"ever" 何をしても上手くいかない日ってあるだろ? まさに今日がそんな日だった。なし崩し的に流されてきた僕でも自我ってもんは数グラムばかりは残っていて、それが僕の僕である証拠だったのだ。この風にさらわれたら目も当てられない『僕』の自我も、今日に限って疎ましいことこの上ない。 道端に生えている名も知らぬ雑草に目をやって、羨ましいよなあ、と渇望してみる。その脳みそがないところとか、踏まれてもすぐに復活するところとか、雑草と馬鹿にされているにしてはトンデモ能力を有してるじゃないか。 僕がこの雑草だったら一生悩みもせずに生きていけたのかもしれない。 だってそうだろ? いい会社に就職するために役に立ちそうもない方程式とか化学式やらを覚えなくて済むんだ。勉強しろなんて言われない。金がなくても気にならない。そもそも考えることもしないから、毎日があっという間に過ぎ去って、いつの間にやら枯れている、なんて話。 確かに人生に張り合いがなくて、なんのために生まれてきたのか分からないかもしれないけどさ。 考えてみれば、誰だって同じようなものだろ? 勉強するのはなんのためだよ。金を稼ぐのはどうしてだよ。子孫を残すのに価値はあるのかよ。 考え出したらきりがない。この世の全てが馬鹿馬鹿しく思えてくる。卑屈になってるって分かってるつもりさ。だけど誰だって一度は思うだろ? それこそ庶民しか考えないことかもしれない。でもさ、僕が生きていくのに、理由なんてあるはずがないじゃないか。 身分を持って生まれてくればそれでいいさ。そいつは敷かれたレールの上を走ることに不満を持つかもしれないけど、それは戯言だ。ふざけんな、って言ってやりたい。走るレールがあるだけマシってもんだろう。中には塗装も何もされていない砂利道、それこそ山奥の獣道を進まなきゃならない連中だっているんだ。上でも下でもない僕が言うのもなんだけど、この僕にしたって進むべき道が見出せないでいる。 考えられる脳みそを持つぶん、人間は迷うことが義務付けられていて。 雑草だったら悩む必要もない。ただ漠然と毎日を過ごし、自分でも気づかないうちに死ぬ。なんて素晴らしい人生なんだろう。 死にたいけど痛いのは嫌だ。 生きたくないけど死ぬ勇気もない。 何も考えずに死ねる彼らが羨ましい。 ああ、誰かが言ってたよな。死ぬくらいだったら足掻き続けろ、ってさ。そりゃあ、口だけだったらなんとでも言える。こんな僕だってありがたいお経でも唱えられる。聖人のお面被って偉そうに説教するんだ。 はっきり言おう。馬鹿にしてるのか、あんた。 なに分かった顔してスマイル浮かべてんだか。いい人だってことは分かる。無視して気にもかけないよりはマシだってことも分かってる。だけどさ、こっちはそれどころじゃないんだ。自分のことで精一杯の人間の視野は狭くなる。他人に気をかける余裕が消え失せる。耳から入ってくる音源はどれも不快にしか感じられなくて、同情の視線がいたく気に触る。 結局はさ、痛みってものは当人にしか分かり得るはずがないんだ。 だから僕の心情を癒せるのも、傷口を塞ぐのも僕にしかできないことなのだ。必死になって傷口を押さえて、その出血の多さに呆気に取られる。ぽかん、とトマトジュースみたいに溢れ出てくる血液を口を半開きで眺めて、だんだんと冷たくなっていく身体を感じて。 ――――――ああ、死んだなあ、と僕は思ったのだ。 肉体的なものじゃなくて、精神的なもの。 僕の生きる理由だった彼女が死んで、僕の心もまた死んだ。考えてみれば当然のことだ。それまで胸を張れるものなんて一つもなかった僕が手にした初めての存在理由。彼女と一緒なら、どこにだって行けるとさえ思った。二人でなら生きていけると、生きていきたいと思った。 いい会社に入るためでもなく。 金を稼ぐためでもなく。 子孫を残すためでもなく。 ただ、彼女と生きていくことに意味を見出したのだ。 