「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」





"ConTacT"






 睨まれた。もんのすごい迫力だった。僕は苦笑いを浮かべたまま、固まった。まさしく、ヘビに睨まれたカエルというヤツである。


 「裕一」

 「は、はい」

 「あたしに約束しな。もう二度と、夜中に病院を抜け出さないって」


 僕はガクガクと、首が外れるくらい激しく振る。


 「しますします」

 「ホントだね? 約束を破ったら――――――」

 「破ったら?」

 「あたしが胃カメラ・・・・、ケツに突っ込んであげるよ」


 文字通り、僕は絶叫した。











 夜中に抜け出しているのがバレたのは、昨日のことである。夜勤の看護婦さんに見つからないよう、細心の注意を払って抜け出していたのに、なぜか今回も見つかってしまった。当然のように僕は厳重注意をくらい、亜希子さんには折檻された。

 おかげで外出禁止令が出されてしまったので、以前のように、司の家に行けなくなってしまった訳だ。

 うう。

 まだまだ、僕は未熟者なのだろうか。

 そんなこんなでアンニュイな雰囲気になっていると、後ろから聞きなれた声がかかった。


 「お出かけかい?」


 今や伝説のエロジジイとなっている、隣の病室の多田さんである。


 「はい、気分転換です・・・・亜希子さんに折檻されまして」

 「ほお・・・・それは羨ましいなあ」


 にへら、と多田さんは笑った。

 もしかしてマゾなんだろうか?

 イヤらしく笑ったジイさんは、元から皺くちゃだった顔をさらに皺くちゃにして、というか、もう目がどこにあるのか分かんねえ。


 「そうやなあ、あれは亜希子ちゃんの愛情表現の一つや。ところで、 興奮冷めやらぬうちに、寄ってくかい?」

 「はい、お邪魔するッス」


 にべもなく僕は答える。

 こういった密会(?)はすでに恒例となっている。多田さんの同士と認定された僕は、ありがたいことに多田コレクションも数冊享け賜っているのだ。

 いわば人生の師匠なのである、このジイさんは。

 そして便利なことに、多田さんの病室は僕の隣だ。歩いて数歩。高齢な多田さんでも、気軽に行ったり来たりすることができる。

 病室に入ると、多田さんはお茶と栗羊羹を出してくれた。さすがは年配なだけあって、そういったもてなしにも気が回っている。


 「坊ちゃんは運が良い。昨日、新しく入荷したばかりなんや」

 「はあ」

 「見て驚け。『洗濯板の憂鬱。午後のプールサイド偏』」


 すごい自慢げに本を掲げる多田さん。病室でエロ本を天にかざすジジイと、それを食い入るように見つめる若者。さぞかし絵になっていることだろう。

 ・・・・というかいつも思うけど、多田さんの守備範囲広すぎだって。

 下は8歳、上は50すぎまではOKだとか。もう変態を通り越して、全能の域にまで逝っちゃってる(誤字にあらず)と思う。きっと健康体だったら、公園で女子高生といちゃいちゃするに違いない。そんで捕まって、TVに出て有名人になるかも。

