「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」





"losT"






 まだ部屋は暗い。太陽が昇ってないからだ。暗闇に慣れたおかげで、周囲は見えている。

 僕はベッドに転がりながら思考を続ける。ここ最近、おかしなことばかり起きてる気がする。昨日、亜希子さんと里香に言われたのがその中でも際立ってるんだけど。

 天井を眺めて、軽く一息。

 ……多田さんが亡くなっただって?

 知り合いの患者さんにも聞いた。ナースセンターで婦長さんにも聞いた。返ってくる答えはどれも一緒だった。

 六日前、いや、今日で一週間前に多田さんは亡くなったらしい。深夜に容態が悪化して、そのまま帰らぬ人となった。おかしいじゃないか。僕が環境を変えて、それで多田さんは死期を越したはずじゃなかったのか。あんなに元気に話してたじゃないか。それが死んだ? 何かの間違いじゃないのか? 霊安室で眠りこけてるだけじゃないのか?

 だったら、僕が最後に話した、あの多田さんは誰だっていうんだよ。

 亜希子さんも居たはずなのに、お茶なんて飲んでないと言う。もしかしたら僕の妄想か? 一人で記憶を作り上げて、それでこんなに焦っていると?

 馬鹿いうなよ。僕は間違っていない。

 確かに覚えてる。じいさんの言ったこと。『幸い』の難しさ。これは絶対に妄想なんかじゃない。

 僕は布団を跳ね除けた。暖房が入ってるから、寝巻きだけでもそれほど寒くはない。念のために上着を羽織る。暗闇からスリッパを探し出して履く。ひんやりと冷たかった。

 ベッドの隣に降り立った後、その場に膝をつく。

 ……もしも。

 ベッド下に手を突っ込む。それはすぐに突き当たった。小型の段ボール箱。ずるずると引きずって取り出したそれは、以前・・、里香に見つかって、一悶着あった曰くの品だ。

 だけどおかしい。これを貰った覚えはないし、亜希子さんも何も言ってなかった。だったらなぜベッド下にこれがあるんだ?

 箱を開けて中身を取り出す。

 裸だ。

 どれもこれも、見事なまでに裸だった。中にはマッチョな筋肉男も混ざっているけど無視をして、その艶かしい裸体を晒す女性の皆さんを掘り出してみる。全てに目を通したわけでもない。だけど何冊かは見覚えがあった。

 ――――――『多田コレクション』だ。

 僕が燃やしてしまったそれが、こうして目の前にある。視線を卓上にやると、そこには『チボー家の人々』もある。前者はまだ燃やしていない・・・・・・・・・から納得できても、後者は説明の仕様がない。何よりサインが入ってるからだ。それでも、違和感は拭えない。いつの間にやらベッド下に隠されていた多田コレクション。

 まさか、幽霊になったじいさんが隠したんじゃないだろうな。

 基本的に僕はオカルトを信じてない。だけどそれくらいしか思いつかないのもまた事実なわけで。

 コレクションの一冊、スクール水着が眩しい『洗濯板の憂鬱。午後のプールサイド編』を見つけて手を止める。確か、これは多田さんのお気に入りだったヤツだ。守備範囲が広い色欲魔のじいさんは、むっちりもつるぺたもOKだったっけ。

 何気なしに本をめくろうとして、



 ザー、ザ―――――――ッ                ザーザザザ、ザザザザ――――――――ッ

               ッ――――ザ、ザ――――――――ザ、ザ、ザ、――――――ッ、



 来た。

 少し前から感じてた違和感だ。ノイズみたいな、耳の奥にこびりつく雑音。耳鳴りでもない、難聴でもない、不可解な音律だ。

 黒い壁が両側から迫ってくる。くらくらと眩暈を感じ、僕はベッドに腰から倒れる。その壁が視界を全て遮る頃には、周りが静かなのか五月蝿いのか、それすらも分からなくなっていた。

 



 





 暗闇だ。

 粘着質な空気は淀んでいて、肺に取り込むたびに息が詰まる。気管が圧迫されて気持ちが悪い。ひゅー、ひゅー、と掠れた呼気を漏らして僕は喉を掻き毟った。詰まっているのは空気だ。息をしなければ窒息するのに、空気を取り込むたびに窒息しそうになるから笑えないジョークだ。

