「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」





"coNfusioN"






 「おう、みんな来たか」


 ナースステーションまで行くと、ナース服姿の亜希子さんが片手を挙げて待っていた。手持ち無沙汰になっている左手はそわそわと落ち着きがない。きっと煙草を求めているんだろうけど、ナースステーションの前で吸うわけにもいかないらしい。あたしたちに視線を向けたまま、ちら、と後方を窺う素振り。

 半透明の窓口がある。

 その部屋は学校の職員室みたいで、数人の看護師さんがそれぞれ座りながら書類の処理をしている。

 部屋の後方、大きな黒板のような板に、「101」「201」と、病室の番号が寿司詰めに押し並んでいて、数字の横には豆電球大の赤灯が横列していた。物珍しいそれを眺めていたのを見つけた亜希子さんが、「ナースコールを押すと光るんだよ、電球が」と説明してくれた。あたしたちは興味深げに頷く。

 見舞い客が訪れる時間帯はとっくに過ぎていた。目ざとくあたしたちを見つけた婦長さんがナースステーションから顔を出す。


 「戎崎さんのお見舞い?」


 怒られるかな、と思ったけど、婦長さんは笑顔でそう聞いてきた。


 「あの……裕一は、兄は大丈夫なんですか?」


 月香ちゃんが一歩前に出て聞くと、「ええ、心配ありませんよ」と婦長さんは穏やかな表情で答える。

 ほ、と息をつくあたしたち。大事はないと聞いていても、電話じゃ中々安心できないものだ。ここまで来て、直に携わっている人の話を聞いて、やっと落ち着くことができた。

 見るからに安堵の表情を見せるあたしたちを見て、亜希子さんたちは苦笑した。


 「今時珍しいわね……こんな素直な子供たちも」

 「コイツらだけですよ、頻繁に顔を出すのは」


 毒づきながら、だけど亜希子さんの表情は柔らかい。いつも二人が話しているときは大概、怒り、怒られている立場だから、こうして和気藹々と談笑している二人の姿は新鮮だ。婦長さんも怒りたくて怒っているわけじゃないだろうし、亜希子さんももう少し勤務態度を真面目にすれば仲良くできるはずだ。

 隣を見ると、世古口くんも同じような表情でやり取りを見ていた。きっと考えていることは同じに違いない。

 二人で苦笑していると、隣を大きな四角型のボックスカーを押す看護師さんとすれ違った。手押しのカートで食器棚を運んでいる形。その食器棚の中には患者さんの食事が入っていて、各病室ごとに配りに行く途中のようだ。

 裕ちゃんの話だと、この病院食っていうのが恐ろしくマズいらしい。そのせいで売店とか食堂に行く患者さんも多いそうだ。だけどそんな真似ができるのは比較的快方状態に向かっている患者さんのみ。起き上がれない人とか、満足に食事を摂取できない人とかは味気のない、薄味を通り越したスローフードに舌鼓を打たなければならないのだ。

 お見舞いの贈り物に食べ物を持っていくと喜ばれる所以は、そんなトコから来ているらしい。

 左手首に巻かれた腕時計を確認する。

 六時半になろうとしていえる時計板では、短針を追いかけるように長針が迫っていた。親には電話しているから門限を気にする必要もない。

 ふと気になって、右となりでダンマリを決め込んでいる月香ちゃんに話をふった。


 「月香ちゃんは電話しなくていいの? 小母さん、心配するんじゃない?」

 「お母さんは仕事で遅くなると思いますし……多分、大丈夫だと思います」

 「一応、留守電だけでも入れておいたら? 余計なお節介かもしれないけど」


 そうですね、と考え込む素振りを見せて、彼女は婦長さんに向き直る。公衆電話のある場所を聞いている。すると、「今時の女の子が携帯持っていないなんて珍しいわね」と、半ば驚嘆の眼差しを向けられて、月香ちゃんは苦笑した。

