「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」






"EXpEriEncE"




 

 目が覚めると、朝の検温の時間帯だった。毎日繰り返しているせいか、もう習慣みたいになっているのかもしれない。目覚まし時計がなくても起きられるんだから、学校に通っていた頃とは偉い違いだ。アラームを無視した上、二度寝していたのが遠い昔のような気がする。

 病室の扉が開いた。時間通りにやって来た亜希子さんは、ベッドの上で上半身だけ起きている僕を見るなり額を小突いた。

 
 「ようやくお目覚めか。昨日、みんなが来てたぞ。後で礼言っておくんだよ?」

 「……?」


 話の内容が掴めない。昨日、みんなが来ていた? なんでだ? 何か全員が顔を合わせなければならない用事なんてあったっけか。昨日は、昨日は、ええと、あれ。昨日、昨日だよ。こうしてベッドで寝てるんだからちゃんと今日の昨日があったわけで。その昨日に僕は何をしてたんだっけ。

 少し焦りながら唸る僕を見て、亜希子さんはため息をついた。検温用の電子体温計を取り出しながら、手で「横向きな」と急かしてくる。この肩から下ろしたハンドバックにつながった、なんか変な形の体温計は耳の穴に計器を入れて測定するものだ。脇に挟んで計測するものと違って高価だけど、耳に入れてニ、三秒で計り終えてしまう。

 ピ、と電子音が鳴った。

 
 「三十六度七分……まあ、熱は下がったみたいだ」


 サラサラとバインダーに乗せたカルテにボールペンを走らせている。


 「熱って……オレ、熱なんか出したんですか?」

 「その様子じゃ、倒れたことなんかも覚えてないみたいだな。里香ちゃんの目の前でぶっ倒れたらしいぞ」


 全く覚えてない。昨日は確か、そうだ。多田さんと亜希子さんとお茶を飲んで、それからいろんなことを話して。じいさんは考えろって僕に言ったんだ。里香のこと、僕のこと、そして二人のこと。

 難しいよな。二人が幸せになるってどういうことなんだろう。考えろって言われたって、一人で悶々と頭を捻ったところで答えが見つかるとは思えない。大方、考えれば考えるほど憂鬱な気分になっていくんじゃないだろうか。そうだな、誰かに聞けばいいんだ。自分一人じゃ駄目なんだから、誰かの意見を参考にすればいい。

 人任せみたいで嫌だけど、塞ぎこんで何も考え付かないよりはずっといい。

 
 「妹さんとか大きい野郎、それに、えっと……水谷さんも来てたな」

 
 思考にはまり込む僕を尻目に、昨日に訪れた人物が挙げられる。月香は身内だから兎も角、司やみゆきも来たのかよ。心配性すぎる。ただ単に、悪乗りしたツケで熱が出ただけなのに。

 ……まあ、そこまで心配してもらって、悪い気はしないけど。

 つまるところ、僕は昨日にぶっ倒れて、今の今まで寝込んでたらしい。しかも一日で全快してしまうとは都合のいい熱だ。なんか情けなくて、あいつらの顔が見づらいな。特に里香。


 「そういえば、オレっていつ頃倒れたんですか? 亜希子さんとお茶した後ってことですよね?」


 言うと、亜希子さんは「はあ?」と、首を傾げて聞き返してきた。


 「何言ってんだよ、裕一。いつアンタと茶を飲んだって言うんだい。昨日はずっと里香ちゃんとベッタリだっただろう」

 「え……」


 馬鹿な。確かに覚えてる。多田さんの部屋で寛いでたら、婦長さんから逃げてきた亜希子さんが匿ってくれと入ってきたのだ。それからお茶を飲んで、多田さんの過去話になって。さすがにもう逃げ切れないと観念した亜希子さんが帰っていって。昨日の今日だ、混乱するにしてもはっきりと覚えているのだから仕方がない。

 いまでも思い出すことができる。なんせ、昨日の出来事なんだから。

 冗談でもなく、本気で驚いているのに気づいた亜希子さんが、「おいおい、大丈夫か?」と気遣いげに聞いてくる。それに生返事でしか答えることができない。

 どうなってるんだ?

