分からない。裕ちゃんも里香ちゃんも話してはくれないから。

 でも、一つ、確かなことがある。

 裕ちゃんにとって、里香ちゃんは特別だということ。

 それだけは、確かなのだ。

 








 里香ちゃんに頼まれた本をメモし、あたしは病室を出る。

 世古口くんが行くって言ってくれたけど、それを断った。行くついでに裕ちゃんにも欲しいものがないか聞いていくから、と言うと、彼はすんなりと身を引いた。

 どうにも世古口くんは、あたしと裕ちゃんが付き合っていると勘違いしているらしい。

 ・・・・うん。

 あたしたちは幼馴染であって、なんでもない・・・・はず。確かに好きって言ってくれたんだけど、それは小学生のときなのであって。うん、違うと思う。だってあたしたちは高校生な訳で。あたしには竹久くんという意中の人がいる訳で。

 でも、好きなのかな?

 いやいや、それは竹久くんのことだ。裕ちゃんのことじゃないぞ。
 
 確かに竹久くんは良い人だ。あたしだって、彼に嫌われてはいないと思う。

 だけど、本当に“好き”なのだろうか。

 あたしが思っているのは、“憧れ”みたいなもので、本当に好きではないのかもしれない。

 アイドルのポスターを貼ったり、その人が歌うCDを買ったり。だけど、本当にアイドルと付き合うことになったら、きっと誰だって躊躇するだろう。

 自分で釣り合うのか、とか。

 他の人の方が適任じゃないのか、とか。

 竹久くんのことも、きっとそうなのかもしれない。

 確かにカッコいい。

 確かに憧れる。

 だけど、それは遠くから見ているときだけの話。悪く言ってしまえば、観賞用なのだ。触れてはいけない、眺めるだけの存在。

 そんな気持ちを、“好き”と言ってしまっていいのだろうか。



 ――――――違う。



 うん。

 きっと、違う。

 あたしは憧れていただけ。

 スポーツ万能、勉強だってできる。容姿も整っている、そんな竹久くん。彼にはすでに、付き合っている人がいる。

 けじめをつけるために告白をして、そしてやんわりと断られる。

 きっと悲しくはないだろう。

 告白を拒否されたというのに、悲しくはならないだろう。

 ほら、そういうこと。

 あたしは憧れていた。

 彼に憧れていた。

 だから、手が届かなくても構わないのだ。

 見ているだけで構わない。

 好きでいてくれなくても構わない。



 ――――――好きでは、なかったのだ。



 よく分からないけど、胸のつっかえが取れた気がした。

 なんとなく気分が良い。

 気持ちに整理がついたからだろうか。

 これなら、寒い外の世界も、我慢できる気がする。


 「あっ」


 ナースステーションの前で、裕ちゃんを見つけた。亜希子さんと、確か・・・・多田さんとかいうお爺さんと喋っているようだ。

 多田さんが亜希子さんのお尻を触ろうとして叩かれている。なんだか微笑ましい。


 「ん? みゆきじゃん」


 あたしの姿を見つけた裕ちゃんが手を振る。それに返すように、顔の前で手を振った。


 「ほう、可愛いお嬢さんや。坊ちゃんの彼女かい?」

 「そう言いつつみゆきの尻を触ろうとしないでください!」

 
 早業だ。

 いつの間にか、あたしのお尻に手が回っていたようだ。すんでのところで裕ちゃんが阻止してくれた。危ない危ない。エロじいさんとは聞いていたけど、ここまでの猛者だったとは。