 
 「携帯電話には、思い出があるんです」


 どこか嬉しそうに苦笑いをする、その話の内容に興味をそそられたけど、月香ちゃんはすでに踵を返すところだった。ここの階の休憩室に一つ、公衆電話が置いてあるらしい。すぐ近くだ。行って帰ってきて、数分とかからない距離だった。

 携帯電話なら、あたしも持っている。だけど、月香ちゃんはやんわりとそれを断った。お金がかかるからいいと言う理由から。変な所でケチ臭い態度も、戎崎家の家事を預かる身としては、自然と身についたものなのかもしれない。お金は気にするな、と言ったところで困らせるだけだから言わないことにする。

 ……将来、いいお嫁さんになれるね。

 きっと、財布の紐は月香ちゃんに握られているに違いない。

 彼女の電話が終わるまで、あたしと世古口くんはナースステーションの前で待つことになった。










 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■










 驚愕に声を失う僕を見て、多田さんはおかしそうに声を上げた。それはイタズラに成功した子供のような、無邪気な笑みだ。ひょひょひょ、といつもと同じく、その奇怪な笑い方は、間違いなく多田のじいさんのもの。何か答えなきゃマズい。でも頭はまだ回復していない。フリーズ状態になって固まってしまっている。

 無理もない。それだけ衝撃的なことを言われたんだ。

 ……おかしい。

 じいさんは何て言った?


 『なんたってな、本当なら、こんな幸いを感じる前に、わしは死んでたはずだからなあ』


 それはどういうことだ?

 多田さんは知っているのか? 

 自分は本来なら、数週間前に死んでしまっていて――――――恐らく、だけど――――――僕が環境を変えたから事実が改変したことを知っている。多田さんは本来なら居ない人物・・・・・・・・・なのだ。でも、なぜ自覚している? 僕にしか分からないことだし、何より確信を持って言い切っている。

 この人は――――――誰なんだ?


 「そんなに驚かんでもええんや。わしはな、坊ちゃんの味方や」

 
 怯える猫に、そっと手を伸ばすように。穏やかな声が、そう告げた。

 幾分、身体の強張りが抜ける。それでもまだ心臓はバクバクいったままで、何がなんだか状況が掴めない。間違いなく多田さんは何かを知っている。

 いや、そもそも。

 僕は、今の今まで気づくこともなかったのだ。多田さんが死期を越していたことを。あのように言われて、やっと気づいた程度。まるで、度忘れしたみたいに忘れ去っていたのだ。スルリ、と滑るように抜け落ちていた事柄だった。
 
 多田さんの死を受けて、僕は里香を砲台山に連れて行こうと決意した。

 だけど、このままズルズルと日常を謳歌していたら、砲台山の件も忘れてしまっていたんじゃないのか?

 不自然なまでに忘却の彼方へ追いやられていた、砲台山に連れて行くという約束。何より里香の口から、あれ以降に話題になったことがない。遠慮しているわけでもなさそうだし、僕が思い出すまで放っておいているわけでもないはずだ。

 それはまるで、里香までもが、忘れてしまったかのように。

 いつもなら停滞気味の脳みそがフル回転して、僕の疑問に答えを出していく。

 おかしい。

 よく分からないけど、何かがおかしいんだ。


 「落ち着きんさい、坊ちゃん」


 そんな加熱する思考を、その一言が無理やりに冷ましてくれる。


 「焦らんでもええんや。ゆーっくりと考えてもいいんだなあ。そのための時間なんだからなあ」


 よっこらせ、とベッドから降りた多田さんは、僕の頭に手を乗せて、それから背を向けて部屋の端に移動する。バックとかの荷物が置かれた、恐らくじいさんの私物なんだろう。ガサゴソと音を立てて大きな鞄を漁っている。何かを探しているみたいだ。こぶし大のダルマとか、よく分からないお面とかを出した後、これだこれだ、と一冊の本を取り出した。