ならば彼女が死に、僕も死ぬのは当然のこと。そしてのうのうと生き残っている僕が途方もなく腹立たしい。さっさと死ね、と言いたいところだけど、こんな意気地なしの戎崎 裕一には自殺なんて偉大なことができるはずもなく。 夜の国道をズルズルと這いずるように歩いていた。 なんでこんな場所に居るのだろう。って考えるまでもない。僕は逃げ出してきたのだ。病院から、里香から。怖くなって尻尾を巻いて逃げ出してきた。こんなにも馬鹿で阿呆で醜悪な人間はそうはいないだろう。情けなくて泣けてくる。本当に救いようのない野郎だよ。 この気に及んで無様に酸素を消費している上、こんな世界なんて滅んじまえばいい、なんて戯言をぬかしている。 戎崎 裕一がそう思ったところで、明日には何事もなかったかのように太陽が昇ってくるのを知っている。それが悔しい。里香が死んだっていうのに。僕がこんなにも死にそうになっているのに。何事もなく続いていく日常が酷く腹立たしい。 なあ、神様、と僕は歩き続けながらそう願掛けをしてみた。 頭上の街灯は頼りなく僕を照らして、足元には真っ黒な足長野郎が踊っている。なんか滑稽だった。まるで今の僕みたいだった。 そのまま薄汚れたガードレールに沿って足を進める。 なあ、神様。あんたが里香を奪ったんだろ? 僕の生きる理由を奪ったんだろ? だから僕はあんたを恨むよ。死ねない意気地なしの自分を恨むよ。でもさ、腹の立つあんただけどさ、最後に一つだけ教えてくれよ。 僕は。 僕は―――――― これから、どう生きていけばいいんだよ。 もうどうでもいいや。 死んだって構うもんか。 そんな根暗な思考が広がったときに、 そんなときに、この町でも一番大きな十字路に差し掛かったときに、彼女の声が聞こえたんだ。 「――――――っ、はっ」 眩暈がした。どんとくる眩暈だ。そのまま顎を突き出した形になって、僕はよろけた。一瞬で目の前にカーテンが降りる。足元も見えない状態で、平衡感覚も役には立たず、倒れそうになる。膝がかくっと折れた。続けて左肩から力が抜けた。そして僕は倒れこむ。 床にダイビングなんて趣味じゃない。それも受身の取れない後ろ倒し。洒落にならないよな、と思ったところで、掌は柔らかい感触を感じた。 気の抜ける音だ。ベッドに倒れこんだらしかった。おかしな話で、僕は確かに病室に足を踏み入れて、後方は廊下だったはずなのに。けれど今はベッドの上。おかげで自重を乗せた逆ヘッドをかまさなくて済んだわけで、脳みそがシェイクされずにも済んだわけだった。元々高性能でない僕の脳がこれ以上使いものにならなくなったら笑えないジョークである。 それにしても、 「摩訶不思議な世界ですね」 「それだけ坊ちゃんがズレてきた証拠なんだなあ」 そうですか、と呟いて僕は身を起こした。眩暈はなくなっている。少し頭がぐわんぐわんする程度だ。 辺りを見回すと、そこは多田さんの病室だった。撤去されたはずの、じいさんの私物までもが元通り。薄暗い。薄暗い病室の窓際に設えられたベッドの上に、僕とじいさんは腰掛けていた。 深夜ともあって真っ暗だ。窓の外は中庭のはずなんだけど、光源が少ないせいで殆んど暗闇に等しい。これで伊勢の町が望めたりしたら雰囲気出るんだろうけどさ。贅沢は言ってられないか。 当然のことながら消灯時間はとっくの昔に過ぎ去っていて、照らし出すのは月の光のみ。 僕は窓に背を向けていた。その反対側に、窓に対面している小さな背中がある。ベッドを挟んで、両脇に腰掛けている形だ。 首だけ動かす。月だ。半分の月が輝いていた。もうずっと欠けない、大きくならない、留まった月。 それを見てると、酷く心が荒むんだ。 おかしいだろ? 半分の月は、僕と里香とを象徴するものなのに。この月が僕らの思い出の一部なのに。止まった月齢がもどかしい。誰も悪くないはずなのに、誰かが悪者になっている気がしてならない。