 油断も隙もあったもんじゃない。


 「いやあ、すまんなあ。若い子を見んと、つい手が出てしまうんや」

 「・・・・はあ」

 「・・・・なんだい裕一。あたしんときと随分態度が違うじゃないか、ええ?」

 「当たり前です。みゆきはオレの幼馴染なんスから」


 ちょっぴり、嬉しかった。

 本当に最近の裕ちゃんは頼もしい。

 雰囲気だって変わったし、顔つきだって変わったと思う。

 昔みたいな、表面だけのものじゃなくて、芯を持った強さだ。


 「おーおー、熱いねー。そう思うだろ、ジイさん?」

 「おう、その通りや。亜希子ちゃんの言う通りや」


 亜希子さんと多田さんが白い目を向けて言う。こんなときだけ仲良いんだから、ホントに困ったものだ。


 「亜希子ちゃん。若いモンは放っといて、わしらは行こうか?」

 「そうだね。じゃあ、あたしらは去るとするよって、尻揉むんじゃねえクソジジイがあっ!?」

 「まだまだ甘いんや、亜希子ちゃんは。戦時中なら今ので死んどったわい」


 いや、亜希子さんなら返り討ちにしそうですよ、お爺ちゃん。

 喧騒が遠ざかっていく。

 視界から二人が消えると、裕ちゃんは盛大にため息を吐いた。あたしは苦笑する。


 「仲良いね、あの二人」

 「そうだな」


 裕ちゃんも苦笑した。
 

 「ん? そういえばどうしたんだ? 里香の病室に行ってたんじゃないのか?」


 “里香”?

 いつの間にか、呼び捨てで言い合う仲になったのだろうか、裕ちゃんは。

 あたしが怪訝そうに見ていたのに気づいたのだろうか、慌てて「よ、呼び捨ては失礼だよな」と、付け加える。

 うーん、どうにも怪しい。

 里香ちゃんも曖昧にしか答えてくれないし、過去に会ったことがあるとしか思えない。


 「ねえ、裕ちゃん。本当に会ったことないの、里香ちゃんと」

 「・・・・ああ。向こうだって会ったことないって言ってたんだろ?」

 「うん」


 そう言うと、明らかに安堵した表情を浮かべる。昔からそうだったけど、裕ちゃんは嘘をつくのが下手だ。
 

 「でもね、雰囲気が似たような感じの人なら会ったことあるって、屋上で」


 ギクリ、と、効果音が付きそうなほど反応する。


 「そ、そうなのか」

 「うん」

 「・・・・」

 「・・・・」


 しばらく見詰め合って、そのまま視線は離さない。

 裕ちゃんは逃げてる。

 どんなものなのかは分からないけど、逃げてる気がする。

 裕ちゃん、勇気を出して。

 裕ちゃんは、そんなに弱くないんだ。

 あたしが眩しいって思ったんだよ?

 裕ちゃんの背中。

 裕ちゃんの言葉。

 少しでも追いつきたいって、そう思ったんだよ?


 「・・・・はあ。適わないな、みゆきには」


 肩の力を抜いて、裕ちゃんは笑った。

 でも、どうしてあたしをそんな目で見るの?

 まるで眩しいものを見るような、そんな目。おかしいよ。裕ちゃんは確かに輝いている。だけど、あたしはそんな価値もない、普通の女子高生なんだよ? 