 それは。

 その、本は――――――


 「あ……」


 一気に目頭が熱くなって、頬を伝う熱を僕は感じた。ボロボロと止まらない。止めようとも思わない。男は泣くななんて野暮なことは言わない。ただ、いつの間にか泣いていたんだ。哀しくて、嬉しくて、懐かしくて心が熱くて。それは反射だ。外聞も恥じもあったもんじゃない。午後の日差しが差し込む病室で。僕はあうあうと情けなく泣きはらした。

 壊れ物を扱うような、慎重な手つきで渡された一冊の本。

 表紙が色あせていて、表題の文字が少し欠けていて。

 だけどそれは、何よりも大切な本で。


 「里香ぁ……」


 抱きしめて、声を上げる。彼女を思い出して。その本が彼女だというように。

 『チボー家の人々』、その第一巻。

 里香の父親が、プロポーズ代わりに里香の母親に送った、大切な一冊。

 そして。

 同じように二人で書き記した、『R』と『Y』の二文字。

 マルタン・デユ・ガール、チボー家の人々、第一巻。

 57ページ目。



 


  
 
"命をかけてきみのものになる"










 その隣の『J』という文字が二つの縦線で消されていて、代わりにあるのが『R』と『Y』。間違いなく、僕らが記したものだ。全てを誓って、二人はずっと一緒だと唇を重ねた五十鈴川の土手。その光景が脳裏に浮かんでは消えて、胸には苦くも甘い、彼女との記憶が溢れ出す。

 本を抱いて、前屈みになって。

 多田さんが居なくなったベッドに倒れこむ。涙でシーツが汚れてしまうのに、じいさんは何も言わなかった。ただ無言で、背中をさすってくれていた。

 僕は。

 僕は……。

 
 「なあ、坊ちゃん」


 声だけが聞こえる。視界は暗闇だ。ベッドに顔を押し付けた僕に分かるのは、隣に多田さんが腰掛けていることだけ。あとは何も分からない。時計の秒針が時を刻む音とか、廊下を行きかう人々の喧騒とか。音で分かるのはその雰囲気だけだ。様子は想像でしか思い浮かべることができなくて、実際にはどんな出来事が起きていのか分からなくて。

 気遣ってくれている多田さんの表情は、一体どんなものなんだろう。

 
 「幸いって、なんなんだろうなあ。二人が幸いになるって、どんなことなんだろうなあ」


 多田さんはトメさんと引き離されて、里香の小母さんも夫が先に死んでしまって。僕の母親も一人で生きてきたのだ。どんな気持ちで今まで生きてきたんだろうか。最愛の人が居なくなってしまって、絶望に胸を苛まれて、どうやってまた笑えるようになったんだろうか。

 二人で幸せになろうと誓い、けれど残された一人は幸せになることができるのだろうか。

 僕にしてみれば考えも及ばない答え。それを母さんたちは見つけ、そして今日を生きているのか? まだ十代の僕には口にすることもできない、人生を知っているからこそ導き出される答え。その片々を、僅かなりとも掴むことさえできない。どうなんだ? 時間が傷を癒してくれるとでも言うのか? そんなの、認めるわけにはいかない。そんな癒され方なんか、僕には受け入れられない。

 時が経って、数十年後に若き日の思い出として語られる、里香との思い出。

 そんなの、哀しすぎるじゃないか。

 僕だったらきっと嫌だ。もし僕が死んで、里香が顔も知らない男に寄り添いながら、昔に恋した僕の話をする。懐かしい表情で語る里香。それを慰めるように肩を抱き寄せる男。嫌だ。そんなの嫌だ。これは嫉妬か? それとも独占欲なのか? 彼女と一緒に歩いていくって、そう誓って守り抜くのに、理由なんて要るんだろうか。

 命をかけてきみのものになる、と。

 そう誓った。

 でもさ。

 きみの掌から零れてしまった僕は、どう生きればいいんだ?