 ただの熱で倒れただけなんだし、この記憶の混乱は洒落にならない。正直、ぞっとした。認識の食い違いがここまで不気味なものだとは思いもしなかった。それも自身のことだ。僕じゃない誰かの話を聞いている気がしてならない。

 俯いていた顔を上げると、頭を掻いた亜希子さんがカルテに追加で書き起こしていた。記憶の混乱、とでも書かれたんだろう。変な目で見られるのは勘弁だ。あまりこの話題には触れないほうが懸命かも。

 僕は愛想笑いをして、


 「なんか、まだ夢見心地です」

 「だろうな」


 亜希子さんが苦笑した。

 それから少しだけ話をした後、他の患者の検温をするからと言って茶髪の看護師は踵を返す。僕の他にも検温しなければならない患者は大勢いる。いつまでも話し込んでいたら、また婦長さんに怒られてしまうんだろう。

 病室の扉を半開きにして、半身だけ覗かせた亜希子さんは、微笑ましく笑いながら、僕の方を指差す。


 「よっぽど大事なんだな、それ。寝てる間も、ずっと離さなかったらしいぞ」


 視線を向ける。左腕ががっちりと何かを抱き込んでいた。あれ、と今になって気づく。全然分からなかった。寝てる間もずっと抱き込んでたなんて、女の子がぬいぐるみを抱いて寝るのと変わらないじゃないか。赤面して本を投げ出し視線を戻すと、亜希子さんはもう居なかった。

 遅れたように扉が閉まる音。

 誰も居なくなった病室で、僕は膝の上に投げ出されたそれに目をやって目を見開く。

 本だ。それもよく知っているもの。多田さんの病室で渡された、存在しないはずの一冊。なぜ多田さんが持っていたのか、なぜここに存在するのか。何一つ分からないけど、何よりも大切な思い出の品。

 
 「チボー家の人々……」


 その本を手に取って、僕は呟いた。















 里香は怒っているだろうか。目の前で倒れたらしいから、きっと怒ってるだろうなあ。なんて謝ろうか。倒れてごめんなさい、は、なんか間抜けだから却下だ。心配かけてごめんな、なんて言ったら、「別に心配なんかしてなかったわよ」とむくれるに違いない。まあ、それはそれで可愛いけど、後でミカンを投げつけられそうだからこれも却下。

 うーん、気難しいお姫様だからなあ。

 里香はどうも僕が有利に事を進めるのが気に食わないらしい。なんというか、女王様気質なのだ。これを目の前で言ったらヤバいな。豆腐の角もとい、ミカンのへたに当たって死にかねない。

 すれ違った老婆が不思議なものを見る目つきで過ぎていった。

 マズいマズい。顔がにやけていたみたいだ。一人で思い出し笑いしてるなんて、どこかの危ない人と間違われてしまう。両手で軽く頬を張って、筋肉に活を入れる。

 うん、OK。

 東病棟に行く前にナースセンターに寄っていくことにした。時間は九時を過ぎているし、大丈夫だろう。

 同じ西病棟にあるだけあって、すぐに目的地に着いた。窓口を覗き込むと数人の人影が見える。近寄りの看護師に向かって僕は声をかけた。自慢じゃないが、この若葉病院では、僕と里香の名前は結構知れ渡っているらしい。まあ、中年とか老人ばかりの病院だし、噂好きの患者の間ではいい話の種なんだろうな。みんな暇そうだし。

