"EteRnAl_brOke" 「……ふう」 泣きはらした目元はまだ腫れぼったい。 母さんとのやり取りの後、月香を伴って二人は帰っていった。帰り際の「兎に角、頑張りなさい」という一言が印象に残っている。儚く笑ってそう呟いた母さん。ありがたかった。例え一言だけだったとしても、励まされるのと、そうではないのでは全然違う。 あと一歩踏み出せないでいた心が、決心できた気がする。 僕は誓おう。 命をかけてきみのものになる、と。 僕は受け入れよう。 どんな結末が待っていたとしても、それが真実なら。 目を逸らしちゃいけないんだ。 怖がって、尻込みして、目の前にある事実を曲げちゃいけないんだ。 辛くても、受け入れろ。 受け入れられなくても、理解しろ。 ……それが、真実なら。 「答えが出たら、か」 多田さんが遺した置手紙のことを思い出す。 もう、じいさんが亡くなって一週間が過ぎた。隣の病室は綺麗に片付けられて、残っていた生活臭も完全に消えてしまった。まるで初めから誰も居なかったような、白だけの空間。虚無だ。見ていて何も感じない。何かしら感慨にふけるだろうと思っていたのに、いざ目にしてみると何も感じなかった。 ただ、漠然と。 ……ああ、やっぱり。 多田さんは死んでしまったのだと理解できた。 でもそれで終わりじゃない。じいさんが死んだのと同時に、まだ終わってないのだと理解している。きっと答えを見つけ隣の病室の扉を叩くと、「おう、入んさい」なんて答えが返ってくるんだろう。確証があるはずもないのに、そう思うのだ。 だから、もう一度確認してみよう。 "答え"を見つけるために、僕が覚えている限りのことを思い返してみよう。 過去に戻ってきた、というか、この里香が生きている世界に目覚めたのは数ヶ月前のこと。雨の降る夜だった。司が捨て犬の飼い主を探しに僕の家まで訪ねてきて、飼えない代わりに一緒に探してやることにした それから水谷家に行くと、そこでみゆきも加わった。この時点で前回と食い違う。僕が覚えている限りでは、みゆきのやつは行動を共にしていない。なぜ、あいつが今回は共にすることを選んだのか。ただの気まぐれか、それとも明確な理由があるのか。こればっかりは僕が考えても致し方ない。 その後、時間が経って、前回と同じように肝炎で入院。 里香と屋上で遭遇を果たして、だけど僕よりも先に、みゆきたちが仲良くなる。これは僕が多田さんと親しくしていたから、病室にあまりこもっていなかったせいだ。 その後、みゆきの後押しもあって仲が良くなり、今に至る。 「……別に気になる点はないけどな」 里香に関してはこのくらい。司との関係も、友人になる時期が早くなったこと以外は変わらないと思う。 次にみゆき。コイツは僕が勉強を頼むまで、見舞いには来なかった気がする。でも今回は入院してすぐに来てくれたよな。弟の亮一も何度か顔を見せてくれたし。 「……ん?」 何か違和感を感じた。月香のときと同じ、喉に小骨が引っかかるような違和感だ。 みゆきがお見舞いに来てくれたのは、月香と亮一の仲がいいせいもあるからだ。月香と結びつきがあった亮一は自然と僕と顔見知りになり、気軽に話すくらいには打ち解けている。さすがに歳の差もあるが、近所のお兄さん、くらいには思われているだろう。何より亮一は月香に気があるらしい。でも異性のそれではなく、どちらかといえば姉弟的な、だ。 ザ――――――――ッ なんだろう、これは。 妹らしかぬ、戎崎 月香。 実の姉よりも月香に懐く水谷 亮一。 この構図は。 尻にしかれているようなこの構図は、どこかで見たことがある……? 僕とみゆきじゃあない。僕たちは対等だった。泥だらけになって遊んで、喧嘩して。兄、妹、姉、弟。そんな上下のある関係じゃなかった。 "前回"には居なかったはずの月香。 ……なら亮一は? ザ――――――――ッ みゆきの弟である亮一は? 「違うんだ」 そう、違うんだよ。 僕らは対等だった。 近所で、同い年で、二人とも一人っ子だった。 居ないはずの、水谷 亮一。 居ないはずの、戎崎 月香。 当たり前のように溶け込み、僕たちの妹、弟として認識していたこの二人は。 『まるで本当の姉弟みたい』 この二人をみて、みゆきが言っていたのを思い出す。そりゃあ、当たり前だ。