「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」





"Air"





 この一週間は、他人から見れば、毒づきたくなるものだったに違いない。朝から晩までぼんやりと過ごして、ただ食事をして寝るの繰り返しだったのだから。里香は怠け者だって目を吊り上げるし、月香もみゆきも、果てには司にまで説教された。

 まあ、でも。

 皆には怠けてるにようにしか見えなかったかもしれないけどさ。僕の中では忙しいくらいに問答が繰り返されてたんだ。

 里香に始まって、月香と亮一と。時折あいつらの顔を見ると、自分がおかしくなったんじゃないかって思えてくる。だってそうだろ? 戎崎 裕一は過去に戻ってきて、死んでしまったはずの里香と再会し、居ないはずの妹や弟と談笑し、夜には半分の月を眺めてため息をつく。そんな日常じみた、ありえないはずの御伽噺。

 なあ、誰か教えてくれよ。

 この居心地の良い世界はなんだよ。

 ただ毎日を平凡に生きていくだけで、この上なく僕は『幸せ』なんだ。ずっとこの幸福が続けばいいって。里香の笑顔がある。月香の顰め面がある。みゆきの似非淡白な無表情面がある。最高だよな。両手に花だ。僕は生まれてこのかた、初めて手にした女の子の笑顔だ。守ってやりたいと思ったんだ。ずっと笑顔でいさせてやるって誓ったんだ。

 ベッドでうつ伏せになった僕は、真っ暗な視界の中で一人だけ。

 胸騒ぎがした。

 焦燥感が強まってきた。

 早くしなくちゃ、と誰かが言って、何をするんだ、と僕が問う。分からない。ただ漠然と胸の底から湧き上がってくるんだ。

 ひび割れた地面から湧き上がってきて、あっという間に水溜りになって、今ではもう湖くらいにまで大きくなった。

 感じる違和感。

 この世界はおかしくて、けれど何がおかしいのかさっぱりで。

 いつからだろうか、群青の海に浮かぶ月が動きを止めた・・・・・・・・・・・・・・・・

 覚えているのは一週間くらい前からだ。半分だけ顔を覗かせた月が毎晩昇ってくる。普通、完全な半月はニ、三日で終わるはずなのだ。僕が気づいたのに、他の人は誰も口にしない。まるで気づいていない。ニュースになってもおかしくない事態だ。なのに話題にも上がらない。底知れぬ不安感を感じて、僕は他人に尋ねる気にもなれなかった。

 今は夜中の十一時。手元の携帯で確かめて、パタンと閉じる。

 真っ白なシーツは良い匂いがした。数日に一回のペースで取り替えてくれるからいつも清潔だ。家だとこうもいかないだろう。

 視線を動かす。うつ伏せになったまま、右を向く。カーテンに遮られた窓があった。漏れてくる月光。満月よりも儚げで、三日月よりも力強くて。変わらない半月。動かない月齢。留まった時間。

 理由なんて分かるはずもない。

 だけど。

 なんとなく、心の底では分かってしまったのかもしれない。

 はあ、とため息をついた。ここのところ酷く憂鬱だ。朝起きてもダルいし、まったくやる気が起きないし、スライムみたいにへたっている内に、一日が終わるようになってしまった。

 駄目だよな、このままじゃ。

 もう分かってるんだ。分からない分からないと口走っていても、もう頭では理解しかけている。

 生半可な覚悟じゃ駄目だ。

 一歩先は後戻りの出来ない奈落の底。梯子もかかっていないその穴を前にして、僕は躊躇していた。見えないことへの恐怖もある。だけど、それ以上に僕は躊躇していたんだ。



 ――――――例えば、こんな話。



 奈落の底は村の外れにあった。その村は平穏で、とても居心地の良い場所だ。恋人も居て、幼馴染も居て、友人も居て、妹も居る。何不自由ない幸福な生活。

 ある日、僕は村の外れにある、奈落の底へ続く穴を探検することになった。

 誰から言われたわけでもない。強制されたわけでもない。自分が行かなくては、と思うようになったのだ。

 奈落の底は地獄につながっているらしい。もの凄い深さだ。二度と戻ってこられなくなるだろう。その穴には村人は近づかない。落ちたら危険だからだ。転落することへの注意をすれば大丈夫。穴から鬼が湧き出てくることもないし、毒ガスが沸いてくることもない。