よく分からないけれど、本当は気づいているのかもしれないけれど、僕はあの月が許せないんだ。 「多田さん」 背中越しに応じる声が聞こえたので、僕は続ける。 「いったいどうなってるんですか? なんかおかしいんですよ。この頃、酷く落ち着かなくて、何かしなくちゃって思えて、でもそれがなんなのか分からない。そもそも僕は何に焦ってるのか、なぜ焦らなくちゃならないのか、なんで今のままじゃいけないのか。だって幸せなんです。みんなが居るんだ。里香が居てくれるんだ。なのに、なのに――――――」 漠然と感じる焦燥感に駆られて、僕はマイナスに向かって歩き始めたのだ。 「本当かい?」 「え?」 「坊ちゃんは、本当に悪い方向に向かって歩き始めたのかい?」 だってそうじゃないか。今の僕は幸せなんだ。これで文句なんて言ったら罰当たりってもんだろ? なんの不満がある? どんな理由がある? この失ったと思った世界に戻れて、ぬるま湯に浸かったみたいに現実感も乏しくて、そのまま平凡に続いていく日常がこの上なくありがたくて。 それを自ら捨てることなど、許される行為なのだろうか。 「坊ちゃんは、考えたんやろ? 話を聞いて、自分なりに考えたんやろ? したらこうなった。半分の月が固まった。動かんな。もどかしいな。見てると酷くイラつくんだな。なぜか分かるかい?」 「あれは……」 焦燥感。 倦怠感。 そして半分の月。 なんでだろうな。どうしてだろうな、なんて。 それは分かってるんだ。分かってしまったんだ。夏目の話を聞いて、母さんの想いを知って。 そして何より――――――いつも前向きである里香の姿を見ていて。 幸せな日常、待ち望んだ日常、二度と失いたくない日常。そんな中で、彼らは、彼女たちは前向きに歩んでいた。それが眩しくて、僕も見習いたいと思って、そうしたら気づいたんだ。 僕は、ゴールに辿り着いたのだと思い込んでいることに。 みゆきに励まされ、立ち上がり。 司に掴まり、坂を駆け上がって。 月香に活を入れられ、スパートをかけて。 ゴールテープの向こうにいる里香を見つけて。 ――――――そうして足を止めてしまったんだ。 何より待ち望んだ彼女を目にした途端、気が抜けてしまった。仕方がないだろ? 僕は戎崎 裕一だ。僕は情けない人間だ。見栄を張って、限界まで力を出して、やっとここまでやって来たんだ。僕はさ、辿り着いたと思ったんだ。これからは幸せに生きていけると思ったんだ。 だけど。 だけど、さ。 それは、僕の弱さだった。 立ち止まって、安穏とした日常に浸って、それで満足。トップだった成績が後続に追い抜かれ、置き去りにされて、それすらも気づかずに立ち止まっている。いつの間にやら僕が最後になっているのに、僕は満足げに立ち止まり続ける。 「止まってしまった月は……僕みたいで」 それに気づいたから、イライラした。前々からあった焦燥感も相まって、もっとむしゃくしゃした。 「なあ、坊ちゃん。幸いって、なんなんだろうなあ。二人が幸いになるって、どんなことなんだろうなあ」 「……」 いつか問われたその言葉。里香や夏目、母さん。いろいろな人に話を聞いて、僕は『幸せ』について考えた。 「曖昧な『幸せ』に囚われないで、目先の『不幸』に負けない」 それが手段で、それが答え。 「例え一人が残されたとしても、後を追うことが正解なんかじゃない」 残された人は生きていた。辛くても生きていた。不幸に負けないで、歩き続けてきた。いつしか傷が癒えても、残った傷跡は生々しいままだけど、それでも生き続け、誰かを『幸せ』にする。死んだ彼は戻らない。死んだ彼女はもう会えない。 忘れられなくてもいい。覚えていられればいい。 その上で、僕らは生きていくんだから。 そうやって、『幸せになる』という二人の誓いを果たしていくのだから。 僕は恐れていた。 君を失くすのを、恐れていた。 でもさ、分かったんだ。 