 見渡す限り一面の闇に、ぽかん、と浮かぶ半分の月。

 まるでそこだけ、くりぬかれたように色がある。言い方を変えれば、そこだけ色が抜け落ちているようにも見えた。

 この月は魔性だ。気味が悪い。半分の月はそれが、どこか別の世界に続く出入り口みたいだ。手を伸ばす。届くはずないのも理解してるのに伸ばす。感触はなかった。空を切る手で、蒼く光る半円を手に取ろうと筋肉を、腱を伸ばす。それでも届かなかった。

 僕の視線からは、とっくに掴んでいるというのに。

 掴んでいるのに、掴めない。



 ――――――それは、うたかたの、



 人影があった。遠そうで近そうなそこに、大勢の人影があった。黒いのっぺらぼうの影は、身じろぎもせずに、ただこちらを窺っている。誰だよ、アンタたち。ひゅー、と声にならなかった息が漏れる。ぱくぱくと口を開閉させて、僕は諦めてそれをやめる。馬鹿らしい。相手は答える気がないようだし、どうこう以前に声が出ないから会話にならないじゃないか。

 少しすると、影同士が話し始めた――――――ように見える。声はないから、どことなく雰囲気から伝わってくるものだけど。

 隣同士が話し始めて、やがて全体がわらわらと蠢く。見ていて気持ちいいものじゃない。そのざわめきがどれほど続いたのか、唐突に、一番最前列に居た影が手を挙げた。
 
 いや、指差してるのか?

 よく見ると人差し指で天を指している。それにつられるように視線を上げて――――――息を呑む。

 月が増えていた。蒼く輝く半分の月の左上に、もう左半分の月が浮かんでいた。月の片割れだ。蒼いのに比べて輝きを失っているのは明白だった。赤みがかかった、曇った光。

 その月は。

 その赤く、光を失った月は。

 ……僕、なのか?

 視線を戻す。天を指差してた影が、次は真横、つまり左を指していた。にべもなく首を動かす。大勢の影から孤立するように、二つの影が立っていた。背の高さは、左側の影が少し高い程度。二人は手をつないでいた。それでいて正面を見据えてピクリともしない。

 だけど、その二人はとても仲がよさそうだった。

 重い空気、圧し掛かってくる空。その暗闇しかない、二つばかりの半分の月。

 手を伸ばす。

 影に、手を伸ばす。

――――――見かけない顔だ。
 いつかと同じように、僕は手を伸ばす。

――――――こんな夜更けに何してんだ?
 手繰りよせて、

――――――僕の名前を呼ぶのは……。
 
 彼女は、少ししかめ面で、



























  
『ユーイチ』



























 
彼女が、あまりにも僕の心を揺さぶるから。

 僕は、らしくもない馬鹿をしてもいいかな、なんて思ってしまった。

 それは、なんてことないただの偽善で。

 その一言と、聞きなれた名前が耳についたから。

 僕は、彼女たちを――――――助けたくなったんだ。











 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■











 「母さん、駐車場に車置いてくるから、月香は先に行ってなさい?」

 「はい」


 ダークグレーの軽自動車が走り去っていく。私が居るのは病院の正面玄関だ。見舞い客らしき人たちが出入りしてるのが見て取れる。今日は手ぶらだし、バスで来たわけでもないから楽だった。裕一のやつ、いっぺんでもバスで来る辛さを味あわせてやりたいものだ。きっと根を上げるに違いない。大きい荷物は邪魔だし、周囲の視線も気になるし。

 ひゅう、と冷たい風が吹いた。

 留守電に入れられていた裕一の希望通り、今日はお母さんと一緒のお見舞いだ。昨日に倒れたと思ったらこれだ。まあ、元気そうなのは何よりだけど。

 冷風から逃げるように足早で院内に駆け込む。

 中は暖かい。暖房が効いてるから、縮こまった筋肉をほぐしてくれるようだ。着ていたコートのボタンを外して、一息。

 今日は患者さんが多いみたいだ。この時期だと風邪とかインフルエンザが流行ってるのかもしれない。私のクラスでもニ、三人が欠席している。登校してきている中にも風邪気味の人が居て、教室内でゲホゲホと咳するのは仕方がないけど、せめてマスクはしてもらいたいものだ。うつされたら洒落にならない。

 ところどころから咳き込む音がする。マスクを持ってきて正解だった。風邪の予防にもこれは欠かせないのだ。

 少ししても母親が来る様子がないので、私は先に病室へ向かうことにした。大きな受付ホールを抜けて通路に出る。ここは流石に肌寒く感じる。窓に面してるからそのせいなのかもしれない。コートのおかげでそれほどでもないけど、入院患者のお年寄りには少し堪える寒さだ。