歳も近くて、髪質も似ていて、月香は面倒見のいいお姉さん気質だ。 月香はお姉さんみたいじゃなくて、本当にお姉さんだったとしたら? 僕の背中を押してくれていた月香。 幼い頃から僕の面倒を見てくれていた月香。 ――――――彼女の存在が……あとから付け加えられたものだったとしたら。 「くだらない」 ああ、本当にくだらない。 僕はこんなくだらないことに構っている暇はないんだ。 月香が妹じゃない? 作り上げられた記憶? 何を馬鹿な。 今日だって背中を押してもらった。一歩を踏み出す勇気をもらった。 月香は僕の大事な妹だ。 作り上げられた記憶? 大いに結構。 本当なら居なかった? だから何だ。 戎崎 裕一にとって、彼女の存在はかけがえのないもので、それは違えようもない事実で。 僕が月香を大事に思っていることは、間違えようもない真実なのだ。 「多田さん、この世界は、とっても心地いいよ」 欠けた人間は居なくて、それどころか頼もしい妹が居てくれて。 「里香が死んでしまったことが気にならなくなるくらい、心地いいんだ」 何より里香が居るんだ。そして仲間が居る。これにどんな不満があるって言うんだ。不幸じゃなない。とても幸せだ。このときがずっと続けばいいと思っている。 でもさ。 でも、さ。 この両手で掴み取ったものが零れた瞬間を、確かに覚えているんだ。 それはとても悲しかった。 胸が張り裂けそうになるくらい苦しかった。 里香のことを見とれなかった自分がこの上なく情けなくて、彼女に恨まれてるんじゃないかって思ってた。そうだろ? 口先だけで行動が伴わなくて、里香が苦しんでいるときに僕は遊び呆けてた。これがドラマだったら唾を吐きかけてやりたい。この馬鹿野郎、ってさ。だけどその男は僕なんだ。情けなくて、愚かなのは僕自身なんだ。 この世界は暖かくて、居心地がよくて、僕が望んだ薔薇色の世界そのものだった。 だけど。 あまりにも。 都合が、よすぎたんだ。 「――――――」 少しずつ、分かってきた。 ベッドに仰向けになって、視線を横目に向けると窓がある。外は曇りだ。今にも振り出しそうな、どんよりとしたねずみ色。空気も心なしか湿っぽい。 空気の湿度が多いせいだろうか、目から涙が零れた。 さっきの母さんの話を思い出して、多田さんの言葉を思い出して。 ――――――この世界はさ、理不尽の塊なんだよ。 愛している人を奪われ、それでも残された者は生き続けなければならない。死ねば楽だよな。痛いのは一瞬だ。あとは知らん振り。自分の家族とか、周りの友人知人が葬儀をしてくれればいい。当人は愛する人を追って天国なり地獄なりと直行だ。 身勝手な愛だと、そうは思わないか? 後を追った人間はそれなりに満足かもしれない。だけどその家族たちは、違う。幸せになどなれるはずがない。そして後を追われた張本人は、一体どう感じるだろう。死んでまで自分を追ってきてくれたことに感動するか、はたまた自分のせいでその人が死んでしまったと悲しむか。 僕は、後者だと思う。 後を追ったソイツは逃げたんだ。愛する人を追う、と理由を付けて、苦しみから逃げようとしたんだ。愛する人が居ないから、自分独りで寂しいから。 それも一つの愛のカタチだと思う。 でもさ。 それを『永遠の愛』だとぬかすのは間違いだろ? そんなもん、永遠でもなんでもない。ただのこじつけだ。 母さんの話を聞いて、そう思った。 残された者が幸せになるのは難しい。逝ってしまった人が心を苛むから。いつまでもその人のことを思い続けてしまうから。それで不幸になる。そして耐え切れなくて死を選ぶ。逃げる。何もかも愛のためだと言って投げ捨てる。家族も、自分も、逝ってしまった人が遺した想いも捨てて、だ。 現実は、酷く悲しいものだ。 ――――――ああ、分かってるさ。 受け入れがたい真実が、待っているんだ。 ――――――言われなくても、分かってるさ、そんなこと。 過去に戻ったなんていう、できすぎた御伽噺。 目をつむる。 思い出されるのは、ぽっかりと浮いた半分の月。 いつも見守ってくれていた、その半分だけのお月様。 あの日も。 里香が死んでしまった、あの日も。 そして。 ここ一週間変わることのない半分の月が。 全てを、教えてくれた気がするんだ―――――― 込み入った話だということで、僕は宿直室に入らせてもらえることになった。