 出入り口で待っていると、中から中年の女性が出てくる。

 婦長さんだ。


 「あら、裕一くん。もういいの?」


 体調のことを聞いているんだろう。僕は頷いた。


 「はい。もう大丈夫です」

 「よかったわ。そうそう、昨日、ご家族とお友達の方が参られてましたよ? 聞いたかしら」

 「亜希子さんから教えてもらいました」


 苦笑して言う。なんか恥ずかしい話だ。過保護、とまではいかないけど、高校生にもなって言われると少し抵抗がある。親と買い物に行きたくないような、それと似た心境だ。

 話を切り上げて、僕は本題に入った。

 夏目 吾郎という外科医を調べて欲しい、と。それを聞いた婦長さんはあからさまに不信感を浮かべた。

 ……無理もない、か。

 急にそんなこと言われたら怪訝に思うだろうし、夏目は僕に縁のない外科医だ。他人のプライバシーを覗くような行為、普通なら嫌悪するはずだ。だけど、僕は知りたかった。あの唯我独尊な医者に思えない医者が。アイツに昔何があって、それで何を想って生きていたのか。

 時折酷く子供じみた言動をするのに、心はどこかスレた雰囲気を纏っていて。

 夏目は、何かを知ったんだ。

 医者は人の命を助ける職業だ。だけど力及ばなくて助けられないことだってあるに違いない。人の死と向かい合って、そのせいで『死』に慣れてしまうかもしれない。夏目はどうだったんだろうか。僕に言ったんだ。ここから先は分からない、と。そうだな。その通りだったよ。いつまでも続くと思っていた未来は呆気なく潰えてしまった。この掌から零れ落ちてしまった。

 覚悟してたけど、そんなもの言葉だけだったって痛感したんだ。

 アイツは、夏目はそれを見越してた。三年後か、一年後か、それとも一ヵ月後か。終わりのある幸せを見越してた。

 里香を見る目は、酷く辛そうだった。

 それでいて、どこか懐かしむような雰囲気だった。

 そうさ。僕は知りたいんだ。そんな目をするときがどんなときなのか、身を持って経験したから。アイツと同じように苦しんで、懐かしんだから気づいたんだ。

 何か大切なものを失くして、それでも生きている夏目が、どんな想いで行き続けているのか知りたいんだ。


 「お願いします……!」


 ただ事でない雰囲気に気づいたのか、迷惑そうな表情から一転、真剣に考え込む素振りを見せる。婦長さんは試すように口を開いた。


 「夏目先生の専攻、どこか知ってる?」

 「……、心臓外科、ですか?」

 「ええ」


 よく分からなかったけど、里香の手術を執刀したくらいだ、それでもおかしくないだろうと言ってみたんだけど。どうやら当たりだったみたいだ。

 一度、息をつく。


 「里香ちゃんから聞いたの?」


 夏目 吾郎は前の病院でも担当医だったらしい。それを僕に話したんだと思われたようだ。別に否定する材料もない。「ええ」と頷く。

 九時半にもなると人通りも増えてくる。会釈を寄越す老人患者にこちらも会釈を返し、隣を見ると婦長さんも同じく腰を折っていた。あまり長話もマズいだろうか。何より執拗に言い寄っていい話題とも思えないし。

 ……ここは、切り上げるかな。

 もういいです、と断ろうとしたときだ。僕より早く婦長さんが口を開いた。


 「脳外科の、藤谷先生なら少しは教えてくれるかもしれないわね」


 驚いて見返す。婦長さんは困ったように目を逸らして、


 「本当はよくないことだけど……場合が場合だから。でも、あまり期待しない方がいいわ。顔見知り程度、って話だから」

 「あ、ありがとうございます!」


 思わず大声で言ってしまった。廊下中の視線が集まるのを感じる。バツが悪く頭を掻いて、もう一度お礼を言う。「頑張ってね」と言い残して婦長さんはナースセンターに戻っていった。

 ……脳外科、か。

 アポも取らずに話を聞くのは無理そうだから、一度話を通して明日にでも会えばいい。

 確か脳外科は東病棟の二階だった気がする。里香の病室に行く前に顔を出せばいいか。僕は結論を出して歩き出した。向かうのは東病棟に行くための通路。足腰のリハビリで、よく杖をついた老人とすれ違う場所だ。今日も同じく、午前中からリハビリを開始していたおじいさんとすれ違った。出会い際に会釈も忘れない。