 ナースセンターを過ぎる。谷崎さんには会わなかった。代わりに出会ったのは婦長さんで、これは会釈だけして通り過ぎる。

 一一三号室。『戎崎 裕一』と書かれたプレートがある。わざわざ個室にする必要はなかったんじゃないだろうか。大部屋の方が幾らか安上がりだった気もする。

 コンコン、とドアを叩く。

 返事はない。

 ……まだ寝てるんでしょうか。

 昨日の今日だし、いくら治ったつもりでも、まだ本調子ではないのだろう。まったく、と苦笑してドアを開ける。

 中に入って、部屋の惨状を見て、私は絶句した。







 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■







 「ユーイチ!!」


 怒声だ。それもかなり怒りゲージ満タン気味の。ビリビリと大気を震わせる大声に、沈んでいた意識が強制的に浮上してくる。痙攣して飛び起きた僕の前には、顔を真っ赤にした月香が居た。まずありえない切羽詰った表情だ。珍しい日もあるもんだなあ。一年に一回あるかないかのレアものだぞ。

 しげしげと眺めていると、射殺さんばかりの睨みが返ってきた。

 怖いです。

 僕の根本に根付いた、「この目つきの月香には逆らえません」という本能。最近「里香には逆らえません」が新たに追加されたわけだけど。

 その鬼も虎柄パンツ投げ出して逃げるようなガンを受け、おおう、と僕は仰け反る。本気で怒ってるみたいだ。


 「なんですか、その、は、破廉恥な本の大群は!」


 言われてから、僕は視線を落としてベッドの周りを見る。

 本だ。

 それも裸体のお姉さんとかが紙面一杯に写ってる、アハーンな本。

 俗に言う、エロ本だった。


 「な、ななな――――――って、驚かすなよ。ただのエロ本じゃないか」

 「……」

 「問題ないだろ」

 「大アリです!!」

 
 あまりにも必死だから僕も鬼じゃない、渋々と本を手にとって片付け始める。これって多田コレクションだよな。朝方、ベッドの下から見つけて読み漁ってたんだっけ。それで急に気を失って、なんか、ええと、変な夢を見た気がする。朧気でよく思い出せない。真っ暗闇で、月が出ていて、誰かが僕の名前を呼んでた気がする。

 
 「裕一!」


 ほら、ちょうどこんな感じに。


 「だ、男性だから仕方のないことかもしれませんけど、せめて目に付かない場所にしまうのが常識というものです!」


 ここまで形無しな月香は珍しいな。写真に撮っておきたいくらいだ。視線にエロ本が入らないよう、横を向いたままでブツブツと文句を言っている。そこまで怒らなくてもいいじゃないか。

 『洗濯板の憂鬱。午後のプールサイド編』で最後だ。そういえば、これを見てる最中に眩暈が来たんだっけ。多田さんのお気に入りだから、何か曰くつきの品なのかもしれない。ひょひょひょ、と笑ってたじいさんを思い出す。


 「月香。多田のじいさん、亡くなったんだってな」


 重い話だ。表情を直して月香は頷いた。


 「そうですね。私はあまり話したことはなかったですけど、裕一は親しかったそうじゃないですか」


 ああ、と頷く。以前よりもずっと・・・・・・・・親しかったさ。何度も病室に遊びに行ったし、じいさんに「チボー家の人々」を渡してもらったんだ。あの本があるということは、その出来事も夢じゃなかったってことになる。じいさんが死んだ実感が沸かないのも無理はない。どこかおかしいんだ。その、気づけない何かが、おかしいんだ。

 思い出してみろ。

 じいさんが死んで、それから僕は決意したんだ。里香を砲台山に連れて行ってやろうってさ。

 司に応援を頼んで、夜中に病院を抜け出そうと企てて。マスクを被ったアイツが亜希子さんを足止めしてくれたんだ。みゆきは……まだ勉強を頼んでないから見舞いに来てくれてない時期か。今思えばあれだよな。仔猫の猫探しをした時点からみゆきとの関係が変わってたのかもしれない。一緒に探すのを手伝ってくれたし、何より親身になって相談事に応じてくれた。

 そして月香は……あれ? 月香は、そのとき、何してたんだ? 