 教えてくれる人はもう居なくて。

 果てには顔や声も忘れ去ってしまって。

 グチグチと悩んでいる僕は馬鹿なのかな? やっと想いを遂げられて、キスもして肩を寄せ合う仲にまでなって。司やみゆき、夏目や亜希子さん。いろんな人たちに迷惑かけながらも一緒になれたって言うのに。それを失ったショックで縮こまる僕は、意気地なしなのかな? 最愛の人が死んでしまって、平気な顔をするヤツなんて居るはすがない。断言できる。

 夏目がこの場に居たら、きっと張り倒されるか、無視されるかのどっちかだったに違いない。あんなヤツでも僕より長く生きている。哀しいこととか、嬉しいこととか。胸を抉るような出来事を何度も経験したはずなのだ。

 時々、遠くを見つめる夏目を見たことがあった。

 思い出して、僕が里香を眺めるそれと似ていることに気づいた。失ったと思っていた彼女を見て、嬉しいような、くすぐったいような、そんな視線を送ってしまうのだ。夏目も、同じ視線を、里香に向けていた気がする。それが何を意味するのか分からない。でも、アイツが里香のことを大事に思っていたのも事実だし、誰よりも現実的に受け答えしていたのも同じだった。

 癪だけど、すげえなあって思ったんだ。凄く大切なものを、客観的に捉えるって、並大抵の演技力で適うものじゃないと思うんだ。経験に裏付けられた下地を持って初めて実現する演技。そんなものをアイツが持っているなんて、医師っていう肩書きからだけじゃないと思う。

 人間はさ、表面だけが全てじゃない。

 気遣いがあって、下心もあって。

 全部ひっくるめて、笑顔になるんだ。

 なら。

 ずっと一緒だっていう、その誓いは。

 命をかけてきみのものになるっていう、その想いは。

 残された僕にとって、どんなものになるんだろう。


 「考える時間は、たーんとあるんだなあ。だから考えなさい。たーんと考えなさい」


 僕は顔を上げる。本を抱いたまま、片手で涙を拭く。

 
 「多田さん、あなたは――――――」

 「わしはな、坊ちゃんの手助け役やな」


 窓の外はいい天気だった。休日の伊勢は僅か也にも活気があって、けれど同時に若者が少なくなる。肌寒い外は空気も澄んでいることだろう。屋上に行けば、きっと気持ちがいいに違いない。

 左腕にずっしりと来る本の重さ。

 それがなんとも言えなくて、確かめるように再度抱き寄せる。

 あるのは、間違えようもない彼女との記憶だ。


 「その本は、坊ちゃんが持っときんさい」


 ちら、と腕の中の本に目をやって、多田さんが言った。


 「……いいんですか?」


 喜びも混ざった口調で僕も問い返す。

 でも、そういえば、なんでこの『チボー家の人々』を多田さんが持っていたんだ? 

 この本は、あの・・里香との思い出の品だし、何より多田さんが全てを知っているのはどういうことなのか。分からないことだらけだ。だけど多田さんは語ってはくれない。自分で考えろと、そうでなければ意味がないということは、馬鹿な僕だって分かることだ。だから言ったんだろう、「よく考えろ」と。

 僕のこと。

 里香のこと。

 そして何より、二人のこと。

 僕は、里香を連れて行くべきなのか? 砲台山に。

 連れて行けば、覚悟をさせることになる。心臓の手術を決意させるキッカケなのだ、あの砲台山での出来事は。手術をしなければ、違う未来も見えてくる。今の幸せな時間が続くかもしれない。今の幸せな時間が終わるかもしれない。

 また、里香を失うかもしれない。

 失うのは恐怖だ。慣れることなんかなくて、思い出すたびに、今でも胸を掻き毟りたくなる。

 二度と、あんな想いはしたくない。

 それは臆病なことなのか?