 東病棟の朝は西病棟に比べて静かだった。出歩いている人も少ないようだ。

 二二五号のプレート探す前に、今日は脳外科のプレートを探す。あまり里香の病室以外は来ないから迷ってしまった。仕方なくトイレ脇に設置されている院内案内の図を見て確かめる。

 ええと、僕が居るのは二階の階段近くのトイレだから……脳外科は正反対だ。

 来る途中の案内板を見逃してしまったらしい。引き返す僕のことを物珍しそうに眺めてくる患者さんたち。知らない人たちだ。向こうは戎崎 裕一だと気づいているんだろうけど、こっちは顔も名前も知らないから変な気分だ。

 三つほど角を曲がると『脳外科』と書かれたプレートが見えてきた。受付窓口の前には女性の看護師が居る。その前にあるソファには診察に来ているのか、五人ほどの中年のおばさんとかおじさんが座っていた。この中で若年の僕は場違いみたいだ。それでも視線を気にしながら受付に顔を出す。

 
 「あの、藤谷先生はいらっしゃいますか?」















 「そう、よかったじゃない。何事もなくて」

 「そうだな」


 相槌を打ちながらも手は休めない。里香の病室に入ってすぐ、容態を聞かれて、大したことないと分かると里香はお茶を要求してきた。哀しいかな、身体に染み付いた従属本能は、愚痴を言いながらも従ってしまうから泣けてくる。ああいや、これは心の汗さ。断じて悔しき泣きじゃないぞ。ホントだぞ。

 件の一件は明日にでも、という話になった。藤谷先生は驚くほど気軽にOKを出してくれたから拍子抜けしたものだ。もうちょっと渋られるかな、と思っていたんだけど。

 そんなこんな、里香の病室を訪れてるわけである。


 「まあ、午後は念のため検査はするらしいけどさ」


 検温時に亜希子さんが漏らしてたことを思い出して言ってみる。一応、病人だからもしものために検査くらいはするのが当たり前なんだろう。どちらにしろ、定期検診が迫ってきてるから、それも一緒にやってくれればありがたいんだけどな。そうもいかないか。

 里香のぶんのお茶をコップに注いで手渡す。


 「裕一は飲まないの?」

 「ん? ああ、オレはいいよ」


 そう、と呟いた里香は湯気が立つコップに口をつける。ここで「ふー、ふー」なんてしたら可愛いんだろうけど、なんかそういったのは行儀悪いと思われているらしく、絶対にしてくれないのだ。行儀悪いか? 熱いんだから仕方ないじゃん。あの熱さを冷まさずに飲める里香も大したものだ。

 視線を彼女から外して、僕はパイプ椅子にもたれかかる。ギシ、と音が鳴った。

 心地良い沈黙だ。

 決して居心地が悪いこともなくて、ただそこに居るだけで心落ち着くから本当に不思議だ。左隣に里香の息遣いを感じるし、その甘い香りも目をつむれば里香の居る証拠となる。

 ……いいよなあ、こういうの。

 気の利いた音楽なんか流せばもっといいだろうに、なぜか里香は音楽をかけたがらない。テレビだってあまり見てないみたいだし。もっぱら本を読むかお喋りしてるかのどちらかだ。たまに勉強してる姿も見ることがある。中学のテキストだった。里香は病気のせいで休学扱いになっているようで、僕と同い年だけど高校一年生らしい。それも復学できれば、の話なのだそうだ。

 今の状態では、学校に通うのも無理なんだろう。手術をして、成功すればやっと出歩けるようになる。だけどそれは平均台を目隠しで渡るようなものだ。最初の一歩で踏み外すかもしれないし、途中で転げ落ちるかもしれない。

 
 ――――――そして何より、渡りきれば落ちるだけなのだ。


 そんなのってないよな。やっと普通に暮らせて、みんなと笑えるようになったとしても。必ずその幸せは終わってしまうのだ。何年後か分からない。何ヵ月後か、何週間後か、何日後か。死に怯えて朝に感謝する日々を、彼女は、僕は耐えられるのだろうか。