      ザ―――――――ッ

 コイツは身内だ。病院から脱走するのに手伝わせるなら、真っ先に声をかけるはずだ。真面目な性格だから断られたのか。いや、月香は規律を重んじるけど、こういった人情ごとだとそれも違う。文句を言いながらも手伝ってくれるはず。

                            ザ―――――――ッ

 なのに、いくら思い返しても月香は――――――月香の姿が見当たらない。

                                                   ザ―――――――ッ

 夏目がやって来た後も、里香が手術した後も、僕がニセスパイダーマンをした、あの壁昇りのときも。司にその兄貴、みゆき、山西だって居たのに。月香だけが、見当たらないのは、どういうことだ。

                    ザザザザ、ザ――――――――――ッ

 
 「裕一ユーイチ?」


 その声は――――――いつかの夜に聞いた、彼女の声だ。

 月香、月香、月香。

 おかしいんだ。おかしかったんだ。僕に妹なんて居ない。僕は一人っ子だ。どうして忘れてたんだ。あの日、ベッドで目覚めたときも、それからも、月香なんて妹は居なかった・・・・・・・・・・・・。だけどみゆきに何気なく言われたとき、


 『誰も何も、裕ちゃんの妹でしょう?』


 違和感なく信じ込んでしまったのは、他でもない僕だ。

 おかしんだ。おかしかったんだ。当たり前のように傍に居て、だけど本来なら居ないはずの妹。

 彼女は――――――誰なんだ?


 「その破廉恥な本を抱いたまま固まらないでください。気持ち悪いです」


 聞きなれた毒舌。そのつんと澄ました表情。知ってないのに知っている・・・・・・・・・・・・・、その矛盾。昔の記憶だってある。共に成長した記憶だってある。だけど、それと同時に彼女が居ない記憶も持っている。

 ……ああ、畜生。

 記憶がこんがらがって訳が分からない。

 ガリガリと頭を掻くと、持っていた本を落としてしまった。その拍子にページがめくれる。一瞬月香は固まった後、弾かれるように身体ごと仰け反った。

 ……なんか面白いな。

 いつもは大人ぶってるコイツも、案外純情なんだな。こうして見るとなんてことないのに、彼女は僕の妹なのか判別がつかない。

 でもさ。

 記憶がどうとか、元は居ないはずだったとか、そんなものよりもさ。

 月香は確かにここに居るんだから、僕の妹であることには変わりないだろ?

 今更避けるなんてただの馬鹿だ。月香は僕の妹だ。そして僕は月香の兄貴だ。兄貴が妹を守るのに理由なんて要らないんだ。世話にもなったし、迷惑もかけまくった。それでもコイツはぶつくさ言いながらもついてきてくれるんだ。これほどありがたいことはない。

 
 「……裕一。なんか、その、それです。紙切れが落ちましたよ?」


 片手で目を遮って、もう片手で指差してくる、なんて器用な真似だ。本を一緒に落ちた紙切れを拾う。ノートの切れ端みたいだ。何も書いてない面を裏返す。書かれていたのは、年季を感じさせる達筆だった。


 『答えが出たら、もう一度、わしのとこに来んさい。茶でも用意して待ってるからなあ』


 間違いなく、多田さんが書いたものだった。あれは夢じゃなかったんだ。「チボー家の人々」が手元にあって、それで多田さんが死んだことも事実で。

 この世界は、何かおかしいんだ。

 多田さんのこととか、月香のこととか。

 
 ――――――そして何より、里香のこと。


 過去に戻ったなんていう、できすぎた御伽噺おとぎばなし

 その全ての答えを出すために、僕は考える。周りの人から話を聞き出す。

 そうして答えを出せたなら、それは素晴らしいことだ。

 だから、


 「おお、でかしたぞ、月香!」

 「あ、や――――――」


 その小柄な身体を一息で抱き上げる。

 分からないことだらけで、先も見えない現状だけど。

 進むべき道の、足元だけは朧気に見えた気がするから。


 「ちょ、裕一! いきなり何するんですか!」

 「……何か問題あるか?」

 「大アリです!」


 さっきと同じようなやり取りだ。おかしくなって僕は笑い出す。うはは、と豪快に笑い飛ばした。何を言っても逃げるのは不可能だと気づいたのか、月香はおずおずと身体を預けてきた。暖かい身体だった。小さすぎる華奢な身体だった。だけど確かに月香は僕の腕の中に居て、決してこれは夢なんかじゃなくて。