 ならば、甘んじてその烙印を受け入れてやってもいい。戎崎 裕一は臆病者です、と。それくらいで済むなら安いもんだ。

 人間、誰だって思うだろ? 楽に生きたい。幸せになりたいって。その分岐点は無数にあって、選ぶまでもなく決められていて。気づいたときには通り過ぎてしまっている。戻ることはできない。元来た道を逆走することはできない。それが決まりだ。それが普通なんだ。

 ……なら、僕がしようとしていることは、一体なんだ?

 
 「――――――それを、考えろってことですか」


 応答の言葉はなく、だけど肯定されているのは沈黙からも伝わってくる。

 分かんないことだらけだけど、さ。

 僕は、考えてみることにするよ。

 それくらいなら。

 頭の悪い僕にも、できそうな気がしたから。


 「二人が幸せになるって、難しいことですね」

 「そうやなあ。だけどな、答えを出して、前に進めたら――――――」


 にかあ、とじいさんは笑った。


 「それは、素晴らしいことなんだなあ」










 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■










 薄暗い部屋だ。照明が点いていない病室は無機質で、何よりその清潔感がかえって不気味だった。白いベッドで眠る裕ちゃん。あたしたちは静かに近づいていく。

 かけられた布団の中からは、細い点滴の管が伸びていた。

 等間隔で滴る透明な雫。

 
 「裕ちゃん……」


 あたしが病院で最初に見た裕ちゃんは、入院患者だとは思えないほど元気な姿だった。普通、入院したと聞けば、結構な重病を思い浮かべる。『A型肝炎』なんて知人友人でかかった人は居なかったから、どんな病気が全然分からなかった。でも、病院で見た裕ちゃんは元気そのもので、とても病人だとは思えなかった。

 でも。

 こうして、点滴をつながれている姿を見ると、嫌にでも再認識させてくれる。

 彼は、れっきとした病人なんだ。

 元気で暇を持て余していても、それは小康状態だから。悪化すれば倒れちゃうし、起き上がるのだって辛くなる。

 なんだか、眠っている裕ちゃんは、とても痛々しかった。


 「裕一……」


 小さく呟いて、月香ちゃんが彼の目元を拭った。


 「涙の跡……?」

 「なにか、あったのかな」


 あるとしたら里香ちゃんとだろうけど、さっき交代ですれ違った(今まで、彼女が見てくれていたらしい)ときに話をした内容を思い出しても、喧嘩とかしてたようには見えなかった。いつものように病室で談笑していたら、急に顔を青くして倒れちゃったらしい。どうしたのかな。眠っていてまで涙を流す、それほど哀しい夢を見てるのかな。

 すやすやと寝息を立てる姿からは、到底想像もつかなくて。

 怖い夢を見ていても、助けてあげることができない。

 哀しい夢を見ていても、慰めてあげることができない。

 それが凄く、歯がゆくて――――――

 涙を拭った月香ちゃんが、そのまま髪をすく。本人と向かい合っているときには、決してみせない表情。穏やかな、聖母のような笑顔だ。

 その笑顔を、片鱗でも見せてあげたら、裕ちゃんだって考え直すと思うのに。口煩くて口の悪い妹から、お兄ちゃんを大切に思っている、優しい妹に。

 さら、と細い白魚のような指の間をを黒髪が流れる。

 飽きもせず、幾度も繰り返して。

 撫で終わった後の月香ちゃんは、満足そうに微笑していた。


 「まったく、人騒がせな馬鹿ですね……」


 今ばっかりは、その毒舌も形無しだった。そんな穏やかな表情で言われても、説得力も何もあったもんじゃない。あたしと世小口くんは苦笑する。機嫌よさげに兄の面倒を見る妹に気づかれないよう、くすくすと微笑ましく。とても絵になる場面だ。写真に残せないのが心残りだった。