 「里香は覚えてないかもしれないけど――――――会ったことがあるんだ。遠い昔、遠い世界。今じゃない世界」


 詩人めいた言葉。

 あたしは聞き漏らさないように、相槌を打つ。


 「そうだな。オレも、里香に似た雰囲気の人と会ったことがあるって言えば良いのかな。うん、その方がしっくりくる」

 「・・・・よく、分からないよ」

 「まあな。オレだって分かんねえし。ああっと、いま言ったこと、里香に言うの禁止な」

 「う、うん」


 あたしは言われるまま、頷いた。

 今までみたいな暗い表情じゃなくて、どこか吹っ切れたような感じ。裕ちゃんは自嘲するように笑って、「あーあ」、と背伸びをする。


 「みゆき」

 「うん?」

 「ありがとうな」


 言われて、首を傾げる。

 お礼を言われることをしただろうか。あたしはただ、里香ちゃんのことを聞いただけなのに。

 そのことを言うと、裕ちゃんは、「聞いてもらうだけで楽になった」と頭を下げた。あたしは慌てた。裕ちゃんに頭を下げられるなんて、夢にも思わなかった。

 彼は、あたしの目標なのだ。

 彼の背中が、あたしの道しるべなのだ。

 だから、そんな簡単に頭を下げられては、あたしの立場がない。


 「ところでどうしたんだ、そんな厚着して」


 確かに病院内を回るには暑苦しすぎる格好だろう。コートにマフラーまで完備しているとなれば、いくら寒がりの人でも、暖房が入った病院内で過ごす格好ではない。

 里香ちゃんの本を借りに行くと言うと、納得したようだった。


 「裕ちゃんも借りてきて欲しい本、ある?」

 「・・・・活字アレルギーのオレに対する、嫌味かそれは」

 「あはは、どうでしょうねー」


 昔からマンガしか読まない裕ちゃんに、文字だらけの本は有毒なのだろう。


 「何借りて来いって言われたんだ?」


 あたしはポケットからメモを取り出し、目を通す。

 えっと、確かピーターラビットのシリーズだったっけ。この本は数が多いから、ちゃんと題名をみて借りなければならない。


 「ピーターラビットの・・・・『フロプシーのこどもたち』と、『こわいわるいうさぎのはなし』・・・・? 


 あれ? この二冊を借りてくるんだっけ?

 いや、確か一冊でよかったはず。

 どっちかが駄目で、どっちかが借りてくる本・・・・だった気がする。多田さんとのやり取りのせいで、頭から抜け落ちてしまったのだろうか。

 我ながら情けない。


 「ああ、きっと『フロプシーのこどもたち』だけでいいと思うぞ?」

 「分かるの?」

 「ん・・・・まあ、なんとなく、な」


 苦笑しながら裕ちゃんが言う。

 これ以上追求しても答えは返ってこないだろう。


 「それを言うなら、みゆきのことだってちゃんと分かるんだぜ?」


 イタズラを思いついたように、ニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべる。

 は、恥ずかしい。

 裕ちゃん、その言い回し、すごく恥ずかしいって気づいてるのかな? ああ、気づいてない。きっと、気づいてない。

 向き合うと、ずいっと、顔を寄せてくる。


 「例えば――――――好きなヤツのこととか」


 目の前にイタズラ小僧みたいな裕ちゃんの顔がある。

 すごい恥ずかしい。

 ドキドキと心臓が暴れまわっているのが分かる。この距離のせいで、鼓動の音が聞こえてしまうかもしれない。そう考えると、もっと恥ずかしくなってしまった。

 あたしが赤くなっているのを面白がっているようで、裕ちゃんはニヤニヤと笑っている。

 な、なんかもの凄く悔しい。

 ま、負けるな水谷 みゆき。このくらいでヘコたれてどうする。高校生にもなって、異性の顔を近くから見ただけで赤くなるなんて情けないぞ。

 そりゃあ、キスなんてしたことはないけど。

 ・・・・そうですよ、裕ちゃんは知らないかもしれないけど、あたしは付き合ったことなんて一回もないですよ。ええ。

 裕ちゃんは余裕だなあ。付き合ったことあるのかな? でも、あたしは知らない。中学から疎遠だったし、噂も聞いたことないし。どちらかと言うと、裕ちゃんは大勢のグループを好まないようなのだ。たまに山西くんと話しているのを見かけたことがあるけど。


 「す、好きな人?」


 真っ赤になりながらも、目線は逸らさない。

 負けるな、みゆき。

 ・・・・うわあ、裕ちゃん、意外とまつげ長いんだ。目元は月香ちゃんとそっくりかもしれない。本人たちは兄妹じゃないって言うけど、ちゃんと兄妹してるんだ。

 って、何を考えてるんだろう。そうじゃなくて。ええと。ううっ。


 「そう、好きな人」

 「ゆ、裕ちゃん・・・・?」


 いつからそんな艶っぽい表情ができるようになったのだろう。

 目が離せない。

 裕ちゃんの表情。

 裕ちゃんの目。

 裕ちゃんの、唇。


 「司だろ?」

 「――――――え?」

 「あれ、違うのか?」


 雰囲気が吹き飛ぶ。

 あたしは訳が分からないという表情をして、これまた裕ちゃんも拍子抜けした表情を浮かべている。

 互いに話が噛み合わない。

 司? 司って、世古口くんのことだよね? もしかして一緒にお見舞いに来てるから勘違いされちゃったのかな・・・・!