 今はそれだけで十分だった。

 月香と目が合う。少し頬が赤くなってるようだ。やっぱり純情だよなあ。


 「なんだよ。案外、嫌そうでもないみたいじゃないか」


 言うと、ぷい、と月香は視線を逸らした。















 後から送れてやって来た母さんが顔を覗かせる。さっきのことでへそを曲げてしまったらしい、仏頂面の月香が席を立った。扉の横に立てかけてあるパイプ椅子を手にとって広げると、座れる状態にする。なんか違和感なくやってしまうから不思議なもんだ。前世が執事かなんかだったんじゃないか、コイツ。

 外の寒さで少し赤くなった頬に手を当てて、母さんは一息ついた。着ていたコートを脱いで、二つ折りにして座っている横に置く。


 「どう? 調子の方は」


 昨日の今日だが、もう身体はすっかり回復している。母さんも分かっているのだろうけど、確認をこめて聞いたのだろう。僕は少しバツの悪さを感じながら「大丈夫だよ」と返した。心配してくれるのは嬉しい。だけどこちらにも面子があるわけで、ああ、本当に下らない見栄みたいなもんだよ。昨日、ぶっ倒れたのに、こうしてぴんぴんとしてるのがこの上なく情けなく思えてしまう。大事があるよりはマシなのは分かっているさ。

 ……見栄を張りたがるのは男の性、ってことなのかな。

 分かっていても気にするものは気にしてしまう。特に他人の視線――――――それも母親なんかはどうしても気になってしまうのだ。

 母親の心配げな顔が、気恥ずかしくも鬱陶しいこの心情は、きっと当人にしか分かんないだろうなあ。


 「ごめんなさいね、この頃忙しくて顔出せなくて……」

 「謝るようなことじゃないよ」


 入院費を出してもらってる身だ、これで文句を言うほど僕は子供じゃない。


 「着替えその他、月香がやってくれてるから助かってるし」


 そう言って、僕は隣に座ってる月香の頭にぽん、と手を乗せる。

 
 ――――――ばしっ


 「……」
 
 「……」


 叩き落とされた手に目線を落とし、それから加害者に目をやる。なんか睨まれた。触るなこの下郎が、って感じに睨まれた。意味もなく「へへー」と土下座しそうになったけど、ほんの僅かに残っているプライドがそれを踏み止まらせる。いや、恐ろしいな。無意識に土下座したくなるなんて。なんていう魔法だよ。


 「あらあら」


 そんな僕たちのやり取りを見た母さんが呆れたようにため息をついて、


 「微笑ましいわね」

 「「どこがですか!!」」


 母さんってこんなキャラだったっけ、なんて思いながら突っ込む。声が重なった月香が睨んできた。無性に謝りたい衝動に駆られたけどこれも抑止抑止。

 まだ根に持ってるのか……遠い昔のことじゃないか。以外にも根に持っている我が妹君は怒り心頭のご様子だった。コイツなら済ました顔でスルーすると思ったんだけど。お年頃なのかな。

 兎に角。

 持ち直した月香が毎度のこととなったお茶汲みに席を立つ。僕は母さんと向き合う形で対峙していた。話があると伝言していたせいか、僕から切り出すのを待っていたようだ。ある程度は頭でまとめてあるから大丈夫だとしても、残りはその場でぶっつけ本番。まあ、里香のお母さんとの話し合いたたかいよりはマシなんだろうけど。

 
 「いつまでも入院してるわけにもいかないだろ? だから、これから先のことで話しておきたいと思ってさ」


 そうね、と同意する。


 「学校の方……危ないんでしょ?」

 
 実際のところ、僕は一度みゆきから勉強を教えてもらってるので、さほど切羽詰ってるわけでもなかった。だけど母さんからしてみれば気が気でないことだろう。何せ僕は月香のように優等生でもない、どちらかと言えば下層の順位に名を連ねる常連者だ。普通に通っていてこれなんだから、離れている病院ではさらに学力は落ちる。

 レポートを出せば留年は免れることができるけど、その後にちゃんとした進級試験が待っている。顔を曇らすのも仕方がないといえば仕方がない。

 僕に月香みたいな頭があればなあ、なんて思うものの、ないものねだりでしかないから頭を振ってその考えを追い出す。


 「楽勝……とまでは言えないけど、みゆきに教えてもらえば何とかなるかも」

 「みゆきちゃんに? そう。そういえば、近頃は仲良かったのよね」


 にやけ顔で言ってくるから敵わない。かぶりを振って否定する。


 「話を逸らすなよ。で、さ。まだ頼み込んでないから何とも言えないけど、アイツなら、渋々ながらも引き受けてくれそうだし」


 実際にそうだったから、今回も同じく引く受けてくれることだろう。


 「ゆき姉さんの負担になるようだったら、私が許しませんけどね」

 「わ、分かってるさ」


 なぜに半目? しかも声にドスが効いている気がするのは気のせいかな、うはは。

 この話題はこれくらいでいい。次が本題だ。だけどどう切り出せばいいやら。生憎、僕は話術に優れているわけでもないし、どちらかと言えば口下手だ。それに、真剣に母さんと話し合ったことが少ないせいか、目を合わせて話しづらい。なんとも情けないもんだ。