 自ら探検しにいくなんて、愚の骨頂だった。

 死にに行くのと同義だ。ただの馬鹿だ。僕は自分で自分を疑ったものだ。頭がおかしいのではないか、と。

 僕は勇者でも賢者でもない。

 ただの村人だ。

 朝早くに起きて、畑に繰り出し、桑を振るって一日を過ごす。家には母親が居た。妹も居た。僕の自慢の家族だった。

 恥ずかしいから言わないけど、僕は彼女たちを愛していた。遠い国じゃあ、『I love you』なんて軽く口にするらしいけど、この村では面と向かって『愛してる』なんて言う人間はいない。だから、心の中で親愛を示すのだ。僕は、家族を愛しています、と。

 そんな平凡でしかない日常だけど、僕は、僕らは満足だった。

 だというのに、僕は見えない何かに背を小突かれる。あの穴に飛び込め。あの穴を探検するのだ。耳元で囁かれる気がして、振り返ってみる。何もない。誰も居ない。ただ、ぽつねん、とのっぺらぼうの影法師が背伸びをしているだけ。ゆらゆらと影は揺れた。それはまるで、僕を嘲笑っているようだった。

 奴は言う。あの穴に飛び込め、と。

 それは、この居心地の良い世界を捨てることを意味している。

 そんなのまっぴらだ。僕はこの村を愛している。滅茶苦茶退屈で、することはもっぱら農作業だけで、王都からも距離が遠くてド田舎と揶揄される辺境の地だけど。この村で一生を終えてもいいかな、なんて思っていたのだ。二軒隣の幼馴染は気の許せる友人だ。たまに喧嘩をするけど、大切な友人だと断言できる。彼らが居るこの村が、僕の生きていく場所だった。

 刻一刻と。

 行かなくては、という衝動が強くなり、僕は葛藤する。

 半分の月を見上げるたびに、想いは高まり、大きくなり。

 それは抑えきれないほどに肥大して。

 今日を過ごして、半月を見上げ。

 明日を過ごして、半月を見上げ。

 一週間を過ごして、半月を見上げ続け。

 僕は。

 僕は――――――

 奈落の底に落ちなくてはならないのだと悟った。

 馬鹿みたいだろ? 自ら進んで幸せを捨てるんだ。二度と戻れないんだ。後悔しても遅い。失ったものは二度と元には戻らない。それが常識。この世のルール。なあ、考え直せよ。いいじゃないか。今が幸せなんだ、このままでいいじゃないか。きっとみんなもそう言うぞ。この村の人々は優しいんだ。おまえが一番知ってるじゃないか。困った時には手を差し伸べてくれて、真摯になって相談を受けてくれる。妹がいい例だ。

 その彼女たちを置いていくのか、おまえは。この薄情者め。恩を仇で返すとは最低だな。彼女たちが許してもオレが許さないからな。それじゃあ、あの馬鹿親父と一緒じゃないか。あいつは母さんをおいてったんだぞ? 酒ばかり飲んで、仕事しないで、呆気なく死にやがった。我が父親ながら情けない野郎だ。

 それに、だ。あの親父は何一つ父親らしいことはしなかったけど、一つの言葉だけは残しただろう。

 
 ――――――おまえもそのうち好きな子ができるんだろうなあ。いいか、その子、大事にしろよ。


 ほら見ろ。あのクソ親父だって欠片ばかりの常識は持ち合わせていたんだ。なのにおまえはそれさえも無視するのかよ。

 最低だね。

 誓ったんじゃないのか? 命をかけてきみのものになる、ってさ。

 彼女を残していくのか、おまえは。何よりも大事な彼女を、独りにしていいのかよ。

 聞けよ、戎崎 裕一。

 このまま安穏とした毎日を過ごすのは悪いことなんかじゃあない。

 どうだ? 楽しかっただろう。彼女が居る日常は。それに幼馴染、妹、友人。分かり合って、互いに談笑し、身を寄せ合って。心地良いだろう? 暖かいだろう? 

 その点、あの穴は最悪な所だ。寒いし、暗いし、先が見えない。その上、真下に辿り着いても待っているのは地獄なんだ。生きて帰った者はいない。恐ろしいだろう。ブルっちまうだろう? 