 
 「なあ、里香」


 声をかけると、彼女はコップを片手に視線を寄越す。


 「幸せってなんなんだろうな」

 「……哲学的な質問ね」


 困ったように眉をしかめる。小説を読み漁っている里香にとって、「幸せ」の形を数限りなく見てきたはずだ。全員団欒、ハッピーエンドもあれば、愛した人を失い、それからも歩いてくアンハッピーエンドだってある。正直、「幸せ」の形なんて人それぞれ千差万別なんだ。僕が言う「幸せ」は他でもない、二人の「幸せ」なのであって、里香が答えてくれるからこそ意味もあるのだ。

 そうね、と里香が首を傾げる。頭の中では、今までに読んできた小説が掘り起こされているんだろうか。

 僕が読ませてもらった小説の中には、到底理解できそうにもない話が幾つかあった。それは行動理念だったり、主観的解釈だったり。どうしてこうなるんだろう、と僕には噛み砕いても租借できない考えばかり。そりゃそうだ。筆者だって人間だ。自分には曲げられないものがあるし、こうだと信じて疑わないものだってある。

 読み側はそれを全て解釈することなどできもせず、それぞれが独自に組み替えてから理解しなければならない。車のパズルを完成させても、それは宇宙船に化けるかもしれない。物語を描いた筆者本人だって同じだ。後から読み返すと、全然違った感想を持つことだってある。その場の雰囲気とか、自身のテンションとかの影響で、だ。

 
 「あたしが考える『幸せ』と裕一が考える『幸せ』、少し違うかもしれないけど、いい?」

 「ああ」


 僕の答えを聞き遂げた里香は、まだ湯気が立つコップを両手で包み込みながら、ベッドに下半身を横たえて話し始めた。上半身部分のベッドは起き上がっていて、楽に身を起こせるようになっている。老人介護でよく見るアレだ。


 「幸せって人それぞれでしょ? 二人なら二人の幸せ、十人なら十人の幸せ、百人、千人、万人の幸せ。ちょっとしたものから曖昧な表現の幸せまで、当人にとっては幸せでも、相手にとっては不幸せかもしれない。確固とした幸せなんて、その一人だけの自己満足に過ぎないわ」

 「……なら、絶対的な幸せなんてないって言うのか?」


 否定的な答えに憤慨してそう零すと、里香はそうよ、と当たり前のように返した。


 「だってそうでしょ? 『相手を幸せにする』なんて、気持ちの押し付けに過ぎないわ。例えばよ、登山中、裕一があたしを助けるために崖から落ちて、あたしだけが生き残っても幸せになんてなれっこない。守りきったあなたは満足かもしれないけど、残されたあたしは惨めになるわ。逆の場合だって同じでしょ?」


 里香が僕を庇って、僕だけが生き残ったりしたら……きっと耐えられない。自責の念とか、周囲の感情とか、いろんなものが僕を攻め立てるはずだ。きっと精神的に参ってしまう。それで酒に逃げたり、クスリをやったりするんだろう。目も当てられない結末だ。

 僕を助けたつもりなのに、助かった僕が不幸になれば、結局僕だけが不幸せになってしまう。


 「それに、よ? 大体『幸せ』って何? そんな曖昧な言葉なんか、シャーペンの芯くらい頼りないものじゃない。横から当たればすぐに折れちゃう。両端から力を加えてもすぐに半ばから折れちゃう。そんなの、『不幸』っていう、鉄芯には適うはずないわ」


 だからね、と彼女は前置きして、


 「あたしが考える『幸せ』の定義は――――――」


 屈託なく、微笑んで、僕に向き直る。


 「決して『不幸』に負けないことよ!」















 昼食を食べ終わって、午後の検査に行く途中だ。僕は検査着の薄い水色の服に着替えて廊下を歩いている。検査場所はいつもと同じだから付き添いの看護師も居ない。ペタペタとスリッパを鳴らせて、僕は午前中の出来事を噛み締めていた。