 しばらくすると、もう笑みさえ浮かべている裕ちゃんが寝返りを打った。

 うーん、なんて、歳に似合わぬ幼い寝声だ。そのギャップに、不本意ながら胸がときめいてしまった。なんか、こう、上手く言えないけど、凶悪な寝顔だと思う。ああ、もう。可愛いぬいぐるみを前にしたときの心境に似ているかもしれない。でもみんなの手前、そのまま抱きつくわけにもいかない。だ、抱きつくって、誰も居なくてもそんなことはしないよ? う、うん。

 なぜか両手が宙を彷徨っていた。隣を見ると、同じ格好でこちらを見る月香ちゃんと目が合う。

 ……。

 
 「な、何してるのかな、二人とも」


 世古口くんだ。傍目にも分かるほど顔を引きつらせて、状況が分かりかねる、と目が語っている。


 「なんでもないよね? 月香ちゃん」

 「ええ。別に何も」


 すまし顔で両手を下ろして、あたしたちは言った。何食わぬ顔だ。そして追求を許さぬ表情だ。世古口くんはカクカクとコマ送りで頷いて、見当違いの方向を見据えた。ちょっと顔が青いけど、どうしたんだろう。風邪かな?

 率先して月香ちゃんが手を伸ばす。はだけた掛け布団を直してあげるつもりらしい。それは普通、母親とか父親とか、保護者がすることだ。でも小学生である妹がそれをやって、なんら違和感もないのは凄いことなんじゃないだろうか。手馴れた手つきとかが年季を感じさせる。いや、そんな歳じゃないんだけど、妙にはまっているというか。

 お姉ちゃん体質、ここに極まり、だね。

 よどみなく動いていた手先が、ふとした拍子に止まった。沈黙する月香ちゃんを怪訝に思って、あたしたちは覗き込む。

 本だ。

 薄い茶色の表紙は、年月を感じさせ、見るからに日焼けしていた。どうやら中のページも同様だろう。数年やそこらじゃない。何十年と月日が経っている証拠だった。

 その古本を、裕ちゃんは包み込むように抱きしめている。

 それは、誰からも奪われないように。

 それは、絶対にこの手から離れないように。

 たった一つしかない宝物。なぜか、そんな言葉が浮かんだ。

 クロスされた腕から覗く表題は、『チボー家の人々』とある。漫画しか読まない、活字アレルギーである裕ちゃんには縁のない小説。それを大事そうに持っている。里香ちゃんのものかな? 


 「……」

 「どうしたの、月香ちゃん」


 難しい顔をして黙り込む彼女を見かねて、あたしは声をかける。


 「変ですね……裕一、昼頃倒れてから、ずっと目を覚ましてないはずなんです」

 「そういえば、そうだね」


 亜希子さんも婦長さんも、目を覚ましたなんて一言も言っていなかった。里香ちゃんも同じだ。だけど、こうして本を抱いているのは、どういうことなんだろう。里香ちゃんが渡したにしても、「全然起きないのよ、裕一」なんて嘘をつく必要はあるのだろうか。みんなが目を話している間に抜け出して、どこからともなく本を持ってきた……?

 二人で首を傾げていても、隣の世古口くんは話しに加わらず、ただ笑顔を浮かべていた。

 よく分かんないけどさ、と一言。


 「その本、きっと、とても大切なものだっていうのは分かるよね」


 同意を求めるように、あたしたちに振り返る。月香ちゃんは頷いた。あたしも頷いた。考えるまでもない。裕ちゃんが大切そうに抱いているのがその証拠で、疑う余地など露ほどもなくて。

 
 「幸せそうだね」


 涙の後は、満ち足りた笑顔。

 その真意も掴めぬまま、感じたままの感想を世古口くんが、あたしたちのぶんまで代弁してくれた。


 「……まったく、何を人の気も知らないで、幸せそうに寝てるんですか」


 もう一度、裕ちゃんの髪をすきながら、月香ちゃんが呟いた。






                                                     ■ "EXpEriEncE"に続く ■