 伊勢にエロじじい在り。なんて。

 うわあ、すげえヤダ。


 「この、“すらんだー”な幼子が眩しいんや・・・・後30歳若けりゃ、放課後にでも・・・・」


 放課後に何するんだろうか。というより、30若くて50のオヤジが学校内に入ったら、それだけで捕まりそうである。


 「なんだい。すくーる水着には、興味ないのかい?」

 「大好きッス」


 僕はどちらかというと、スレンダー派なのである。










 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■










 すでに見慣れた入り口をくぐり、あたしたちは集団で歩いていく。

 どういう訳か、今日のお見舞いは大勢になってしまった。なんでも、世古口くんは頼まれていたマンガを持ってきたとかで、月香ちゃんは、代わりの着替えを持ってきたらしい。

 ちなみに、実際のお見舞い当番は、あたしである。

 
 「へえ、大分良くなったんだ、裕ちゃん」

 「そうですね。元々風邪みたいなものですから、安静にしてれば治りも早いみたいで」

 「月香ちゃんのお世話のおかげじゃないの?」

 「冗談でも怒りますよ、ゆき姉さん?」


 小学生とは思えない眼光で睨んでくる。はっきりいって、亜希子さんっていう看護婦さんと同じくらい迫力があると思う。

 だとしたら、月香ちゃんは将来、亜希子さんみたいになるのだろうか。

 ・・・・。

 さて、裕ちゃんの病室はっと。


 「あれ?」


 先行していた世古口くんが立ち止まったので、それに習って、あたしたちも足を止める。


 「裕一、部屋にいないよ?」
 
 「トイレじゃないの?」

 「・・・・待っていれば戻ってくるんじゃないですか?」


 確かに、病人だからって一日中部屋にいる訳でもない。トイレにだって行くし、小腹が空けば売店にだって行くだろう。

 裕ちゃんの性格からして、大人しく寝ているなんて考えられないだろうし。

 幸い、身内である月香ちゃんがいるので、黙って病室にいても怒られないはずだ。

 






 

 「・・・・こないね」

 「うん」


 十分がたった。トイレに行ってるとしたら、戻ってきてもおかしくない時間である。

 
 「馬鹿裕一、どこで道草くってるんだか」


 露骨に顔をしかめ、月香ちゃんが毒づいた。

 初対面である世古口くんは引き気味だけど、これが彼女の普通なのだ。別に機嫌が悪い訳じゃない。だけど、やっぱり初対面の世古口くんは、そうも思わないようで。


 「た、たぶん、検査とかしてるんじゃないのかな?」


 月香ちゃんが独り言を言っているときは、聞き流すのが最良である。だけどそれを彼が知るはずもなく、ああ、世古口くん。今回はお人好しが裏目に出てしまったかも。

 視線を向け、茶髪が揺れる。


 「今日、明日と検査はありません。一応、検査日程は暗記していますので」

 「そ、そう」


 明らかに体格で勝っている世古口くんが小さくなってしまった。裕ちゃんも言っていたけど、どうも彼は押しが弱いみたいだ。それが優しさでもあるんだろう。「まあ、司の良い所であり、悪い所なんだよな」と、裕ちゃんが嬉しそうに言っていたのを思い出す。

