「朝焼けに染まる空の下で、僕は君にこう言いたかったんだ」




"I_HoPE"





 「亜希子さん、いいんですか? こんなトコでダベってて」

 
 熱い緑茶が入ったコップを片手に僕が言うと、問われた本人はぞんざいに相槌を打った。見舞い人用のパイプ椅子にドガっと腰を下ろした姿はいかにもやる気がない。ナマケモノだってもう少し目に輝きがある気がする。

 というか、やる気のない看護婦――――――今は看護師って言うんだっけ?――――――はマズいんじゃないだろうか。

 仮にも命を預かる立場なんだし。ヤニをふかして職務怠慢は減給どころか首になってもおかしくはない。

 まあ、亜希子さんに言ったところで、一瞥されるだけで終わるんだろうけど。

 婦長さんから隠れて、多田さんの病室で茶飲みしている、いつにも増して平穏な日だ。









 多田さんの病室でエロ本を鑑賞中、亜希子さんが急に入ってきたのが少し前。仰天する僕と多田さんを尻目に、誰かから隠れるように外を窺い、それからほっと息をなでおろした亜希子さんは、少しの間匿ってくれと言ってきた。女の人が全裸で写っている本を持ち、僕たちはコクコクと首を振った。

 いや、断ったら本ごと八つ裂きにされそうだしさ。

 入り口の隣に置いてあるパイプ椅子を取り出しに行った隙を見て、そそくさと本を元の場所に戻す。さすが伝説のエロじじい。返しも並みハンパじゃない手腕だ。

 僕が敬服の沈黙をしていると、気づいた多田さんが微笑して親指を立てた。

 ああ、凄いよエロじじい。

 そのはっちゃけぶりとか、折檻を恐れぬ度胸とか、中年過ぎの婦長さんにまで手を出すその痴漢根性とか。


 「……アンタたち、なに見つめ合って指立ててんだよ」

 
 シンパシーする僕たちを見て、亜希子さんは深くため息をついた。「これだから男ってヤツは」なんて嘆息してる。

 きっとこう思ったに違いない。所詮、男は下半身だけで生きているんだ、と。まあ、実際その通りかもしれないけどさ。街中で可愛い子を見つければ目を奪われるし、スタイルがよければ鼻の下も伸ばすだろうし。半ば反射的に行われるから余計にタチが悪いのかも。同性である男から見れば共感できるけど、女性から見れば気持ち悪いのだろうか。

 逆に、女性がカッコいい男に見とれてニヤけていたら……うん、なんかアレだ。ちょっと引くかも。

 どちらにしろ、人目を弁えず理性を飛ばすのは止めろ、ということなんだろう。

 結論が出た時点で、僕が多田さんのベッドに座らせてもらっていて、亜希子さんはパイプ椅子にもたれかかっている。この病室の主は律儀に茶菓子の準備中だ。

 以前、気が効く性格になるにはどうすればいいか質問したことがあった。するとじいさんは、にまあ、と笑い、


 『おなごの尻のために、躍起になるんや』


 と、妖怪ぬらりひょんみたいにほくそえんだことがあった。

 多田さんを構成する半分以上がエロででてきているんだろう。そして残り半分もエロでできているに違いない。

 その多田さんがベッドに食事のときに付ける簡易型の台? に茶菓子を置いた。綺麗な木目の皿に乗せられた煎餅だ。醤油焼きに海苔が張り付いている定番のやつ。

 視界の端から無造作に手が伸びる。

 亜希子さんだ。

 
 「なんだ、煎餅しかないの?」


 バリボリと噛み砕きながら呟く。

 ……食っておいてそれはないだろう。


 「うーん、すまんなあ、ちょうど菓子類が切れてんのや。赤マムシチョコならあるんやけど……どうかい?」

 「このエロじじい! 病院から出ないでどこでそんなものを!?」

 「ひょひょひょ……がーんといきんさい。がーんと」


 外装を剥いてチョコを差し出す多田さん。何気に目が血走ってる。

 このままじゃ、逆にこのじいさんが出血して倒れそうだ。興奮しすぎて毛細血管がこう、ぶしゅー、って。


 「ほ、ほら、二人とも落ち着いて。多田さんも、亜希子さんも。お茶が冷めますよ」


 決死の覚悟で止めに入ると、二人は渋々と矛先を収めた。こら、エロじじい。なに大事そうにチョコを戻してる。いったん剥いた外装に再び包まれた赤マムシチョコ(ガラナチョコではない)を備え付けの金庫に入れ、うひょひょひょ、とじじいは奇声を上げた。