 あわわ。

 ち、違うんだよ、裕ちゃん!

 確かに一緒にお喋りしたりしてるけど、違うんだってば!


 「・・・・違うのか?」

 「ご、誤解だってば。全然そんなんじゃないよ」

 「ふーん・・・・」


 納得いかなそうに相槌を打つ裕ちゃん。思いっきり目が疑っている。

 少し考え込むそぶりを見せたあと、真剣な目つきであたしを見据えた。引き込まれる。裕ちゃんの目は深い。底が見えない海みたいに、青くて深い。


 「みゆき」

 「・・・・な、なに?」

 「ならさ、オレと付き合ってくれないか?」

 「え?」


 思考停止。

 え?

 ちょ、ええ!?

 
 「ゆゆゆ、裕ちゃん!?」

 「――――――そ、そこまで驚かなくてもいいだろ。いくらオレでもヘコむって」

 「ご、ゴメン。でも、どうして?」


 確かに裕ちゃんに好意がないと言ったら嘘になる。

 つい最近まで疎遠だったけど、あたしたちは幼馴染だ。子供の頃に、「裕ちゃんのお嫁さんになる」なんて、恥ずかしい台詞を言ったことも覚えている。

 ゆ、裕ちゃんが、あたしのことが好き・・・・?

 心臓がドクドク。頭がクラクラ。バックンバックンと五月蝿い鼓動が恨めしい。

 告白されたことはあるけど、そのときだって、こんなことにはならなかったのに。

 は、恥ずかしい。

 それに――――――嬉しい、かも。


 「どうしてって言われても困るんだけど・・・・」


 赤い頬を掻きながら、裕ちゃんは言った。

 確かに告白して、どうして好きなの? なんて聞かれたらあたしだって困る。

 慌てて「ご、ごめんなさい」と謝ると、苦笑しながら、「いや、謝る必要ないって。みゆきだって、他に好きなヤツいるんだろうし」と、裕ちゃんが言った。
 
 告白に対しての返事だと勘違いされちゃった!?


 「ちちちち違うんだってば!」

 「お、落ち着けってみゆき」


 キョロキョロと辺りを見回す裕ちゃんにつられて、あたしも周囲を確認する。そうだ。あんな大声で怒鳴っては、人を呼んでいるようなものだ。この場面で集まってこられてはたまらない。

 落ち着くんだ、水谷 みゆき。

 あたしは告白されたんだ。あたしの答えを、裕ちゃんは待っている。

 落ち着くんだ。

 それから、考えろ。

 ・・・・だけど。

 あたしなんかで、本当にいいのかな?

 あたしの目標だった裕ちゃん。

 頼りがいがあって、面白くて、結構優しくて。

 そんな裕ちゃんと、あたしはつりあうのかな?

