「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」



"AM 5:11"







 夏目は無言だった。

 亜希子さんも、おばさんも、僕も。

 

 ――――――そして、里香も。



 「9月23日、午前5時7分永眠・・・・一足、遅かったな。戎崎」



 夏目は無表情に言った。目はどこか虚ろで、天井の一点を見つめている。恐らく僕なんて眼中には入れたくないのだろう。

 ベッドに横たわっている里香は綺麗だった。

 病的に白い肌。

 長い病院生活のせいで殆んど伸ばしっぱなしの黒髪。

 その一つ一つが美しくて、里香は人形のようだ。

 

 「り――――――」



 か、と言おうとして僕は口を噤んだ。言ってしまったら彼女を汚してしまいそうで。

 里香はぴくりとも動かない。

 当たり前か。なにせもう、里香は死んでしまったのだから。

 でもさ、“死”って一体ナンなんだよ?

 心臓が止まって脳も死んで。細胞の全てが機能を停止して。

 それだけの理由で“里香”はもう動かない。

 性質の悪いロボットじゃあるまいし。

 人間って、そんな簡単に壊れるものなのかよ・・・・?

 


 結局のところ、僕は最後まで大馬鹿だった、ということだろう。

 お前と共に生きるって。

 お前が居なきゃ生きていけないって言っておきながら、僕はのうのうと生きている。

 あんまりだ。

 少し病院を抜け出している間に逝ってしまうなんて、なんて馬鹿げた作り話だ。

 ドラマじゃないけどさ、僕は考えてたんだ。

 里香を看取るときは二人っきりの病室で。

 今まで楽しかった思い出に花を咲かせて、苦笑して、微笑して、そしてゲラゲラ笑って。

 語ることがなくなるまで語り合って。

 そして、里香が眠くなっちゃったって、僕に言う。

 ・・・・うん。

 おやすみ、里香。

 軽く触れ合うだけのキス。

 えへへ。

 里香が笑った。

 あはは。

 僕も笑った。

 そうして里香は満足そうに目を閉じるんだ。

 なのに、なんだ、この有様は。

 里香の死に目にも傍に居ることができない。

 恨み言の一つも聞いてやることができない。

 里香が死に瀕しているってときに、僕はあろうことかTVの前でコントローラーを握ってたんだ。

 


 「り、里香は、その、」

 「・・・・」

 「何か、言ってましたか?」

 

 夏目はぴくり、と眉を動かして、



 「何も言わなかった・・・・いや、言えるような状態じゃなかった。

  ・・・・苦しみだしてから心配停止状態になるまで、そう時間はかからなかったからな」



 里香は、苦しかったんだろうか。

 痛かったんだろうか。

 誰も居ない夜の病室で、急に胸が痛くなって。

 ナースコールを押すのがやっとだったんだ。

 きっと今までの思い出とか、好きだった人とか、お世話になった人の事とか。

 考える余裕なんてなかったはずだ。

 僕だってそれくらい分かる。

 僕がかかったウイルス性の肝炎は死ぬような重い病気じゃない。でも病状が悪くなると、それこそ何も考えられなくなる。数段レベルアップした風邪だと言えば分かりやすい。

 朦朧として、ただ辛くて。

 誰が悪いとか、何が原因だったのかなんて考えるどころじゃない。

 ただ漠然と思うのだ。

 誰か助けてくれ、と。


 
 「よくあるんだ、こういう病気は。里香の場合、心臓の組織そのものが弱いから下手に処置できない。

  カウンターショックも無理。

  心停止状態で一番効果的な方法は開胸して直接心臓をマッサージすること。それこそまさかだろう? 

  結局、何もできなかったのは俺もお前も同じだ」



 なぜだろう。

 こんなにも悲しいのに。

 こんなにも胸は張り裂けそうなのに。

 涙が一滴も出てこないのは。

 里香が死んだら、きっと大泣きすると思ってた。男のくせにわんわん泣いて。泣いて、泣いて。

 枯れはてるまで泣き続けるって。

 亜希子さんは泣いていた。

 ボロボロと、滝の様に泣きはらしている。

 僕だって悲しいさ。

 けど。

 それ以上に、何もないんだ。




 死というものは、こんなものなんです。

 里香の髪をすきながら、おばさんは言った。

 死は唐突に訪れると。

 気づかぬうちに、誰も知らぬうちに。

 大事な物を奪っていくのだと。

 


 夫のときもそうだった。

 病気と闘っていく。

 二人で闘っていく。

 でも一年中一緒に居られる訳はない。

 二人は夫婦とは言え、それぞれの生活がある。

 少しの時間、離れる時間が絶対に存在する。

 皮肉なことに。

 死神は本当に意地が悪かった。

 二人が離れている隙を狙って鎌を振り上げる。

 老衰患者のように死期を予想出来る患者は少ない。

 “死”は唐突で、気まぐれで。

 こちらの都合など、考えもしてくれない。




 おばさんは夫の死に目に立ち会えなかったそうだ。

 そして忘れ形見である娘のときも。

 きっと悲しいに違いない。

 きっと憎いに違いない。

 おばさんは泣いていなかった。

 僕と同じように、疲れきった表情をしていた。

 