 あたしも、その意見には賛成だった。

 そうでなければ、雨の日に仔猫の飼い主だって探さないだろう。良い意味でも、悪い意味でも、世古口くんは純粋なのだ。

 
 「でも、病院内で行く所なんて、限られてるんじゃない?」
 

 頭に浮かんだのは、売店と入り口付近の待合室。あとは休憩所。そこくらいしか裕ちゃんが行きそうな場所は思いつかない。

 
 「・・・・そうですね。トイレでも検査でもなければ・・・・もしかしたら、どこかで倒れてるかもしれません」


 心配そうに月香ちゃんが言う。

 自分でも認めていないけど、彼女は結構な心配性である。それに、その症状は兄である裕ちゃんに、過敏に向けられているようだ。

 世話焼きな妹と、ちょっと抜けた兄。

 微笑ましい構図だと思う。

 あたしは弟がいるんだけど・・・・姉や兄はいないのだ。人間とは欲張りなもので、持っていないものこそ欲しがったりする。例に漏れず、あたしはお兄ちゃんに憧れていた。

 最近、逞しくなった裕ちゃん辺りがお兄ちゃんになったら、なんて。

 
 「ちょっと探してきます――――――」


 白い指先がドアに掛かろうとした、ちょうどその時。

 勝手にドア側が開いてくれた。

 裕ちゃんかと思ったけど違うみたいだ。看護婦の亜希子さんが顔を覗かせる。


 「なんだ? 裕一はいないのか・・・・せっかく里香ちゃんと仲良くなるチャンスを持ってきたっていうのに」

 「あの・・・・裕一は」

 「大方、多田さんトコ行ってるんだろ。隣の病室だよ」

 
 視線を寄越して教えてくれる。

 そうですか、と、月香ちゃんが肩を下ろす。なんだかんだ言って、やっぱり心配してたみたいだ。


 「――――――話は変わりますけど、『里香ちゃん』って誰なんですか?」


 隣で世古口くんも頷いた。たぶん、『里香ちゃん』ってぐらいなんだから、女の子なのは分かるんだけど。


 「ん? 最近転院してきた女の子だよ。17歳の」

 「裕ちゃんと同い年ですね」

 「この病院は年寄りと中年しかいないからね・・・・話し相手になるなら、歳も近い方がいいだろ?」

 「それで裕ちゃんに」


 ああ、と、亜希子さんが頷く。

 
 「でも、いないんじゃしょうがないな。そうだ、アンタたちに頼んでいいかな、その役割」

 
 これは明暗だ、とばかりに亜希子さんは、うんうんと頷いた。

 確かにあたしと同い年だし、初対面の男の子よりは、同性である自分の方がいいかもしれない。

 でも、ここで首を振ってしまってもいいのだろうか。

 きっと裕ちゃんなら――――――。


 「亜希子さん、その女の子、入院してるんですよね?」

 「ああ」

 「・・・・だったら、病気持ちじゃないですか。気軽に会っても大丈夫なんですか?」


 サバサバとした亜希子さんには珍しく、「あ、ああ。そうだな」と、曖昧な返事を返してくる。

 それで分かってしまった。

 軽はずみに言えない病気を、里香ちゃんという人は患っているのだと。

 でも、どうすればいいのかな。

 きっと、病院暮らしは暇に違いない。あたしだったら話し相手は大歓迎だし、友達は多いに越したことはない。

 だけど・・・・。

 
 「話し相手になってもらうだけでいいんだ。頼むよ」


 あたしたちは、顔を見合わせる。


 「私は良いと思いますけど」

 「うん。僕も」


 月香ちゃんと世古口くんは賛成のようだ。

 だったら、あたしの答えだって決まっている。

 コクン、と、亜希子さんに向かって頷いた。


 「じゃあ、行こうか。東病棟なんだ」


 そうしてあたしたちは、裕ちゃんのいない病室を後にした。











 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■











 多田さんの病室を後にした僕は、紙袋を抱えて自分の部屋へと戻る。中身は追加で貸してもらった“スレンダーコレクション”である。年甲斐もなく熱い弁をふるった多田さんは、気力を使い果たして眠りこけてしまった。そして帰り際、満足そうな表情でこれを渡してくれたのだ。


 『これを、持っていきんさい――――――』


 溺愛していた娘を嫁に出すような、そんな表情だった。その後、パアぁ、と、空から光が降ってきて、多田さんは静かに眠りについたのだ。ああ、パトラッシューって感じに。

 ありがたく受け取った僕は、亜希子さんに見つからないうちに、ベッド下に本を隠さなければならなかった。バレたら没収されるかもしれないのだ。多田さんの娘、なんとしてでも安全圏に迎えなければならなかった。

 しかし亜希子さんが現れることもなく、無事にコレクションは地下へと潜ることに成功した。

 ああ、イエスキリスト。ブッタ。主よ、なんとなく感謝します。ラーメン。


 「あれ?」


 よく見ると、いろんな荷物が増えている。


 「司か? それにしては多いな」


 女ものの服はみゆきだろうけど・・・・うわっ、月香まで来てるのかよ。

 僕の友人大集合じゃないか。

 でも、姿が見えない。どこにいったんだろうか。


 「ううん・・・・ま、適当に探してみますか」


 運動不足な身体には丁度良いリハビリだろう。

 僕は外に出たときのために、パーカーを被って歩き出した。










 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■











 秋庭 里香ちゃん。

 ロングの黒髪が眩しい、かなりの美少女だった。病室に入った瞬間、あたしと月香ちゃんが見惚れてしまったほどである。

 容姿が平均並みの自分としては、コンプレックスを感じる訳だけど、月香ちゃんも同じ思いらしく、やや引きつった笑みを浮かべた。

 というか、月香ちゃん。

 あなたも負けず劣らずの容姿を持っているのには、気づいているのかな?