 竹久くんのときも感じた、劣等感。

 あたしは“普通”だ。“普通”でしかない。容姿も、頭も、そこいらにいる美人と呼ばれる人には適わない。

 自信がないんだ。

 「好きだ」って言ってくれたのに、本当に裕ちゃんが好きでいてくれるのか、自信がないんだ。

 なんて浅はか。

 それは、他人が信じられないことと一緒ではないか。

 「好きでいてくれているか、信じられない」

 それは、相手を疑うってことだ。

 自分を好きだって言ってくれた人を、疑うってことだ。

 あたしだったら、そんな人は許さない。

 だけど、今は自分がその立場だった。

 酷いよね。

 自分に自信が持てないから、相手のせいにしちゃってる。

 疑うことで、自身を正当化しちゃってる。

 弱いなあ。

 なんて無様なんだろう。

 こんなあたしなんか。

 裕ちゃんに相応しくなんか、ある訳がない。


 「裕ちゃん」

 「・・・・」


 黙って話を聞いてくれる。

 カッコいいと思った。

 きっと裕ちゃんと付き合ったら、楽しいと思う。

 裕ちゃんは優しいから、あたしに気を使ってくれて、だけど毎日が楽しくなって。

 でもね。

 それじゃあ、あたしは弱いままなんだ。


 「あたしはね、強くなりたいの。先生も、両親も、あたしのこと普通だって思ってる。だから無理強いもしないし、怒りもしない。それがね、悔しいの。おまえは所詮その程度だって言われてるみたいで。期待していないって言われてるみたいで。 うん。先生たちが、そんなこと思ってないのは分かってる。自分で自分を卑下しちゃってるの。そんな自分を変えたいと思ってた」


 思っても実行できない。

 人間とは、そんなものだ。
 
 あの雨の日、猫が可哀想だと思っても、飼い主を探そうと躍起になるなんて、普通なら考えもしない。

 でも、世古口くんも。

 そして、裕ちゃんも。

 普通なんて関係ない。自分がしたいと思ったからそうしたんだ。

 そう、二人の背中が言っていたんだ。

 あたしにはない、“それ”。

 その日から、目標になった。

 小さい頃は口先だけで、泣き虫で。

 それでも、こんなに強くなった裕ちゃんを、見習いたいって思った。


 「憧れている人がいるの。背中を追いかけている人がいるの。今はね、その人に追いつきたい、それだけを思ってる」


 今、受け入れちゃったら、きっとあたしは駄目になる。

 きっと、これ以上強くなれない。

 頼りになる裕ちゃんの背中に隠れて、あたしは強くなれない。

 望んでいるのは、隣を歩くことだ。

 企んでいるのは、彼の先を歩くことだ。

 きっと、それはあたしの我が侭。

 こんなあたしでも、“普通”でしかないあたしでも、譲れないものがあるんだ。

 裕ちゃんの目を見据える。

 もう、迷わない。

 裕ちゃんに追いついてみせる。

 裕ちゃんを追い抜いてみせる。


 「だから、付き合えないの。ごめんね、裕ちゃん」

 「――――――そうか」


 一瞬悲しそうに目を伏せて、それからすぐ、嬉しそうに顔を上げた。

 裕ちゃんは、笑った。

 
 「みゆきって、強いよ」


 そう言って、あたしの頭をなでる。

 
 「あっ――――――」


 暖かかった。

 頭をなでられるなんて、何年ぶりだろうか。

 裕ちゃんの手は、大きかった。

 手の大きさじゃない。存在感とか、目に見えない、そういう雰囲気が大きいのだ。


 「――――――ホント、羨ましいよ」


 違うよ、裕ちゃん。

 誰よりも強いもん。

 誰よりも大きいもん。

 きっと、弱いと感じるのは、弱くなる理由があるから。

 完璧な人間なんていない。

 傷つかない人間なんていない。

 その中で、強くなっていくんだ。

 傷ついて、立ち上がって、立ち上がれないほど傷ついても、誰かの手を借りて、また立ち上がる。

 そうしていくうちに、手を差し伸べることができる強さを持つんだ。

 裕ちゃんはあたしを引っ張りあげてくれた。

 普通でしかないと、それでも構わないとウジウジしていたあたしを、決意させてくれた。

 思い出して。

 自分の強さを。

 負けないで。

 自分の強さに。

 何を悩んでいるのか分からない。だけど、行き詰ったら相談して。

 今日だって、楽になったと言ってくれたでしょう?

 こんなあたしでも、話を聞くくらいならできるんだ。

 手を差し伸べることはできなくても、後ろから、背中を押してあげることはできるんだ。

 負けないで。

 負けないで。

 前だけを向いて、裕ちゃん。

 後ろは守るから。

 あたしが守ってあげるから。

 負けないで――――――裕ちゃん。










 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■
 










 みゆきが遠ざかっていく。

 その姿を見送りながら、僕は空を――――――天井を、仰いだ。

 みゆきが話を聞いてくれた。それだけで、僕は癒されたのだ。

 里香のことばかりが気になって、今にも頭がパンクしそう。

 一人で悩んで、誰にも相談できなくて。

 だけど、みゆきに話してしまった瞬間、何もかも放り出して、みゆきに逃れたいなんて思ってしまった。

 ホント、何やってるんだ、僕は。

 みゆきが断ってくれなかったら、どうなっていたんだろう?