 しばらく沈黙。お茶をすする音だけが聞こえていた。


 「えっとさ、その……」


 沈黙に耐えかねて声を出す。母さんはじっと聞いていてくれている。ああ、畜生。考えてたことも全部吹き飛んじまった。それなりに僕も準備していたんだ。それくらい大事なことだったんだ。なのになんだこの様は。馬鹿、焦るなよ戎崎 裕一。リラックスしろ、深呼吸しろ。なんてことないさ。目の前に居るのは母親じゃないか。僕の無様なことなんか殆んど知られてるんだぞ。今更じゃないか。

  ――――――ああ、畜生。黙れよ馬鹿野郎。

 口先だけならなんだって言えるさ。だけど仕方ないじゃないか。話すのは親父のことだ。飲んだくれのことを引きずっていたのも記憶に新しいし、それをわざわざ蒸し返していいのかと躊躇ってしまう。だってさ、あれだよ。母さんだって仕事あるしさ、ここで情緒不安定になったら大変だろ? やっぱり止めようぜ。もういいじゃないか。教えを請うみたいで恥ずかしいし、さ。

 ……ああ、薄情しよう。僕はブルッてる。萎えてしまってる。どこからともなく臆病風が吹いてきて吹き流されてる。

 なあ、何て聞けばいいんだよ。そもそもどう言葉にすればいいんだよ。これは本当だ。詭弁なんかじゃない。言葉が見つからないんだ。分からないんだよ。国語で習った文句を思い出してみても見つからないんだよ。

 喉の下までせり上がってきてる想いなんだ。だけどそれを口に出す言葉が思い浮かばない。

 しり込みしてるのか?

 それとも武者震いなのか?

 いいや、違うね。戎崎 裕一は最初の一歩を踏み出せないだけだ。透明な石橋が架けられた断崖絶壁でブルってるだけだ。見ろよ。奈落の底だぜ? 落ちたら死ぬんだぞ。トマトみたいに、ぐちゃ、って気持ち悪く潰れるんだぞ。足が竦むんだよ。目が回るんだよ。僕は臆病でもなんでもない。至って普通だ。これを事も無げに一歩を踏み出すのは狂人に違いない。きっとそうに違いない。

 なあ、誰か教えてくれよ。

 大したことじゃないって分かってるのに、さ。なんでこんなにことになってんだよ。


 「――――――っ」

 「裕一?」


 怪訝そうに名前を呼ばれて、僕は俯いてた顔を上げた。


 「はっ――――――、」


 なんて様だ。聞くべきことも分からないのに、なんて言葉にすれば分からないのに。どうしてこんなにも悔しい気持ちになってるんだろうか。

 あと一歩なのに。

 その一歩が、果てしなく、重い。

 だけど。

 その一歩を歩き出す勇気を、月香が与えれくれた。


 「しっかりしなさい――――――裕一ユーイチ

 「あ……」


 その双方の瞳が、僕を貫いていた。思い出されるのは今までの記憶。泣いたときとか、怒ったときとか。いろんなときに目にしたその鋭い眼光。彼女のクラスメートたちは怖いと恐れ、兄である僕でさえ気圧される視線。

 だけど、それは間違いだったんだ。

 月香はただ率直に見据えてるだけだったんだ。評価とか、他人の目線とか、そういった影響するモノを無視して。

 ただ真っ直ぐに見極めようとしていたんだ。

 ……怖いな。

 ああ、そうだな。

 ……気圧されるな。

 ああ、そうだな。

 ……そして何より。

 なんて、頼もしいことか。

 歳のわりに大人ぶっていて、言動も相当にスレているのに。その溢れてくる自信はどこから来てるんだよ。

 ……ああ、畜生。

 僕は初めて思ってしまった。どんなに貶されても、どんなに比べられても、怒ったり噛み付いたりするだけ無駄だと静観を決め込んでたのに。初めてコイツを。月香を。


 ――――――僕の妹でいてくれてよかった、なんて思ってしまったのだ。









 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■











 意を決した表情を裕一を見て、聞こえないよう、ほっと一息をつく。

 ……まったく。手間のかかる馬鹿兄ですね。

 でも、私の一言で話し始めたその姿を見て、少し嬉しくなったのも事実だった。裕一の背中を押してあげることができた。いつの間にか成長していて、なんとなく私は余計な存在じゃないか、と思っていたのだ。裕一一人でも十分やっていけていたし、何より知らぬ間に秋庭さんと仲を深めていたし。それに感心もして、寂しくもあった。