部屋の中は意外にも畳張りで、電気ポットとか雑誌とかが散乱している。俗に言う男の部屋だ。病院らしかぬ惨状を見て絶句していると、脳外科の藤谷先生は苦笑した。仮眠など、ちょこっとした休憩のときに使われる部屋だから、片付けてもいつの間にか散らかってしまうらしい。 医者も大変なんだなあ、とこの部屋を見て僕は実感した。 藤谷先生は、入って入って、と手招きをしている。入り口前でスリッパを脱いで上がらせてもらう。 中には布団が敷かれていて、部屋の片隅には病室に置かれているものと同じテレビがある。白衣のままで腰を下ろした藤谷先生はお茶を入れ始めた。僕はどこに座ればいいか迷ったあと、無難に先生の正面に腰を下ろすことにした。 お茶を入れる音と、板一枚向こうから聞こえてくる人の行きかう音。お昼過ぎなので結構騒がしい。 「悪いね、汚い部屋で」 「そんな。オレの部屋もこんな感じですよ」 「あ、僕の部屋も同じかな」 お茶を差し出しながら藤谷先生は笑った。司の部屋は綺麗に整理されているけど、男の部屋なんてどこもこんなもんだろう。誰かが来るとなれば話しは別だけど、さ。今回のこの宿直室は、藤谷さん以外にも複数で使われているそうだ。そりゃあ、数人で使いまわせば汚れるのが早いのも頷ける。 正坐もなんだし、と僕らはあぐらでお茶をすすり始める。 藤谷先生は脳外科の先生だ。お昼休みの僅かな時間を使って話をしてくれるという、お人好しな人柄。なんとなく司を連想させる細目なところもまた通である。 コップに入っていた緑茶が半分までなくなった頃、話は始まった。 「確か、夏目 吾郎先生の話だよね?」 確認するように聞いてきたので、僕は頷く。 「はい。夏目先生は……以前、秋庭 里香さんの主治医だったみたいで。それで、少し話を聞いてみたくなったんです」 「僕が知っているのは大学時代の話だけど、それでもいいかな?」 「ええ」 温和な表情で目をつむった先生は、両手でお茶の入ったコップを転がしながら語り始める。休み時間は少ない。一言も聞き逃さないぞ、という心構えで僕は身を乗り出した。 藤谷先生が夏目 吾郎と知り合った――――――もとい、知ったのは、その腕の良さもあってのことだったらしい。同年代でも秀でた能力を持ち、上からも期待されていた新人。能力的に中の下あたりを彷徨っていた藤谷さんには雲の上の人だったとか。 同期である彼はどんな偶然か、夏目が後に訪れる若葉病院で医師をやっている。 そんな先生は、苦笑しながら夏目 吾郎に関することを教えてくれた。筆記でも実技でも高得点をマークし、その顔の作りもあってか、女性からも人気があったらしい。 ……まあ、分からなくもないけど。 でも夏目は彼女を作らなかった。勉強一筋というか、女には興味ないというか。どっちにしろ、そういった色恋沙汰には無縁だった。だがある日から、夏目は一人の女性と肩を並べる姿が目撃されることになる。 「確か……瀬口、じゃなくて、樋口……そう、樋口 小夜子さんっていったっけなあ」 ほんわかとした、優しい雰囲気を纏う女性だったという。夏目も満更でもなかったらしく、周りからはおしどりカップル、なんて古臭くも呼ばれていた。憮然とした表情で先を歩く夏目と、それを追いかける樋口さんという女性。夏目はぶしつけに悪態をつきながらも、彼女が遅れないように歩く速度を落とす。 ごめんね、吾郎くん。別に構わない。そういったやり取り。 僕が知る夏目からは考えられない光景だった。 「それでな、二人とも、いつの間にやら結婚までしちゃって」 「け、結婚までしてたんですか!?」 これは驚きだ。あの夏目が結婚していたなんて。でも、前回はそういった話を聞いたことがなかった気がする。亜希子さんとかが真っ先に食いつきそうなネタなんだけどな。もしかして、それが嫌で隠してたとか? 以外にも子供っぽい夏目の性格に苦笑しそうになって、 「でも、亡くなったらしいよ、奥さん」 「え――――――」 僕は、絶句した。 ひゅう、と冷たい風が吹いた。反射的に身を縮ませた僕は、そのまま壁に寄りかかって身体を両腕で包む。多少はマシになった。顔は刺すように冷たい。だけどそれがちょうどいい。自分の病室に戻るのはなんとなく気が引ける。 