 里香を忘れて、みゆきの彼氏として生きることができたんだろうか?

 決まってる。

 無理に気まってる。

 未練たらしくウジウジしながら、みゆきのお荷物になるのは想像に難しくはない。

 そんな意気地なしを。

 みゆきは、バッサリと切り捨ててくれた。

 

 ――――――また、助けられた。



 本当に、感謝してもしきれないくらい、世話になりっぱなしだ。

 今思えば、僕は仲間に支えられていたから、ここまで生きてこられたのだ。

 自分が成長したと天狗になるなんて、はなはだしいにも程がある。
 
 亜希子さん。

 夏目。

 みゆき。

 司。

 山西。

 みんながいてくれたから、僕は挫折しても立ち上がることができたんだ。

 僕は、弱いんだ。

 何度ヤケになったことか。

 何度不貞腐れたことか。

 それでも、夏目に殴られて。

 司に持ち上げられて。

 亜希子さんに引っ叩かれて。

 それでも、みんな、僕のことを心配してくれていたんだ。

 何が好きだ、だ、馬鹿野郎。

 みゆきに逃げようとしていただけないか。

 情けない。

 何をしている、戎崎 裕一。

 思い出せよ。

 里香と幸せだっただけじゃない。

 辛いこともあった。

 情けなくて、死にたくなったときもあった。

 そうやって、そうやって。

 やっと手に入れた幸せに漬かりすぎて、僕は忘れてしまっていたんだ。

 ずっと続くと、そう思い込もうとしていた。

 逃げるな。

 逃げるな。

 ちゃんと考えろよ。

 里香が幸せになる方法を。

 みんなで笑うことができる方法を。


 「――――――みゆき、サンキュ」


 アイツは強い。

 そして、もっと強くなろうとしているんだ。

 負けていられない。

 アドバンテージがあるなんて、関係ない。

 走れよ、裕一。

 今まで散々ウジウジしてたんだから、走り出せよ、裕一。

 転んでも、また走り出す。

 それを、オレは学んだんだろう?

 夏目や亜希子さん。みゆきたちに教えてもらったんだろう!

 里香に会おう。

 会って話をしよう。

 また、みんなで、馬鹿騒ぎしよう。

 僕だけじゃ駄目なんだ。

 みんながいなきゃ、幸せにはなれないんだ。

 どうして忘れていたんだろう。

 
 「・・・・うっし!」


 気合一発。

 頬を叩いて、憂鬱気分にオサラバしろ!

 背中は押してもらった。

 どん底から引っ張りあげてもらった。

 だから、もう立ち止まらない。

 道がなくなったって、空を走り抜けてみせる。

 そうだろ?

 僕はさ、思ったんだよ。

 里香と一緒なら、どこにだっていけると。

 ほら、思い出しただろう、馬鹿裕一。

 里香にミカンを投げられただろう、情けないって。

 ああそうだよ!

 オレは情けないさ!

 カッコ悪いさ!

 だけど、諦めが悪いんだよ!

 臆病でも、見栄を張りたいんだよ。

 彼女が死んでしまうと分かっていても、変えてやりたいんだよ!

 そうさ、僕は無力だ。

 根性なしだ。

 それでもやり遂げるのが、戎崎 裕一だ。

 里香のためなら、なんだってできる。



 

 ――――――里香のためなら、運命だって変えてみせる。





 きっと、難しいことじゃない。



 だって、ほら。

 こんなにも無力なのに。

 こんなにも惨めなのに。

 僕はまた、歩き出すことが、できたんだから。







                                                    ■ "aPProAch"に続く ■