"AperTURe" なんだかもう、生きているのが億劫だった。だけど自殺なんて真似ができるはずもない、臆病な自分。 ははは、と自嘲気に笑い。 うはは、と悔し涙を流して。 クツクツと己の不甲斐なさに喉を鳴らす。 何もかもが色あせたセピア色だ。 目玉がおかしくなったんじゃないだろうか。空も、月も、周りの風景全てが色を失っている。いい気味だ、と訳もなく嘲笑い、その無意味さに腹の底が重くなった。ずんとくる苦さだ。吐き気を伴って、内臓を絞った苦い液体。それが喉の奥からせり上がってくる感覚。食道が圧迫される。背筋が猫背になる。 堪らず、道端にブチ撒けた。 人気のない夜道――――――ではなく、早朝の小道だ。人目を気にするまでもないし、今の僕には他人の視線など、どこ吹く風だ。 不快感と一緒に吐き出される胃液。 出すものを出し終えた頃には多少マシになっていた。少なくとも動けないほどじゃない。 汚れた口元を袖で拭う。朝方だったせいか、吐き出されたのは胃液が殆んどだった。夕食に食べたのは大方消化された後なんだろう。 ああ、畜生。 急に空腹感を感じ始めた。 居座っていた腹の重さが也を治めて、今度は食い物を入れろと喚きたてる。いい加減な野郎だ。理性や感情とは関係なく、身体は生理的に一人歩き。どんなに哀しくても、腹は減るし、尿意も催す。どんなに辛くても、眠くなるし、欲情だってする。本当にいい加減だ。 何か食おうか、と考えたけど、この早朝。伊勢で起きているのは早起きの年寄りと新聞配達員くらいなものだろう。店は当然閉まっている。コンビニは近くにない。手詰まりだった。 ヨロヨロと自分が吐いた汚物から離れて、壁伝いに這っていく。背を預けているから楽チンだ。 兎に角、動く気力がなかった。 身体はきっと中距離くらいだったらマラソンだってできる。 だけど、精神は立っているのさえやっとな状況。 このままのたれ死んでも、なんらおかしくはない。 電信柱に抱きついて、そのまま崩れ落ちる。傍から見れば不審なことこの上ない格好。もし僕が通行人として通りかかったとしたら、絶対にお近づきになりたくない人種だ。 そのヘンテコな様子を思い浮かべて、うはは、と僕は笑ってみた。 うはは。 うははははは。 なんて惨めなんだろう。 なんて愚かなんだろう。 指差して嘲笑って、この下衆野郎と袋叩きにされちまえ。 この臆病者。 とっとと行動起こせ。 泣くなみっともない。 泣くなよ。 泣くなったら。 今頃泣いたって、もう遅いんだ。 もう――――――遅いんだ。 ■ ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■ 日が落ちた夜道を、三人で歩いていく。心なしか足早だ。歩幅が狭い私は置いていかれないように、そのぶんだけ歩数で稼ぐ。はっ、はっ、と吐き出された吐息が昇り、顔に当たって霧散する。一瞬の出生。肺の中で酸素と交換された二酸化炭素は不要なものだ。体が必要とするのは酸素であって、その体から精製された二酸化炭素は不要なものとして親に切り捨てられる。 でも。 捨てられた彼らは、人間という狭い体に吸収されることもなく、この大気に還っていくのだ。 酸素と二酸化炭素、どちらが幸福だろうかと問われれば、私は後者と答えるだろう。 霧散しても、そこにあるのだから。混ざり合っても、彼らはなくならない。植物に吸収されて、光合成によって酸素へと作り変えられても、彼らは失われない。 この場では意味もないことを考えながら、曲がり角を右折。 カーブミラーに写った三人の顔は、僅かに焦燥を帯びている。先頭のゆき姉さんの後ろに世古口さん、そして私と続く。亮一は家に帰らせた。もう日が落ちているし、母親も心配するに違いないだろうから。