 「あれ・・・・谷崎さん、男の子って言ってませんでした?」


 里香ちゃんが不思議そうに言った。


 「ああ。でもさ、ちょうどソイツが留守だったから、代わりにいた友達連れてきたんだ」

 「そうですか」


 なんだろう? 少し残念そうに見える。


 「秋庭 里香です」


 ペコリ、と、長い髪を揺らしながら里香ちゃんが頭を垂れる。

 慌ててあたしたちも頭を下げた。

 さすがは美少女というか、その一動作がサマになって見えてしまう。病院暮らしのせいか、線が細いけど、かえってそれが神聖に感じるのは気のせいじゃないだろう。

 肌も真っ白だった。

 粉雪みたいなそれが、眼に眩しい。


 「戎崎 月香です」

 「水谷 みゆきです。よろしくね」

 「せ、世古口 司でしゅ」


 緊張してたせいか、世古口くんが下を噛んでしまったようだ。本人は顔を真っ赤にして俯いてしまっているけど、里香ちゃんは微笑ましそうにクスクスと笑っている。

 緊張を解く役割を、彼は身を張って演じてくれたようだ。

 









 それからは、他愛もない話に花を咲かせた。

 世古口くんの趣味がお菓子作りだと名言したとき、里香ちゃんも月香ちゃんもびっくりしていた。それも当たり前だろう。彼の、あの巨体でケーキを作っている姿なんて、誰だって想像できない。あたしだって知ったのは、クラスの調理実習のときなんだから。男子が敬遠する作業を、嬉々としてこなす姿を見た女子は、少なからず目を疑ったものだ。

 おかけで今では、『マスター世古口』なんて呼ばれている訳で。


 「楽しそう・・・・学校って」


 何気なく呟かれた一言で、あたしたちは沈黙してしまった。

 軽率だった。

 あたしたちにとっては当たり前のことかもしれないけど、里香ちゃんにとっては、手の届かないものなのかもしれない。事情を知らないからと言い訳も出来る。だけど、失言だったと、あたしは後悔した。