 ――――――ああ、うたかたの夢が、終わってしまったんだ。




 里香はどう思ったのだろうか。

 こんなにも愚かな僕を。

 浅はかな僕を。

 せめて。

 せめて、「大好きだ」と。

 それすらも、僕は伝えることができなかった。

 里香の顔は安らかなのに。

 なぜ、こんなにも。

 悲しそうに見えてしまうのだろう。
















 おばさんと亜希子さんを残して、僕と夏目は廊下に出た。

 そして頬に衝撃。

 情けなく僕は地面を転がった。

 頭がぐわんぐわんする。

 でも分かる。

 これはきっと、夏目に殴られたんだと。



 「悪いな、戎崎。一発殴らせろ」



 言うのが遅いんだよ馬鹿医者。

 それになんだよ。

 なんでそんなに泣きそうな顔なんだよ。



 「それと、ついでに俺を殴れ」



 言われるまでもない。

 きっと僕達は殴りたかった。

 そして殴られたかった。

 無力な自分を。

 無力な他人を。

 


 二人して頬を赤くして。きっとすぐに紫色になるんだろうけど、これは戒めだ。

 


 「お前、どうするんだ?」




 わからない。

 わかりたくもない。

 里香の居ない世界なんて興味はなかった。

 だけど。

 自分から命を絶つことが出来るほど、僕は根性あるヤツだとも思えなかった。

 なんてザマだ。

 今まであんなに大口叩いておいたところで、肝心なときにこれだ。

 里香と共に生きる。

 里香と共に死ぬ。

 ・・・・そうだよ。

 結局のところ、自分は所詮口先だけの男だったってことだ。

 誰か教えてくれ。

 僕はどうすればいいんだ。

 生きていくのか。

 死ねばいいのか。

 誰を、恨めばいいのか。

 里香に手術を決意させた、僕が悪いのか。

 里香を執刀した、夏目が悪いのか。

 僕を置いて死んでしまった、里香が悪いのか。

 わからないことだらけだ。

 あんなに幸せだったのに、一夜で不幸のどん底のさらに底まで落ちてしまった。

 


 ――――――今はさ、疲れてんだ。




 だから何も考えたくはなかった。

 里香の眠る病院が恐くて。

 里香のいない世界が恐くて。

 僕は一人で病院を抜け出した。

 あとから司とみゆきが来るって言ってたけど、アイツらに今は会えそうにもないから丁度いい。

 














 空を見上げると、オレンジ色だったそれは蒼に変わっていた。

 きっと里香は、朝焼けに染まった空の下で最後の刻を迎えたんだろう。

 苦しくて。

 苦しくて。

 でもその途中の、途切れる意識の中で。

 里香は何を想っていたのだろう。

 それを確かめる術は僕にはない。

 だって里香は――――――もう死んでしまったのだから。
















 蒼い空には、いつか見上げた半分の月。

 僕は病院から離れて砲台山へと向かっていた。

 徒歩だと結構かかる道のりだけど、今は苦だとは思わない。

 そして寂れた伊勢市を通る国道の交差点で、僕は立ち止まった。前方の信号は赤。なぜだかそれが、酷く禍々しく見えてしまう。

 忘れろ忘れろ忘れろ。

 













 ――――――おまえもそのうち好きな子ができるんだろうなあ。いいか、その子、大事にしろよ。
















 なあ親父。

 僕は、里香のことを大事に、大切にできたのかな?

 馬鹿親父は母さんを泣かせっぱなしだったけど、それでも母さんは親父のんだくれを最後まで愛していた。

 すげえよなあ。

 一体何があったらそんなベタ惚れになるんだろうか。

 きっと母さんは確信しているんだ。

 自分は大事にされているんだ。

 愛されているのだ、と。

 泣かされているのに愛されているなんて、おかしな矛盾。

 けどさ。

 親父も、母さんも。

 互いに愛し合っていることだけは、信じあっていたんだ。
















 蒼い空には、いつか里香と一緒に見上げた半分の月。

 正直言って、僕には自信がなかった。

 里香が最後まで僕を好きでいてくれたのか。

 肝心なときに居てやれなかった僕を、里香は好きでいてくれたんだろうか。



 僕は、恐いんだ。



 この張り裂けそうな悲しい気持ちも。

 里香を大好きだったこの気持ちも。

 いつか時間と共に薄れていきそうで、僕はとてつもなく恐いんだ。
















 ――――――どうしてだろう。

 里香の顔を見たときでも泣けなかったのに。

 半分だけの満月を見ている、それだけで。

 僕の涙は、止まらない。



 信号の青と、朝方の空の蒼が、どうしようもなく、目に染みた。
















 ――――――裕一って、大馬鹿だよね。








 そんな誰かの声が、聞こえたような気がした。










                                                       ■ "Re_set"に続く。■