 私は断じてブラコンなどではない。

 傍に居なくてはならないのは、見ていて危なっかしい馬鹿兄のせいだ。目を離した隙に転んでいたり泣いていたりする。それをあやすのも八つ当たりされるのも私の役目だった。

 近頃は大人っぽくなって、その役割も終わりかな、なんて思っていたのに。

 苦笑する。

 裕一には悪いけど、まだ完璧な大人には程遠い。私だって同じだ。ひょんなことで落ち込んで喜んで。感情に流されて馬鹿をやったりもする。人間とはそんなものだ。自覚していても関係ない。大人でも、子供でも。悲しいものは悲しい。嬉しいものは嬉しい。

 変わってしまうように見えても、それでも変わらないものもある。

 裕一は裕一だった。

 今更、お兄さんぶって頭をなでてきても、嬉しくも何ともないと思っていても、ほんの僅か喜んでしまった、私も私だ。表面は年増ぶっていても、なでられて喜ぶのも、抱き上げられて喜ぶのも、結局は昔から変わらない私だった。

 



 裕一は今、お母さんに事のあらましを話している。

 その中でよく聞くのが『里香』という名前だった。私と一文字違いの名だ。秋庭 里香。心臓病持ちの余命長くない綺麗な人。硝子細工を思わせる端麗な顔立ち、そしてまとう雰囲気。引きつけられるものがあって、だけど拒絶もこめられたそれ。

 神妙な表情で頷く母親は、大体の事態を読み取れたようだった。

 死は人に平等だ。貧しくても、裕福でも。若くても年老いていても。それは呆気らかんとやって来て、制止の声を歯牙にもかけずに去っていく。

 私の母は、己が半身を数年前に奪われた経験を持つ。裕一はそのことを聞きたいようだった。

 ――――――私の兄の想い人は、波打ち際に作られた砂の城だ。

 いつ大波が来るかも分からない。ほんの少しの波でも削られていき、波がなくとも風が表面を削いでいく。

 崩れることが、決まっているのだ。

 聞き終わった母は、黙って俯いた。愛した者の死を実際に経験した人だ。私なんかじゃ想像もつかない想いが渦巻いているに違いない。

 母が死ぬ、兄が死ぬ。そう言われても実感なんて沸きあがらないのは私だけじゃないだろう。

 そのときになってみないと分からない。

 いくら口でああだこうだ言ったとして、果たしてそのときになっても同じ文句を吐けるかどうか。

 無理だ。

 きっと無理だろう。

 元より、人間なんてそんなものだ。確固とした意思など持つはずがなく、風向きに流されて目先を変える。私だってそうだ。人間関係なんてその筆頭ではないか。愛していても、浮気やなんたら、そんなもので容易く崩れ去る。

 永遠など、所詮は妄想に過ぎない。

 だとしても。


 「オレは、決めたんだ……!」


 怖気けて、怯えて、今にも泣きそうだっていうのに。


 「口先だけの誓いを、護り抜いてみせるって……!」


 母は儚く笑って、試すように聞き返す。


 「残されたものもないのに? 二人が愛し合っていた証拠もないのに? 裕一、どうやって永遠の愛を貫くの?」


 あなたたちが居たから私は立ち直れたのよ、と母は言う。夫との愛の結晶。残された愛のカタチ。二人を育て、見守っていくのが残された自分の、唯一縋るものだったから。再婚しないのも吹っ切れてないからだと。まだ夫を愛しているからだと。


 「お父さんはね、誠一さんはとってもいい人だったわ。ずっと二人で歩いていくんだと思ってた。あの人と一緒なら、どこにだって行けるとさえ思ったわ」

 「――――――」


 その言葉に、裕一は息を詰まらせた。

 『どこにだって行ける』

 所詮言葉だけの夢想だったとしても、当事者にとっては紛れもない真実なのかもしれない。愛する人と一緒なら、どんな苦行だって乗り切って見せる。そんなことを思って愛の逃避行――――――駆け落ちする二人は思うのだろう。