 「でも」


 月香ちゃんが、淡々と言う。


 「みんながみんな、楽しい所でもないですよ」

 「そうなの?」

 「ええ。現に、私はあまり楽しくありません。出来れば遠慮したいくらいです」


 そうなのだ。

 昔から、月香ちゃんは学校に馴染めない様子だった。周囲より精神的に熟しているせいか、上手くとけこめないのを、小母さんは心配していたのを思い出す。

 どちらかというと、裕ちゃんも似たような感じである。そのせいか、二人の口喧嘩では、度々「友達が少ないくせに」という言葉を耳にする。

 別に虐めがある訳でもないらしい。

 そして二人とも、その事実に不満がある様子もない。それどころか「友達少ない」という、変な仲間意識さえ持っているように、あたしは感じている。


 「うん、そうかもね。病院だって一生いたいって言う人もいれば、すぐに脱走する人だっているし」
 

 神妙に里香ちゃんが頷く。どうやら違う意味で捉えられてしまったようだ。


 「ん? ああ、すまん。長居する暇ないんだった。後は頼むよ」


 時計を目に入れた亜希子さんが、慌てて病室を出て行った。

 呆気に取られる一同に、里香ちゃんは苦笑しながら言う。


 「きっと、婦長さんに呼び出されてたのを、忘れてたんだと思う」
 

 あの・・亜希子さんでも頭の上がらない婦長さん・・・・かなり怖そうだ。


 「あれ?」


 世古口くんが入り口の方を見ながら、首を傾げる。


 「どうしたの?」

 「うん、誰かいたような気がしたんだけど」


 頭を掻きながら、彼は笑った。


 「気のせいだったみたい」











 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■











 亜希子さんが里香の病室から出てきたから不思議に思って、少し覗いて見ると、中には談笑する司たちがいた。

 ああ、そういうことか。

 ようやく、目に見えてズレてきた・・・・・・・・・・

 きっと今日が、僕と里香が出会った日なのだろう。

 監視強化を解いてもらう代わりに、亜希子さんは僕に、里香の話し相手を頼むのだ。それが僕たちの出会いだった。

 だけど今日は、多田さんの病室にいた。

 そして代わりに僕の病室にいた彼らが、僕の代わりに話し相手になっている訳である。

 思い出すのは、芥川龍之介の本。

 仲良くなる口実に持っていった本だけど、僕は内容を露ほども知らなかった。そこを里香に指摘されて、大恥を掻いた記憶がある。

 今思えば、最悪の出会いだった。

 でも。

 だからこそ、こうして、忘れられない思い出となっているのも、また事実だった。

 気配を消して、僕は立ち去る。

 考えるな。

 あの輪の中に自分も入れたら、なんてことは考えるな。

 これでいいんだ。

 こうして環境が変わっていけば、里香の寿命だって延びるかもしれない。

 これで、いいはずなんだ。

 そうだろ? ――――――里香。












 屋上に出るなり、僕は思いっきり壁を殴りつけた。

 痛いなんてもんじゃない。

 気が飛びそうになる激痛だ。





 ――――――里香と話したい。





 殴る。





 ――――――里香と笑いあいたい。





 殴る。





 ――――――里香に触れたい。





 殴る。





 ――――――里香にキスしたい。





 殴る。



 「・・・・っ、痛ぅ」


 皮が剥けて血が出ている拳を、僕は呆然と見つめる。

 我ながら、決意が甘いものだ。

 僕が関わっては駄目なのだ。

 里香が死ぬっていう、最悪な未来と、まったく異なる結末にするには。

 僕という、確定要素・・・・は、いない方が好ましい。

 だから、できるだけ自分が関わることがないように、注意を払わなければならない。

 もしかしたら、いたかもしれない、以前の里香のパートナー・・・・・・・・・・・も、同じようなことをしたのかもしれない。

 逆行なんていう、不可思議な体験なんて、そう何度もあるものじゃないんだ。僕が知らない、以前のバートナーが絶望して、僕が里香を愛して。

 そして僕が絶望して、今度は違う人間をパートナーにしようとしている。

 ほら、そう考えれば、辻褄も合うだろう?