高校生の姉はお供が居るから心配はない。巨漢の世古口さんはプロレスマニアだけあって腕っ節もいいらしい。 いつの間にか点いていた街灯に目を細める。 皆が顔を上げた。 「大丈夫かな、裕一」 戎崎 裕一が倒れたと連絡が入ったのは帰りの電車内でのことだ。周りの状況を気にして小声で話すゆき姉さんの表情に憂いが帯びたのを、私たちは目ざとく見つけた。聞けば秋庭さんの目の前で倒れたらしい。今は病室で眠っているそうだけど、大事をとって検査も目が覚めたら行うということだった。 A型肝炎は風邪の発展版みたいなものだ。何より長引くし、直りかけても些細なことで再発する。 大方、はしゃぎすぎてぶり返したに違いない。 「きっと大丈夫ですよ。裕一、馬鹿だから平気で病院抜け出しますし、そのせいで拗らせたのかもしれません」 その逃亡先である世古口家の一員の大きな人は、そうかもしれない、と頷いた。 できることなら注意してほしいところなのだが、「もう遊びに来るな」なんて彼が言えるはずがない。押しに強い弱いに関係なしに、唯一の楽園である世古口家に逃げ込んできた裕一を、無碍に追い返せるほど彼は冷血漢でもないということだ。むしろお人好しだから茶でも用意して待っていたのかもしれない。 責任を感じているらしく、歯切れ悪く呻き声を漏らして、歩みはそのまま、私に振り向く。 「やっぱり、追い返した方がよかったのかな?」 「難しいところですね。病院を抜け出すのはご法度ですけど、あの病院にずっと缶詰にしておくのも忍びない気も……」 まったくといっていいほど、娯楽とは無縁の若葉病院を思い出し、私たちは無言で通じ合う。 「うん。短期なら兎も角、何ヶ月もあそこに居るのは大変だよね」 かといって、外出のせいでの肝炎を悪化させてはそれ以前の問題だ。長引けば長引くほど暇になるのは他でもない本人だろう。それに、言いたくはないけどお金の問題もある。保険が降りるとはいえ、全額が負担されるわけでもない。少ない給金、どちらかといえば我が家は下層級だった。 いつまでも、あの病院に居られるものじゃない。 お金のこと、勉強のこと、突き詰めれば将来のこと。 ……。 「どうしたの?」 急に黙り込んだ私を怪訝に思ったのだろう、声をかけてきた世古口さんに「なんでもないです」と返す。 ……やだな。 退院すれば、裕一も秋庭さんとは会わなくなるんじゃないかって、一瞬考えてしまった。 もちろん、そのくらいで疎遠になるはずもなく、裕一がはっきりと宣言している以上、退院しても関係は続く。考えれば分かることだ。裕一は秋庭さんのことが好きで、彼女も満更でもない――――――というよりは、好意的に受け取っているようだし。 粘着質な思考を洗い流すように、深呼吸。 煙突よろしく白い煙を吐いた私は、かぶりを振って、緩やかな傾斜を上ることに専念する。 薄暗くなった空は、いつの間にか一番星どころか二番、三番と続いて四つほど顔を見せていた。半透明の雲に、微弱な光の小さな星。消えそうなほど儚いけど、それは遠くから見ているからだ。間近で見れば比べ物にならない力強い光を発しているに違いなかった。 「でも、倒れるくらい大事だったんでしょ……やっぱり、心配だな」 僕、倒れるほどの病気にかかったことないから、と付け加えて世古口さんが言った。 確かに、私も大きな病気と言ったら、水疱瘡くらいしか罹ったことがない。しかもそれは安静にしていれば生死に関わることもない、治療が確立された病気だ。 その点、急性の肝炎である裕一の病気は、悪化すると劇症肝炎とか腎不全になったりするらしい。馬鹿にできない病気なのだ。 答えに詰まっていると、先頭を行くゆき姉さんが振り返って、 「……亜希子さんの話だと、心配ないって言ってたけど」 「何か体を動かすようなことしたのかな?」 