 それに比べたら天と地ほどの差があるね。断言できる。

 なあ、戎崎 裕一。

 おまえは精一杯頑張った。辛くて泣きそうな時期もあったよな。死にたくなるほど惨めなときもあったよな。そうしてやっと手に入れた彼女を幸せにするって誓ったのにさあ、神様は奪ったんだぜ、この幸福な時間を。クソ喰らえだ。馬鹿にするんじゃねえ。耐えて、努力して、やっと手にいれた幸福を奪っていくなんて、あんた何様だよ――――――ああ、神様か。だったら神様なんてクソ喰らえ。馬に蹴られて三途の川。
 
 でもさ、失ったと思ってた時間は戻ってきたんだ。いい話だろ? 嬉しくて涙が出るよ。

 見てみろよ、彼女の笑顔を。

 何物にも代えがたい笑顔だ。彼女に比べたらダイヤモンドなんて月とスッポン。比べるなんて恐れ多い。

 どうだ、戎崎 裕一。

 考えるまでもないだろ? ここに残れよ。幸せな毎日があって、みんなの笑顔であって。ここになんの不満がある。おまえだって言っただろ? これで幸せでなければ、罰当たりだってさ。その通りだ。これは考えられる中で最高の日常なんだぞ? みんなが揃っている。誰一人欠けることもなく、誰一人不幸になることもなく。

 それはなんて素晴らしいことだろう。

 いいか、耳の穴かっぽじってよく聞け。あんな地獄に続くような場所なんて行かなくてもいい。誰も責めやしないさ。それよりも怒るね。あんな場所に行こうとしたら。ほら、彼女にはきっとミカンを投げつけられるぞ? 妹には呆れかえられるし、幼馴染にはマジで頭の心配されるな。そして気弱な友人は一変して実力行使で阻止するだろうな、うん。

 分かるだろ? みんな、おまえのこと心配してるんだよ。

 自惚れじゃあないぞ。彼らは絶対に言うだろうさ。行くな、ってさ。それは誰よりも、おまえが理解しているはずだ。

 さあ、その鞄を下ろせ。

 奈落の底なんてマシなところじゃねえ。

 踵を返して村に戻れ。

 まだ間に合うさ。

 なんてことない顔をして、冗談でしたって言えばそれで終わりだ。まあ、殴られたり張り手喰らったりするだろうけど、ご愛嬌だろ。

 

  ――――――なあ、ずっとこの居心地の良い世界に浸っていようぜ、戎崎 裕一。































 ――――――そして、僕は甘ったれた思考を吹き飛ばした。



 そうだな。確かにその通りだ。誰も責めやしないだろうし、このままでも良い気がするんだ。でもさ、その言葉は、一つ間違ってる部分がある。誰も責めやしない? いいや、違うね。僕は責める。自分を責める。下らない感傷だって一笑に付すことできるさ。でもさ、僕が辿ってきた道があるんだ。この両手は何かを掴むためにあるんだ。立ち止まってもいい。だけどそのままじゃ駄目なんだよ。

 掴んだものが零れ落ちても、悲しみにくれてるだけじゃ駄目なんだ。

 僕が歩んできた道があった。

 僕が歩むべき道が続いていた。

 空を見上げると、半分の月が浮かんでいた。

 いろいろあったんだ。悲しくて、嬉しくて、悔しくて、それでも幸福だったと思えて。

 蕩けるような幸福は、まるで麻薬のように染み込んでくる。はまれば抜け出せない。甘美な匂いは理性を狂わせ、僕はただの抜け殻になる。

 なあ、幸せってなんだ?

 分からない。分かるはずもない。

 だけど、彼女は言った。不幸に負けないことだと。曖昧な幸せなんかに囚われないで、目先の不幸を蹴散らせ、と。

 なんて分かりやすくて、彼女らしい考えなんだろう。

 僕は誓ったのだ。

 命をかけてきみのものになる、と。

 だけどさ、それは言葉だけのものじゃない。彼女が死んでしまったからといって、後を追うのが正解なんかじゃない。

 先が分からない道を、僕は傍に居る人に尋ねてみたんだ。

 そうしたら足元が見えてきた。それから目先が開けてきた。確かに向こう側は真っ暗で恐ろしかった。それは奈落の底だ。地獄に続く穴だ。それを前にして、あいつは留まれと言った。それも一つの選択だろう。だけど僕は。自分でも馬鹿だと思う。そして僕はこの選択が当たっていると信じている。

 僕は、穴に飛び込むことにした。

 あいつは言ったよな、帰ってきた者はいない、と。ならばどうして、この穴が地獄に続いていると言い切れるんだ。誰も帰ってこない。それは途中で力尽きたり、本当に地獄に落ちたり――――――もしくは、新しい一歩を踏み出したからなんだろう。もう戻れない。それはいつだって一緒だ。過去は取り返せない。それは常に付き纏う法則だ。

 だから、怯えて、足を止めて。

 それから、また、歩き出すんだ。

 僕は周りの人に助けられてきた。

 僕は周りの人に励まされてきた。

 そして知ったのだ。母さんと父さんの出会い、そして歩んだ道を。夏目 吾郎が愛した人を。小夜子さんというあいつの奥さんを。

 残されて挫けそうになっても、彼らは、歩き続けている。

 進んできた道に後押しされて、先の見えない道を恐々と踏みしめて。転んで、擦り傷を負って、怪我を治してまた歩き始める。

 それが、人生ってものだろ?