屋上は荒野だった。 いつもは干してあるシーツも、今日は天気が悪いせいか見当たらない。天から吹き付ける冷風はアスファルトを滑り、あっという間に僕の足元までやって来た。上着を羽織ってないから凍えそうだ。ブルブルと震え、それでも僕は屋上で佇む。 夏目は既婚者だった。夏目 小夜子さんっていう奥さんが居て、幸せで、アイツは奥さんと笑い合って。 でも、奥さんが病気になった。 ――――――心臓病だった。 それはなんて皮肉なんだろう。人を救う職業である医者を志すアイツのすぐ目の前に、越えられない壁が立ちふさがったんだ。 医者でも、治せない病気はゴマンとある。 夏目だって分かっていたはずだ。自分が救えるのは、目の届く範囲で、しかもその中でも限られた人間だけなのだと。 それでも、さ。 この世で一番愛する人だけは守りぬきたかったんだと思うんだ。 奥さんが病に倒れたのと同時期、アイツには大手の大学病院からお呼びがかかっていた。出世コースの第一歩だ。だけどそれには奥さんの病気がネックになった。酷く言えば、彼女はお荷物だった。 出世か、愛する妻か。 今の僕には、アイツがどう考えたのかなんて分かるはずがない。 でも、結局夏目は奥さんを選んだ。都会の大学へのチケットを破り捨てて、地方に回った。厄介払いみたいなもんだ。それでも奥さんとの闘病生活では笑顔もあったんだと思う。終わりが来ると分かっていても、それを乗り越えてみせる、って。 先の見えない闘いは、数年に及んで。 ――――――夏目 小夜子さんは、若くして亡くなった。 心臓病で、だ。 そして今、アイツは心臓外科の医師になっている。凄腕だ。自分から地方に回ったのに、都会の病院からお呼びがかかるほどだ。 そして、秋庭 里香という患者と出会った。里香の心臓病は不治に近い。手術をしても、呆気なく終わりがやって来るかもしれないし、そうではないかもしれない。 夏目 吾郎は、里香に奥さんの姿を見たんだろう。 いつ来るかもしれない終わり。 それを、アイツは身を持って知っていた。それは心の深くに刻まれた傷。トラウマ。僕だって思い出すたびに胸が痛む。アイツの気持ちは痛いほど分かった。 ギイ、と音がした。 振り返るまでもなく、流れてきたほのかな匂いで誰だか見当がつく。 「こんな寒い日に何してんのよ、裕一」 いつものパジャマの上に上着を着込んだ里香が、片手で髪を押さえながら隣に並んだ。給水タンクの影に入っているおかげで少しは風から遮られているけど、寒いことは寒い。 僕が風をひくのは構ったことじゃない。でも里香まで付き合わせるわけにはいかなかった。 戻ろうか、と声をかけそうになって思いとどまる。 なんか睨まれた。 むー、と擬音が付きそうなくらい凝視されている。 ……なんか気に障ることしたか、僕? 「なんかあんた、今にも飛び降りそうな表情してたわよ?」 いや、そこまで逝ってないと思うけど。 「別に……黄昏てただけだよ。人生ってままならないものだな、ってさ」 「そんなの当たり前じゃない」 今更何言ってんのよ、と里香は呟いた。 ……迂闊だった。 長い病院生活を送ってきた里香が一番そう感じるのではないか。それなのに彼女は『今更』と憮然にも呟くのだ。それはもう、ずっと前に諦めたこと。考えるだけ無駄だと。考えても仕方がないと。 自分の発言に自己嫌悪する。 視線を寄越す里香を見て、それから僕は俯いた。気丈な視線がいたたまれなかった。当事者は彼女なのに。僕は励ましてあげる側なのに。 僕は、なんにも分かっちゃいなかったんだ。 母さんのこと。 夏目のこと。 「どうしたのよ、いつもより元気ないじゃない」 「ん……」 里香は僕より前に出てそう言った。顔を上げても、見えるのは後姿だけだ。長い黒髪が風に乱されている。最初は押さえていた里香も、もう面倒だと思ったらしく、気にもしていない。 「自分から首を突っ込んでなんだけど、今日はいろいろと衝撃的だったから、かな」 そう、と彼女は頷いた。 「それって夏目先生のこと?」 直球で言い当てられて僕はうろたえた。なんで里香が知ってるんだ!? って、きっと婦長さんが確認か何かのために聞いたんだろう。個人のことを聞くのだから、それは当たり前かもしれない。大方、里香のことだから、口裏は合わせてくれたんだろうけど。 