 
 「これだから男ってヤツは」

 「あー、同感ッス」


 すでにエロじじいのエロ度は犯罪者並みだ。きっと元気に動き回れる体だったら、電車の中で痴漢とか、小学校の通学路でヘッドハンティングとか、デパートの女性下着売り場でブラの試着とかしているのだろう。

 亜希子さんの言葉を聞いて、少し情けなくなりながら、僕も頷いた。









 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■









 ガタン、ゴトン、と足元が揺れる。流れていく風景を流し見しながら、あたしは膝の上にある手提げ鞄を抱え直した。

 電車内には人が適度に座っていて、隣に月香ちゃん、彼女にくっつくように弟の亮一。向かいには微笑ましくはにかんでる世古口くんの姿がある。

 あたしたち四人は隣町にあるデパートに行く途中だ。

 電車に乗らないと行けない距離だから少し面倒だけど、大きなデパートは隣町が最短だから他に選択肢がない。伊勢の商店街にも服とか雑貨なんかは売っている店もあるけど、さすがに若者向けっていう感じではない。だから、あたしたちの年代が買い物に行くってなると、真っ先に候補に挙がるのが隣町のデパートだ。

 休日である今日、あたしたちも例に漏れず遠征に繰り出したわけだった。

 隣町までは電車で十分程度。雑談していればあっという間の距離だ。

 亮一はいつも通り月香ちゃんにべッタリとくっついている。実際に密着しているわけじゃないけど、すきすき光線を臨界近く放射しているのが見ていて丸分かりだ。転んだふりをして抱きついたりしたら折檻するのは確定事項。亮一もそれくらいは弁えているようで、さすがに人前でハグしたりはしない。

 
 「戎崎さんと亮一くん、仲いいね」


 頬を緩ませた世古口くんが言った。

 うん、とあたしは頷いて、こっちは苦笑が混じった笑みを浮かべる。

 
 「歳も近いから、本当の姉弟みたい。本当にあたしの弟なのかな?」

 「髪の色もなんとなく似てるよね。もしかして、生き別れの二人だったりして」


 向き合う形で、会話を続ける。月香ちゃんたちは聞いていない。幼子二人はあっち向いてホイとの掛け声。本当に面倒見のいいお姉さん気質だ。小学四年生とは到底思えない。彼女の精神を二十台の女性と入れ替えたって不自然はないだろう。もしかしたら四十台くらいまで余裕そうだけど……こんなことを言ったら怒られそうだ。

 そんなこんな、他愛ない会話をしているうちに、車内のアナウンスが流れた。









 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■









 「戎崎、暇なんだけど」

 「……里香みたいなこと言わないでくださいよ。だったら仕事してください、仕事」

 「別に時給制じゃないんだから、働きすぎは損なんだよ、分かる? あんたも大人になって会社勤めになればきっとこう思うぞ――――――ああ、働かないで貰う給金の、なんて素晴らしいことか」

 「うわあ、凄い駄目人間ですね」


 真剣に演説していた亜希子さんは、なにおう、と迫ってきた。本気で言っていたらしい。苦労して得た給金が素晴らしい、なら分からんでもないけど、その真逆はコメントしづらい。高校生の僕としては、汗水垂らして大金を勝ち取るのがカッコいいと思う。その金を貯金するにしろ、パー、と使うにしろ、初めて貰った給料とかボーナスは感動するんじゃないのか?