 それが、残された者にできる生き方だろ?

 挫けても、また歩き出すことを僕は知った。

 先を行く人の背中を追い、僕は道を歩き始める。

 いつか、こんな臆病な僕の背中を、道しるべにする人が現れるかもしれないから。

 前を歩く人の背中を追い、そしてこの背中を道しるべに。

 僕は。

 僕は、転ぶことがあっても、また歩き出すことを誓おう。

 居心地の良い世界は、それはとても穏やかで。

 それ故に、歪んだ部分が明白に浮き出てくる。

 この世は、無常なのだ。

 そして。

 それでも、僕らは歩き続けるんだ。

 そうだろ、里香?

 この両手は、何かを掴むためにあるんだ。

 転んだときに立ち上がり。

 躓いた人を救い上げる。

 この両手から零れ落ちるものがあっても、また違う何かを拾い上げることができる。

 僕は、前を向くよ。

 そして、いつか風を掴むんだ。

 どうだ、すげえだろって。

 いつか、彼女に誇らしく言ってやるんだ――――――
















 火災報知器の赤灯が僕を染め上げる。自分の病室を出てすぐにあるそれは、目にはもの凄く悪そうだけど唯一の光源だ。消灯時間をとっくに過ぎた午前零時。お化けが出ても不思議じゃないこの雰囲気。男だからといって平気なはずがない。僕は中腰になりながらぺたぺたと歩を進める。

 向かう先はすぐ隣の病室だ。

 赤灯を通り過ぎ、手すりに捕まって進む。冷たい手触りだ。裸足で履いたスリッパの中だけが熱を帯びている気がした。

 ぺたん、という音が酷く大きく聞こえる。振り返ってみた。誰も居ない。居るわけないか、と思っても振り返らずにはいられないのが夜の病院ってものだろう。よく霊安室に肝試しにいく輩が居るっていうけどあれは嘘だな。絶対無理だ。きっと部屋の前で失神するね。僕が臆病だからじゃなくて、絶対に誰でもそうなるに違いない。

 嫌な想像をしてしまったせいで背筋に鳥肌が立った。ブルっと身震い。首元を引き締めた僕は二割増しの空元気で笑顔を作る。そうでもしなきゃやってられない。

 隣の病室の前に立つ。

 手元には、一枚の便箋。

 『答えが出たら、もう一度、わしのとこに来んさい。茶でも用意して待ってるからなあ』

 僕は、来ましたよ、多田さん。中身を思い出すように呟き、一回瞬きをすると。


 「――――――」


 何も挟まっていなかったところに、『多田 健蔵』のプレートが。

 一瞬呆気に取られて、それから僕はなんとなく納得してしまった。ああ、やっぱり、ってさ。

 今思えば、始まりはこの人からだったのだ。里香と接触を絶つためにじいさんと仲良くなり、そのじいさんは以前よりも長生きしたと思ったらいつの間にか死んでたり。僕の前回を知っている態度。全てを知っている思わせぶりな口調。無理に問いただすことはできたかもしれない。でも、それじゃ駄目だと分かっていた。

 まったく、敵わないよな、多田さんには。

 苦笑して、僕は頭の上がらない人物が多すぎることに気づいた。里香、月香、みゆき、司、亜希子さん、夏目……数えだしたらそれこそきりがない。もしかしたら知り合いの全ての人が該当するかも。ああ、情けないな、戎崎 裕一。それと良かったよな、戎崎 裕一。おまえの周りにはこんなにも人が居るんだ。助けてくれる人が居てくれるんだ。嬉しいよな。ありがたいよな。

 全ての人が居てくれたから、今の僕が形取られているんだ。

 戻ることなんかできない。

 進むことしかできない。

 だから。

 僕は、もう迷わないんだ。


 「多田さん、戎崎 裕一です」


 扉を控えめに叩き、僕は言った。

 空気に響く衝撃の音。耳が痛くなるほどの静寂の後に、遠くから聞こえてくるナースコールが鳴り響く音。

 そうして、ややあってから、


 「よう来たな。入りんさい、坊ちゃん」


 流れてきたのは、間違いなく多田さんの声だった。







                                                      ■ "ever"に続く ■