気づいたんだ。 君はもう。 君は、もう。 ――――――死んでしまったんだ。 「認めることは辛いんだなあ。その結果を受け止めることは痛いんだなあ。そうして躓いて、立ち止まって、動けなくなった坊ちゃんを見て、j嬢ちゃんは怒ったんや。さもあらん、嬢ちゃんはそんな性格やからな。坊ちゃんだって知ってるやろ?」 こくり、と同意する。 「でもな、嬢ちゃんはもう死んだ身や。生きてる坊ちゃんに手出しはできん。わしらだって同じや」 多田さんは、儚く笑って、 「わしらはただの寄せ集めなんだなあ。あの病院でおっ死んで、たまたま残った絞りカス。一人一人の力も弱い。言うところ、『幽霊』ってもんやろうか」 「それは違いますよ」 その言い方は正しくない。彼らはまだ残っている。人を驚かす存在ではない。ちゃんと心があって、考えもあって、そうして僕を助けてくれているんだから。 だから、幽霊ではなく、じいさんたちは心の残照。生きた証。 それが正しいんじゃないかって思う。 「まあな、そう言ってもらえると嬉しいな、わしも、皆も」 ひょひょひょひょ、と軽快に声を上げたじいさんは、ひとしきり笑ったあと、僕に声をかける。 「嬢ちゃんはな、前を向いて欲しいと願ったんや。そうやって歩き続けて欲しいと想ったんや。だからな、わしらは手伝ってやることにした。理由なんて簡単や。嬢ちゃんにも、坊ちゃんにも、わしらのぶんまで幸せになって欲しいと思ってたんだからなあ」 じゃあ、この世界は。 この日常は。 「全部、嘘だったんですか……?」 そんなのってない。みゆきも、司も、月香も。全てが嘘だったとしたら。 「いんや、違う。この世界に嘘はない。この世界に生きる全ての人間は本当で、ただ舞台が変わったに過ぎんのや」 「でも、月香は、亮一は……」 「あの二人だって生きてるんだなあ。坊ちゃんも会ってるはずや」 会ってる? そんなはずはない。僕が月香についての記憶があるのは、『妹』としてのものだけだ。『他人』としての月香の記憶なんて、僕は持っていない。亮一だって同じだ。 訝しむ僕に、多田さんは、くるりと身体を半回転させて、向き直った。僕もベッドをまたぐ形で対面する。 月の光。じいさんのバックに半分の月。 「答えが出たら、来いと言ったやろ? そうして坊ちゃんは答えを出した」 「答えなんて……」 「それでも前を向いて歩いていく、そう決めたんやろ? それが答えや。それが嬢ちゃんが望んだ答えや」 よくできました、と僕の頭に手を乗せたじいさんは、朗らかに微笑んで、 「だからな、進もうやないか。嬢ちゃんが望んで、坊ちゃんが答えを出した、その道をなあ」 台詞を聞き終わるのと同時、がつん、と衝撃を受けて、僕の意識が反転した―――――― 「しっかりしなさいよ、ユーイチ」 一瞬、聞き間違いかと思った。もしくは幻聴か空耳か。僕が求めてやまなかったその声。けれど彼女はもういなくて、それでもそんなの認めたくなくて。もう頭が滅茶苦茶でおかしくなりそうだった。そんなときだ。そんなときだ。救いの声は耳に入り、鼓膜を揺るがし、信号となって神経を突き抜けた。そりゃあもう、凄いスピードで。音速なんて目じゃない速度で脳にぶち当たった声は、一秒としない内に理解して、理解しようとしてエラーが起こる。 いや、まさか。 そんな馬鹿な。 里香なのか? 秋庭 里香なのか? そんな馬鹿な。ありあえない。いや、そうであって欲しい。もうどんな理由だっていいさ。彼女が戻ってきてくれるのなら、僕は悪魔にでも魂を売り渡そう。地獄に落ちたっていい。彼女の、里香の笑顔がもう一度見られるのなら。 「……」 夢遊病者のような足取りで向かっていく。声の方へ。君が呼ぶ方へ。 電灯の数は少なく、明るくなりかけている空の下では用も成さないその群体。 月が昇っている。半分の月だ。あの半分の月だ。いつも僕たちを見守ってくれていたお月様。