「この寒空だし……いつも通り、病室でお喋りしてたんじゃない?」 秋庭さんのこともあるから、ゆき姉さんの話はあながち外れてもいないはずだ。だとしたら、倒れたというのはおかしい。安静にしていれば悪化しないのがA型肝炎だ。今日まで屋内に居たのに、病状が悪化するのはどうしてだろうか。 あれこれ話している内に、病院の入り口が見えてきた。 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■ 「なあ、坊ちゃん」 鋭く入ったチョップのダメージから回復した多田さんはベッドにかけている。僕は視線を向けながらパイプ椅子を仕舞った。 胸を鷲づかみにされた亜希子さんは怒って帰ってしまっている。「油断した……」とブツブツ呟き、拳を鳴らしている様は見ていて寿命が縮むかと思った。ホントに。 「坊ちゃんは、いま、幸せかい?」 どうなんだろうか。 みゆきや亜希子さん、司に月香。気の許せる友人が居て、退屈だけどのんびりできて。 何より、里香が居てくれて――――――。 「きっと、幸せだと思います」 「ほう」 失ったと思っていた笑顔を取り戻すことができた。もう一度、彼女の怒り顔を見ることができた。話しかけ、話しかけられて。凛とした声を聞いて。思い出だけじゃ駄目なんだ。ずっと忘れないと誓っていても、時間は等しく過去を洗い流す。そのときは確かに苦しくても、数年もすれば過去の出来事。 そんなんじゃ、きっと駄目なんだ。 だってそうだろ? 忘れられたらきっと哀しい。思い出だけなんて真っ平だ。大事だ大切だと口にしても、面影さえも忘れてしまっては元も子もなくなる。 でも、里香はここに居る。 僕の隣で笑ってくれる。 僕の隣で慰めてくれる。 「これで幸せじゃなくきゃ、罰当たりってもんですよ」 言うと、多田さんは腑に落ちた、と頷いた。 じいさんの身体は歳のせいか小さくて、大き目のベットに寝ていると、それが際立って見えた。その身体を右側に居る僕の方に向けたあと、じっとこちらを見据えてくる。状況が読めない僕も、視線を逸らさずに見返す。相も変わらず多田さんの目は細い。隙間から僅かに覗く瞳が僕の姿を映した。 互いに無言のまま、試すように、試されるように時は流れて。 ややあってから、口に笑みを浮かべた多田さんは視線を逸らし、仰向けになる。 ふう、と腹の底に溜まっていた息を吐き出した。 「さっきも言ったけどな、わしは幸せなんや」 坊ちゃんのおかげでな、と続く。 「今の幸いがあるのは坊ちゃんのおかげなんだなあ」 「そんな、大げさですよ」 何をしたってわけでもない。お茶を飲んで、他愛もない世間話をして。 なんてことない、一日の描写だ。 「いんや、大げさなんかやない」 だけど、真面目な顔でそれを否定する。決して大げさじゃない、と。 「わしはな、もうこんな歳だしな、もう後先短いと思ってたんや。だからかなあ。朝起きて、目が覚めるとまず上の神さんに感謝するんや――――――今日も生かせてくれてありがとさん、ってな」 「……」 「まあな、じじいの一人や二人、死んだところで何も変わりはないからなあ。でもな、不安なんやな、この死に損ないでも」 いつにも増して饒舌だけど、語られる内容は反比例して重いものだった。 口を挟むこともできない。僕はただ、話を聞いて先を急かすだけだ。 「わしはな、坊ちゃんに救われたんや」 「そんな――――――」 言いかけて、言葉に詰まる。 多田さんは笑顔だった。 眩しいくらいの笑顔で細い目もさらに細まって。 でも。 違和感が。 何か、引っかかるものが。 ――――――何か、忘れてないか? ほんの些細なこと。 思い出せそうで、だけど中々上がってこなくて。 「なんたってな、本当なら、こんな幸いを感じる前に、わしは死んでたはずだからなあ」 ガチリ、と。 