 「曖昧なだけの『幸せ』が見つからないのなら、確固とした『不幸せ』にならなければいい、か」


 そうすればきっと『幸せ』になれる。自身満々、胸を張りながら里香は断言した。その屁理屈に笑い出してしまったのがマズかった。怒り狂う彼女を止められるはずもなく、散々いびられた後に釈放してもらえたのだ。

 ……後で謝っておかないとな。

 笑ったのは里香のことじゃないんだ。難しく考え込んでいた、この自分を笑ったんだ。そうだよな。幸せになろうと我武者羅になって目指す、ゴールが見えない徒競走は楽じゃない。その距離も、時間も、競争相手さえ定かじゃないんだ。へばってしまうに決まってるじゃないか。

 
  ――――――確固とした『不幸せ』にならなければいい。


 押し付けでなく、謙遜過ぎるほどの覚悟。だけどそれが一番なのかもしれない。多田さんが言ってたじゃないか。

 
 『嬢ちゃんのこと思って行動して、坊ちゃんが不幸になったらどう思うね? 嬢ちゃん、悲しむんやないかい』


 残された僕が不幸になれば、きっと里香も悲しむ。それは残された僕の想像でしかないものだけど、きっとそうに違いない。だって立場が逆になったとき、里香が不幸になれば僕は悲しい。ずっと僕の影を追い続けて、だけどそれは終わりのない影踏みでしかなくて。だったら里香が新しい出会いを経てくれることを望むだろう。

 それはとても悲しくて、悔しいことだけど。

 彼女が『不幸』になるよりは、よっぽどマシだった。

 幸せになるんじゃない。不幸せになるのが駄目なんだ。だったらどうすればいい? 彼女が、僕が。二人が『不幸』にならないためにはどうすればいい。一番重要なのがその答えだ。だけど僕一人じゃ思いつかない。まだ十七年しか生きてないんだ。大層な『不幸』も経験してないし、恋だってママゴト程度だ。

 若輩にしか考えつかない物があるけど、老成したからこそ考えつく境地がある。

 聞いてみたいよな。知りたいよな。その人たちが見る世界ってものを、言葉でいいから聞いてみたいよな。

 二つしかないポケットの片方に手を突っ込む。硬いプラスチック状のカードが入っている。テレホンカードだ。それを取り出して、備え付けの公衆電話へと向かう。休憩所の一角に設けられたそこに、忘れ去れたように、ぽつん、と緑色の箱型が佇んでいた。

 カードを差し込んで、無骨な銀色のプッシュボタンを押していく。番号は自宅のもの。長いコール音の後、留守電機能が働いて機械的な女の声が流れてくる。月香は学校で母さんは仕事だ。家には誰も居ないのは当たり前だ。「……ピー、という音の後に、ご用件と……」聞き飽きた台詞を流して、電子音を待つ。

 鳴った。


 「月香、裕一だ。明日、母さん休みだろ? たまには顔見せろって言っておいてくれ……後、話があるってことも頼む」


 内容は簡潔だ。僕は長電話しない派だし、何よりお金が勿体無い。月香に巻き込まれて染み付いた倹約精神は遺憾なく発揮されましたとさ、よよよ。

 まあ、兎に角。

 人生の先輩として、身近に居るのが母さんというわけだ。

 親父が死んでから、母さんはしばらく元気がなかったような気がする。そこからどう立ち直ったのか、そして何を想って生きているのか。面と向き合って話すのは恥ずかしいけど、そうも言ってられない。なぜかこう、漠然と思うのだ。急がなければ、と。タイムリミットも後から追ってくる大玉だってないのに。

 里香との会話。午前の最後。そのやり取りが頭から離れないんだ。





 『でもどうしたのよ、裕一。いきなりこんなこと言い出して』

 『いや、な。昨日か一昨日、多田さんと話しているうちにそんな話題になってな』

 『……裕一。まだ寝ぼけてるの?』

 『え?』

 『多田さん、六日前に亡くなったじゃない』

 『え――――――』







                                                     ■ "losT"に続く ■