その半分だけの横顔は僕を向いていて、目線をずらして盗み見る。 なあ、お月様。 そんなことしなくてもいいんだ。正面から見てもらっても構わない。こんな無様な姿を見ても面白くはないだろうけど、あんたには最後まで見届けて欲しいんだ。僕の行く末を。僕が馬鹿するところを。そうしてたまにでもいいから一言注意してやって欲しい。なにやってんだ馬鹿と小突いて欲しい。そうすれば僕は気づけるかもしれない。間違いとか、そんなものを、さ。 近づいていく。 汗が干上がって、喉はカラカラになった。やたらと浮遊感を感じる。自分の足じゃないみたいだ。地面を蹴っている自覚がない。空を走っているような、そんな不確かさ。 交差点に辿り着く。 伊勢の町でも結構な大きさであるこの十字路。車は通っていない。まだ早朝だ、早起きの年寄りと新聞配達の人間以外はまだ寝てるんだろうな。 一歩、一歩、と近づいていくと、人影は二つあることに気づいた。まだ小さな背中。小学生くらいだろうか。 「――――――」 分かって、気が抜けてしまった。落胆した。彼女じゃなかった。 そうだな、僕は期待していたんだ。もしかしたら里香が死んでしまったのは全て夢で、実は彼女は元気です、なんて、馬鹿げた妄想。都合のいい戯言だ。里香の死に目に立ち会えなくて、面目がなくて、何より後悔してもしきれない。 そして聞こえてきた彼女の声。 なんだよ。 聞き間違いかよ。 なんて愚か。なんて最悪。そろそろ頭までおかしくなってきたみたいだ。もういいさ。なんだっていいさ。知ったこっちゃないね。どうとでもなれ。こんな世界、いつ滅んだって構うもんか。むしろ明日にでも世界滅亡すればいいさ。どっかから巨大隕石が落ちてきて、一瞬で蒸発しちまえば気が楽ってもんだ。 心が沈んでいくのが分かった。ドロドロと粘着質な液体が心を満たしていくのが分かった。おぞましい感覚。嫌悪感しか沸かないはずのそれも、今はむしろ心地良い。まるで僕だ。まんま僕だ。こんな戎崎 裕一なら泥まみれの薄汚い姿がお似合いだ。 虚しくなって、酷く気だるくなって、僕は大きなため息を吐いた。 距離が近かったせいだろうか、先を歩いていた一人が振り返る。怪訝げな表情だ。そして僕も同じような表情を浮かべていたに違いない。 ……こんな朝早くになにしてるんだ? その女の子の背は僕の胸辺りまでしかなくて、吊り目なところが里香に似ている。って、なに考えてるんだ。なんでもかんでも彼女に持っていくのは情けないじゃないか。女々しいな。まあ、それが戎崎 裕一なんだけど。 目の前の女の子はじっと見据えるのも失礼だと思ったのだろう、つい、と目線を戻す。僕が後ろから追っている形だから、彼女が正面を向いても、僕の視界にはその後姿が映っている。 どうやら前を行く二人は姉弟らしい。一つぶん背の低い男の子は彼女の弟だろう。二人とも明るめの茶髪だ。 男の子は浮き足立って先導している。その後に続く女の子、そして少し離れて僕。 相手はどう思っているんだろうな。これで僕が中年だったら変質者かと思って逃げ出すんだろうけど、一応、僕の容姿は至って平凡、格好良くなければ不細工でもない……と思うので、あまり気にされない容姿だ。大方彼女も、別に気にする必要もない、と思ったに違いない。 「おねーちゃん、早く早く!」 「もう。ちゃんと前を向かないと転びますよ、悠一」 その言葉を聞いて、僕はギリッと歯を軋ませた。胸まで手を持っていって、思い切り胸板を押さえる。 なんだよ。 はっ、なんなんだよ。 ユーイチ。ユーイチ。聞き間違いじゃなかったんだ。でもさ、ただ同じ名前なだけ。ユーイチなんて珍しいもんじゃないし、この伊勢にだって幾人と居るだろう。それが目の前に居るだけ。ただの偶然、たんなる思い込み。別に意味なんてないさ。別に僕が動じる必要なんてないさ。そうだろ? 