 
 「母さんね、お父さんが死んじゃったとき不安だったの。あの人によくしてあげられただろうかって。母さんのこと恨んでないかって。一人だけ残されたんだもの、卑屈な考えになるわ。そうやってうじうじして、悩んで、月香にも言われたわよね? 『元気のないお母さんのゴハン』が美味しくないって」


 裕一からも視線を寄越され、コクン、と頷いてみせる。


 「人間てば現金なものでね、月香に料理を教えているうちに落ち着いてきて、楽しかったこととか、悲しかったこととか全て思い出して。そしてね、一番大事な、だけど忘れちゃってた、そのときのことを思い出したの」


 そのとき、母は憑き物が落ちた心境だったという。愛していたからこそ不安で、自分一人だけ生きているのに罪悪を感じて。他にもたくさんの出来事があったというのに、嫌な部分だけを断片的に見せ付けられてしまう。それは自分を戒めるものだ。それは自分で自分を傷つける自傷行為だ。

 駄目だと分かっていても、傷つけずにはいられない。だって、自分だけが生きているのだから、と。


 「お父さんね、プロポーズの後、こう言ったのよ。『おまえと結婚するからには、俺は一生涯不幸とは無縁だな』なんて」


 凄い台詞だ。あの飲んだくれがそんなことを言ったなんて。母親は苦笑している。兄はぽかん、と自失呆然気味に口を開け、私も同様、驚きは隠せない。


 「誓いとか約束なんて口だけって思うでしょ? だけどそれでいんじゃないかしら。そのときは確かにそう感じてたんだから。愛を誓って、愛し続けて。不幸とは無縁だって、幸せでい続けて。そしてその誓いが護れなくても、嫌な言い方だけどね、どうにかなるものよ? 私はあなたたちのおかげ。周囲の人が、きっと助けてくれる。だってしょうでしょ?」


 言い聞かすように、母は口を開いて、聞かされる二人はその笑顔が羨ましかった。なんでそんなに幸せそうに笑えるのだろう。半身を失って、一時期は抜け殻のようになって。それでも母の笑顔は眩しかった。

 それは太陽に背伸びするヒマワリのようで。

 命一杯に明るく微笑み、こちらもつられて頬を緩める。


 「誠一さんと結婚したんですもの――――――私は一生涯、不幸とは無縁なのよ」


 断言する。それが当たり前だと言うように。母の笑顔は幸せそうで、不幸せには到底見えない。

 不幸とは無縁だ、と。

 自ら主張して、体現しているのだ。


 「口先だけだって構わないじゃない。不幸にはならないって、胸を張りなさい。そうすれば、きっと救われる人も居る。不幸に負けないで、身近にある幸せを見つけることができるわ。その幸せが、別のものだったとしても、ね」


 鼻をぐずる裕一を、お母さんは優しくなでていた。いつもなら邪険にするそれも、今ばかりは素直に受け入れている。母の言葉が胸を締め付ける。口先だけだと馬鹿にしても、それは幸せを生み出す魔法の言葉にだってなる。最初から決め付けるな。無理だと馬鹿にするな。何もしないで見捨てるよりはよっぽどマシなんだ。

 それは、大切な一歩であり、一言である。

 別の幸せ――――――永遠の愛とは相成れぬものだと思えるけど、そうではない。そもそも『永遠の愛』とは一体なんだ。亡き人をいつまでも想い、孤独を貫くものなのか。手を差し伸べる人が居るのに、それを無碍にすることなのか。

 違う。

 絶対に違う。

 二人は幸せになると、そう誓った。

 二人で生きていくと、そう願った。

 ならば、その道が違えた瞬間、不幸になるなんて、そんな馬鹿げたことがあるものか。

 永遠と銘打つならば。

 違え、道を分かれても、不幸にならない、幸せになろうとするのが『永遠の愛』なのではないだろうか。


 「母さん、オレ、誓ったんだ」


 青臭い、まだ十数年しか生きていない兄が言うのだけど。

 それは、兄の、裕一の、大切な誓いだった。


 「命をかけて、きみのものになるって――――――」


 そして、


 「絶対に、不幸には負けないって――――――」


 力強く、誓いを紡ぐ。


 「二人で、幸せになるって、そう誓ったんだ――――――」








                                                      ■ "EteRnAl_brOke"に続く ■