 「はは・・・・」


 乾いた笑いを上げる。


 「何を馬鹿な・・・・頭までおかしくなってきたか、オレ」


 拳の痛みが、思い出させてくれる。

 どちらにしろ、自分は里香にとって有害でしかない。害虫は害虫らしく、無様に死ぬのがお似合いなのだ。

 その中で里香を守って死ねるというのなら、本望じゃないか。

 クソ。

 無性に酒と煙草が欲しくなってきた。

 いや、どっちも試したことないんだけどさ。


 「――――――砲台山、か」


 血濡れになっている右手を、砲台山方面へとかざす。

 里香が手術を受けると決意した、あの夜さえ回避すれば、違った結果が出るかもしれない。

 そうすれば、少しぐらい里香と話したって・・・・。


 「馬鹿か、てめぇは」


 相変わらず女々しいものだ。

 諦めろ。

 忘れろ。

 彼女の笑顔のために、僕は返ってきたんだ。

 それを不完全なまま壊して、何がしたいのだ。

 ここ・・の里香は、きっと別人だ。

 僕が愛した里香は、あの朝焼け空の下で、死んでしまったのだ。

 彼女のためにも。

 最後まで、馬鹿だった僕の、せめてもの罪滅ぼしのためにも。

 秋庭 里香の笑顔を、守ってやるんだ。


 「でもさ、」


 辛いんだよ。

 苦しいんだよ。

 他の人と笑っている里香を見ていると、胸が痛いんだよ。

 彼女の笑顔を守るって誓ったのに。

 その笑顔を、壊したくなっちまうんだよ。

 
 「オレは、最低だから、つい、考えてしまうんだ」


 彼女が死ぬまでの時間を、一緒に過ごしていこうって。

 リミットが決まっていても、それまでは、最高に幸せな気分で、過ごしていけるんじゃないかって。

 そうすれば、里香の笑顔を守れる。

 そうすれば、僕だって辛くない。

 だけど、その分かれ道は、もう過ぎてしまった。

 里香は司たちと出会い、僕は蚊帳の外。

 知り合いかさえ怪しい、顔見知り。
 

 「もう、覚悟を決めろってコトか・・・・」


 ズキズキと痛む拳が、僕の背を後押ししてくれる。











 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■











 「戎崎さんって、お兄さんいるんだよね?」


 唐突に、里香ちゃんが切り出した。


 「ええ。裕一っていうんですけど・・・・」


 不思議がっている月香ちゃんを見て分かったのか、その理由を話し始める。なんでも、亜希子さんからいろいろ聞いていたらしい。

 それも頷ける。なにせ病院内唯一の同年代なのだ。必然と彼女が興味を持つのも分かる。

 でも。


 (裕ちゃん、そんなこと、一言も言ってなかった気がする)


 性格を考えれば、すぐにでも飛びつきそうな話だと思う。美少女だって有名な里香ちゃんだし、何より、一人で寂しがっている人を、裕ちゃんは見捨てたりしないはずだ。

 きっと本人に言ったら否定するだろうけど、あたしはそう思っている。

 昔の裕ちゃんならいざ知らず、今の裕ちゃんは、誰よりも人の優しさを知っているのだ。

 彼は、あたしの目標。

 誇るべき、幼馴染なのだから。


 「残念だなあ・・・・その人に会ってみたかったのに」

 「今度、連れてきます。でも、あまり期待しない方がいいですよ? 裕一だし」


 聞くと、里香ちゃんはおかしそうに笑った。


 「うん、楽しみだなあ」


 まるで、待ち焦がれている恋人を思うような彼女の響きに、あたしたちはそろって首を傾げるのだった。
















 裕ちゃんの病室に戻ると、そこには手を治療してもらっている部屋の主の姿があった。


 「ど、どうしたの、裕一!?」


 声を荒げて世古口くんが聞く。声には出していないけど、あたしも月香ちゃんも、目を見開いて驚いている。

 手を切ったなんて生易しいものではない。

 処置してもらっているその手は、目を背けたくなるほど酷かった。


 「別に、大したことじゃない」


 目を逸らしながら言う。

 階段から転げ落ちても、こんな酷い怪我はしないだろう。それこそ素手で何かを殴りつけない限り、こうもいかない。
 

 「病院抜け出したらさ、絡まれて。喧嘩したまではよかったんだけど、すっぽ抜けて、壁をこう、グシャっと」


 にへら、と裕ちゃんは笑った。


 「・・・・ホントに、何やってるんですか」

 「まあ、骨には異常はないですから、しばらくすれば直ると思いますよ?」


 処置を終えた看護婦さんがそう言い残して去っていく。

 残されたあたしたちは、なんとも言えない雰囲気になってしまった。


 「そ、そういえば。今日ね、秋庭さんっていう人と友達になったんだ」


 耐えかねた世古口くんが、話題を変えるべく話し始める。


 「――――――へえ。」


 まるで能面のような笑顔。

 あまりの異様さに、意気込んで話そうとしていた世古口くんまで、声を詰まらせてしまった。あたしだって、自分がどんな顔をしているのか、想像もつかない。月香ちゃんは不快そうに顔をしかめている。


 「・・・・ん? ああ。良かったな、司」

 「え? う、うん」


 さっきまでの顔が嘘の様に取り払われる。下手すれば見間違いだったとさえ思えてしまう、ほんの一瞬の出来事。

 裕ちゃんはいつも通りの表情だし、世古口くんも、見間違いだったと思ったらしく、普通に話し始めた。

 そんな中で、あたしと月香ちゃんだけは、ショックから立ち直れないでいた。


 『――――――へえ。』


 それは妬みだったのだろうか。

 それとも、憎しみだったのだろうか。

 あたしには、裕ちゃんが思っていることなんて、分かるはずもない。だけど、妹である月香ちゃんなら。


 「・・・・」


 何か、感じ取ることが、出来たかもしれない。


 「それでね、秋庭さんに裕一のこと話したらね、ぜひ会ってみたいって」

 「そうか。そんな美少女がオレに。うはは。もてる男は辛いなあ」


 うはは。

 うはは、と。

 裕ちゃんは、道化の様に、笑い続けた。






                                                 ■ "rEFusal"に続く ■