別に彼女に呼ばれているような気がした、なんて、そんなこと―――――― 「悠一ったら、人の気も知らないで……」 苦笑しながら言った声色に、酷く動揺した僕が居た。 ああ、そうさ。認めよう。認めてやろう。思ったさ。思っちまったさ、『里香に似ている』ってな。なんて馬鹿な。そんな馬鹿な。これはただの気の迷い。知るもんか。知ったこっちゃないさ。世界がどうなろうと構わないんだ。里香のいない世界。こんな価値のない世界。 知ったことか……! 「……くっ」 思い切り歯軋りをして、なんとか身体の震えを止める。数秒で直った。それでいい。それでいいんだ。 前を見ると、交差点の横断歩道に走っていく男の子の姿があった。信号は赤だ。けれどこの早朝、車なんて殆んど通っていなくて、今も止まっている車はない。いきなり駆け出した男の子を追う女の子。子供ってのは怖い物知らずだ。一度痛い目に合わないと反省しないし、それでもめげない馬鹿らしさがある。 あの交差点は安全なように見えて、意外に危険だった。一度轢かれそうになった僕だから分かる。なんの変哲のないように見えるのはこの角度からだけ。別の方から入ってくる道の、その直前に合流する小道がある。伊勢に住んでいる人間なら、その小道が近道になることは知っているはずだ。だから意外に車通りも多いのが特徴だった。 そして今は早朝。信号無視で渡ろうとする子供には、車が死角から出てくるなんて思いもよらないだろう。 「あ、危ないから止めなさい、悠一!」 「へーき、へーき!」 そして、車を運転する人間だって、こんな朝早くに、子供が飛び出してくるなど、思いもよらなかったのだろう。 「ユ、悠一ッ!!」 轢かれるな、と僕は思った。女の子も同じように思ったに違いない。その端麗な顔が悲壮に駆られている。男の子はぽかん、とした表情で姉を見つめ、隣から迫る自動車には気づいていない。 走り出す。 女の子は走り出した。えらくゆっくりとした動きだ。まるでスローモーションを見ているようだった。 弟を助けようと走り出す姉。身を挺して庇うつもりか、はたまた弟だけを突き飛ばすつもりなのか。どちらにしろ、彼女では助からない。弟が助かったとして、彼女が車に喰われるのは明白だった。 それでも、助けようとしたのだ。 自分は死んでもいいから、弟だけを。 「ユウ、イチ……」 今にも泣き出しそうで声で、もつれかかった足を無理やりねじ切って正し、迷いもなく命を投げ出すために。 でもさ、と僕は思った。 もしも弟だけが助かったとして、姉が身代わりになって死んだとして、残された男の子はどう思うのだろうか。まだ幼い。それでも『死』を理解できないほど餓鬼でもない。死んだら戻ってこない。二度と笑いかけてくれない。 それこそ、里香のように。 なら、残された男は自責の念に苛まれるだろう。僕と同じように。自分を呪って、世界のせいにして。 ――――――ああ、ふざけるなよ。 馬鹿にするのもいい加減にしろ。自己犠牲は美しい? そりゃあ結構。だけどさ、だったら最後まで責任持てよ。そんな、自分は死んでもいい、なんて雰囲気を出すなよ。無責任だ。勝ち逃げだ。残された方のことも考えてくれよ。本当に。本当に。 ……なあ、頼むよ。 走り出す。訳も分からぬまま走り出す。あの馬鹿姉弟を叱ってやるんだ。この馬鹿野郎ってさ。なんで僕の目の前でわざわざそんなものを見せるのかってさ。 だからだよ。 だから、僕は走り出したんだ。あいつらを助けるために。姉は自分を庇って死んだ、なんてトラウマを作らせないために。あの馬鹿姉貴を救いに。僕は駆け出したんだ。 ゆっくりと。 えらくゆっくりと景色が流れて、どんどん距離は詰まって、もう手が届きそうなくらいまで縮まって。 女の子が、男の子を突き飛ばした。ああ、痛そうだ。派手に転げる弟。そして安堵した表情の姉。 ああ、畜生。 なんだその表情は。おまえは知らないんだろうさ、残された者の苦しみってやつを。ふざけるなよ。