バラけていた記憶の欠片がはまる音を。 僕は、確かに聞いた。 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■ 時間の感覚はとっくの昔になくなっていて、辺りの明るさでしか今の時間を推し量る術はない。 空を見上げると、薄い水色に姿を変えた月があった。 半分の月だ。 思えば、この半分だけのお月様にはいろいろと世話になった気がする。若葉病院で里香に出会って、その狭い世界で、とても大切な出来事が次々と起こって。 そりゃあ、僕は散々悩んだり苦しんだりしても、世界は変わることなく回り続けるんだけど、さ。 僕っていう狭い世界の中では、天地が乖離して生まれ変わったような、新しい世界が生まれてたんだ。 でもさ。 その世界の中心に居たのは僕じゃなかった。そこに居たのは髪の長い女の子だ。切れ目で、口が悪い。しかも人のことを下僕みたいにこき使うし、ミカンを投げてもくる。だけどたまに優しくしてくれて、それがとてつもなく僕には嬉しくて。ひいこら言っていたのが嘘みたいに機嫌も直ってしまうんだ。いま思えば狙ってやってたのかもしれないな、アイツ。 その女の子の名前は、秋庭 里香っていうんだ。 里香と一緒ならさ、どこにだって行けると思ったんだ。どんなに辛くてもさ、耐えられると思ったんだ。 でもさ。 そんな誓いも、彼女が居なくなると、呆気なく折れてしまった。 ――――――所詮、口先だけだった。 嫌にでも、そう思い知らされる。 なんでかな。 誓ったそのときは、間違いなくそう思えていたのに。 決して違えることはないと、そう思えていたのに。 状況が一つ変わることによって、そんなものは初めからなかったように、崩れてしまった。 調子いいよな。 カッコ悪いよな。 自分のことながら、呆れてものも言えない。 ――――――おまえもそのうち好きな子ができるんだろうなあ。いいか、その子、大事にしろよ。 五月蝿い五月蝿い五月蝿い。 そんなこと、言われなくても分かっていた。でもさ、僕に何ができたって言うんだ。ただ傍に居ることしかできなくて。最後にはそれさえも適わなくて。大事にしようって、これからはもっと幸せにしてやるって。そう誓うことしかできなくて。万病を治す天才医でもない、たちどころに癒すことのできる神様でもない。 僕は、何もできない、ただの男だ。 だったらどうしろって言うんだ。 彼女を救える力もなくて、看取ることが唯一してやれることだったのに。 それすらも、僕は。 ああ、畜生。 どうしてこう、何もかもが上手くいかないんだろう。 なあ、里香。 教えてくれよ。 僕はどうすればいいのかな……? 何をすればいいのかな……? なあ、里香。 隠さずに教えてくれよ。 僕のこと、恨んでいるか? 最後に一緒に居てやれなくて、怒っているか? ずっと一緒だって言ったのに、僕だけがこうやって生きているのを、おまえは恨んでいるか? ――――――ああ、こんな世界、いつ滅びてしまったって構うもんか。 僕が生きようと思った世界は、もう壊れてしまったんだ。 もう。 もう、何もかもが、億劫だ。 後悔して。 死ぬほど後悔して。 それで里香が還ってくるというのなら、僕は死ぬまで後悔し続けよう。 でもさ。 怖い。 怖いんだ。 里香が、僕を恨んでいたんじゃないかって。 僕が、里香のことを忘れてしまうんじゃないかって。 途轍もなく、僕は怖い。 ――――――いつか、この悲しみさえも、忘れてしまうんじゃないかって。 彼女の顔も。 彼女の声も。 まだ一日も経っていないのに。 今にも、消えてなくなりそうで。 それは。 ――――――儚い、うたかたの夢のようで。 ■ "coNfusioN"に続く ■ |