いいつくろっても無駄だと観念した僕は、項垂れて肯定した。 「あたし、裕一にはまだ話したことなかったよね、夏目先生のこと。なんで知ってるの?」 「――――――」 どう答えようか迷って、 「以前、オレの知り合いがかかったことあるんだ、その先生に。そのとき、心臓外科の先生だったから、思い出して」 「ふうん。夏目先生、いい先生でしょ?」 いや、それはおまえ限定だと思うんだけど。そう反論しようと思った矢先、里香は笑顔で振り返った。反則だよな、その笑顔は。恋する乙女、じゃないけど、里香の理想像を壊しても仕方がないので口を噤んだままにしておく。 「その夏目 吾郎っていう医者……結婚してたんだってさ」 「嘘!? 全然知らなかった」 「オレもだよ。それでな――――――」 言うべきか、言わざるべきか迷う。 一巡して、僕はややあってから覚悟を決めた。 「その奥さん、亡くなってたらしいんだ……心臓病で」 里香が息を呑んだ。やっぱり言わない方がよかったか? 不安げになった僕の顔を見て、里香はくすり、と微笑んだ。 予想外の反応だ。 いや、いつも里香は僕の予想斜め上を突っ切る性格だけど、この反応は予想できるはずがないじゃないか。 「それで落ち込んでたの? 裕一ってば」 「な……だってそうだろ? あの夏目が、その、奥さんが居て、その上亡くなってたなんて」 「でも、それと裕一と、何が関係あるの? もしかしてあたしとかぶって見えたとか?」 言葉に詰まる僕を見て、もう、と里香はわざとらしくため息をついた。 「裕一が聞いたのは事実だけでしょ? その間にあったこと……例えば闘病生活とか、そんな込み入った話は聞いてないでしょ?」 確かに、そこのところは流石に部外者である僕も、当時の藤谷先生も知りえないことだ。 「他人がどうとか、あたしには分からない。でもね、夏目先生の目は、死んだ魚のような目じゃなかったわ。少なくとも、今の裕一よりは生気があったかもね」 おかしそうに里香が笑うので、僕は顔を顰めながら毒づいた。アイツと比べられるのは堪ったものじゃない。付き合いもそこそこあるけど、最後の最後まで犬猿の仲だったからな。 ぶつぶつと文句を言ってたところで、里香の白い手が差し出された。 訳が分からず、きょとん、と彼女を見返すと、なんか理不尽にも睨まれた。おー、ごっど。僕が何か悪いことをしましたか。 「……手」 「て?」 「もう! 相変わらず鈍いんだから」 目の先まで近づいてきた里香は、しゃがみ込んでいた僕を無理やり立たせて、その手を取った。里香の手は暖かかった。細くて、今にも壊れそうな手に触れていると気が気でない。大事にそっと。文字通り、壊れ物を扱うように、丁寧に握り返す。やっと満足したのか、里香は桃色の唇で三日月を作った。 僕が隣に並んだその光景は、さながらお姫様のエスコート役。 ……そういえば、そうだったっけ。 僕は里香の(暫定的)下僕なのだ。近頃はなりを潜めていた里香のわがまま癖も、今思えば懐かしい。 「寒いから、そろそろ中に入るか」 「当たり前でしょ、まったく。好き好んで屋上に出た、裕一の気が知れないわ」 文句を言いながらも身を寄せてくる里香に苦笑しつつ、僕は屋内へ続く扉に手をかけた。背後では風もさらに強まってきている。ひゅう、という音がびゅう、という轟音に変わったようだ。タイミングがいいのか悪いのか、と中に入り、扉を閉めた時点で、 「夏目先生はね」 「ん?」 「少なくとも、逃げることはしなかった。奥さんが亡くなっても、お医者さんになって、人を助けてる」 一息ついて、つながれた手が握り締められる。僕は応じるように握り返す。 それは、熱いくらいに。 「夏目先生って凄いよね」 「――――――そうだな。凄いな」 そうして、彼女は儚く微笑んだ。僕を正面に捉えて、その澄んだ瞳で僕を見据えて。宝石みたいな瞳の中には僕が映りこんでいるようだった。 里香の中に僕が居る。そう思うと嬉しくなった。彼女につられて僕も笑う。優しくて、穏やかで、冷たい空の下でも、とても暖かだった。 里香の瞳には僕が映っている。 ならば、僕の瞳にも里香が映っているはずだろう。今にもとけてなくなりそうな儚い笑顔を失いたくなくて、僕はまぶたにその笑顔を焼き付けようと誓った。 ■ "Air"に続く ■ |