なに、もう悔いはない、なんて言わんばかりに安堵してんだよ。 ああ、 ああ、 ああ、畜生。 ついさっきまで、世界はどうなっても構わない、なんて思ってたのにな。今更これだ。いつもそうだけど、相変わらず気が変わりやすいよな、僕って。でもそれが戎崎 裕一なのだ。それこそが戎崎 裕一なのだ。 弟の代わりに姉が交差点に立ち、食い殺さんと迫る自動車。幸い曲がり角を出たこともあって、スピードはあまり出ていない。だけどあの小さい身体だ、乗り上げる前に踏み潰される可能性が高い。そうなったらただじゃ済まない。死ぬな。楽に死ねるな。 呆然と立ち竦む女の子の肩に手をかける。ゆっくりと振り返る彼女。驚愕の表情。全てが一瞬の出来事で、僕はその速度の中で不敵に笑いかけてやったのだ。 そのまま胸に抱きこむようにして、僕は思い切り地面を蹴ろうとする。けれどもう目の前には白の車体が迫ってきていて、やけに五月蝿いのはクラクションのせいか、はたまた僕の雄叫びのせいなのか。 腕に感じる彼女の温もり。それを失わせないために、僕は、 「――――――ふざけるなあああああああああああああああッ!!」 跳んだ。 「――――――かっ、はっ、あぎっ……!?」 呼吸困難になりかけて、僕は酸素を求めて喘ぐ。 思い出した。思い出した。そうだった。あいつらは、あのときの二人だ。みゆきの弟なんかじゃない。水谷 亮一は悠一という僕と同名の男の子で、その姉が月香。名前は知らない。だけどあいつが姉貴なんだ。 妹のくせに世話焼きなところとか、妹らしかぬその雰囲気とか。元々姉だったのだから、当たり前じゃないか。 「多田さん! この世界はなんなんだよ! オレは死んだのか!?」 「いんや、違う」 取り乱す僕を落ち着けるように、じいさんは緩やかな口調で答えた。 「この世界は狭間の世界や。あの直前で止まってるんや。直前に引き込んだから、あの二人も引きづられて入ってきたんだなあ」 それであいつらは役を振り当てられた。悠一はみゆきの弟として。彼女は僕の妹として。 「じゃあ、いったい……」 「走馬灯みたいなもんだと思ってくれてええんだなあ。その一瞬の世界を作り上げたのが、伊勢の住人であるわしらと嬢ちゃんや」 「里香が……?」 多田さんは、そうやな、と頷いて、 「この世界の嬢ちゃんは、あの世界の嬢ちゃんや。だけどな、始まるとき、一つだけ枷を作った。砲台山に行く夜にしか、記憶を蘇らせないってな」 この世界に居る秋庭 里香は、正真正銘の里香で。だけど記憶がないから、僕はやり直した気になっていた。僕は過去になんて戻ってきていない。あの司が捨て猫を連れてきた夜から、止まっていたんだ。 現実じゃない止まった世界。だからこそ里香が留まることができた。 「考えたんやろ? 苦しんだんやろ? そうして答えを出したんや。胸を張ってもいいんだなあ」 だから、僕は。 里香に会うために。 彼女と言葉を交わすために。 ――――――行こう。 「まあ、わしが言うまでもないんだろうけどなあ。行こうやないかい、砲台山になあ」 「はい」 ――――――行こう。 そして止まっていた時間を動き出させよう。 「この両手は、なにかを救い上げるためにあるんだ」 だから、歩き出す。 留まっているばかりじゃいけない。 歩き出さなければならない。 そうだろ? きっと里香だってそう思うだろ? 苦しいけど歩くよ。悲しいけど前を向くよ。辛いけど振り切るよ。 「なんたって、僕はきみのものになったんだ。こんなこと――――――耐え切ってみせるさ」 そうさ、表面上だけでも、見栄張って、しゃんとして行こうじゃないか。 それが戎崎 裕一ってもんだ。 それが、君を手にした僕ってもんだ。 どうだ、里香? こんな僕でも、少しは前に進めただろ? だから、会おう。そして話そう。 朝焼けに染まる空の下、僕は君に言いたいことがあるんだ―――――― ■ "TransiEnce"に続く ■ |