 それとも、社会を知らない餓鬼の勝手な妄想なのか。

 亜希子さんだって働いてるんだから、もちろん給料をもらっているのだろう。でもそれは働いて雇い主に献上したからであって、何もしなければ給金どころか首にされてしまう。ええと、等価交換って言うのかな、こういうのは。

 僕が呆れた目で見ていると、なんだコラァと元ヤンキー看護師が睨んできた。慌てて視線をズラす。

 
 「そうやなあ、人間、楽して暮らせたら一番なんやけどなあ」


 しみじみとこの中での年長者、今年で八十になる多田さんが呟いた。哀愁を感じさせる物言いは年期全開だ。

 
 「戦時中なんか食うもんがなくてな。ありゃあゼロ戦がB29追い回してた頃やったから、昭和十七か十八年頃かなあ」

 「へえ、やっぱり戦争経験者なんだ、多田さんも」


 昔を語りだしたじいさんの独白を、感心したようにナースキャップを乗せた看護師が話を聞いている。昭和十八年となると、亜希子さんも僕もまだ生まれていない。あと二十年もしたら、戦争を経験した生き証人もいなくなってしまうんだろう。資料とか、無機物なものは残るんだろうけど、さ。

 悲惨だ悲惨だとは聞く戦争だけど、聞いたり、映像を見ただけじゃ、やっぱり実感できない。本当に人が死んだり、爆弾が空から落ちてきたりしたのか。たった数十年前なのに、大昔のように感じてしまう。きっと、多田さんだって実感が薄れてきてるのかもしれない。時間が経って、記憶も磨り減ってきて。

 忘れたくない大切な記憶も、削られて。



 






 ザザー     ザ――――――――――――――ッ               ザー、ザ――――――、

    ――――――ッザー                  ザザザザザ、    ザー


 
 ――――――大切な里香との記憶も。

                                ――――――里香の最後を見届けられなかったという後悔も。



 
 ザザー     ザ――――――――――――――ッ               ザー、ザ――――――、

    ――――――ッザー                  ザザザザザ、    ザー









 「ほんま、きつかったなあ。こうやって悠長に飯食って、だらだらと寝てられるようになるとは思いもせんかった」


 まるで病室で寝て、起きて。残りの一生を病院で過ごすことを、幸いだと言うように。

 僕が全然実感できない幸いを、多田さんは感じてるんだろうか。

 伊勢は何もなくて退屈だと、若者は殆んど上京していくけど、年配の人は文句を言わない。退屈で、何もなくても、ただ普通に生きていけるだけで、この上なく幸いなのだと。

 不満を漏らして、刺激が欲しいと故郷を後にする若者たちを。

 じいさんやばあさんたちは、少しだけ、哀しそうな表情を浮かべて見送るのだ。


 「どうだい亜希子ちゃん。今の生活でも、十分に楽なんじゃないのかい?」

 「ったく。こんな話聞いた後で、違うなんて言えるはずないじゃない」


 温くなったお茶を一気にあおった。亜希子さんは生まれてから今まで、生粋の伊勢育ちなのだそうだ。そりゃあ一度はここを出て行きたいとか、都会に憧れたりもする。だけど、亜希子さんはこの町に残った。無茶をやって親を心配させて、それでもこの町で一緒に住み続けている。

 彼女なりの、親孝行ってヤツなのかな。

 結局、僕たちは都会に憧れて、でも同時に恐れてもいる。立ち並ぶ高層ビルとか、歩くスペースもない人ごみとか。まだ経験したことない、聞いただけのものに期待と不安を持っている。失敗して伊勢に戻ってくる人も少なくない。成功して二度と伊勢に戻ってこない人も少なくない。

 田舎者って馬鹿にされるこんな場所だけど、ここを愛している人はまだたくさん居るんだ。年寄りじゃなくても、若い人だって愛着を持っているのに違いはない。伊勢という町に生きて、死んでいくことを幸いだと言う。そんな、ちっぽけな人生。

 
 「伊勢は辺鄙な場所やけどな、つまらん場所やけどな、安心できるんや。この町でなら、ちょっとばかりの不安は消してもらえるんだなあ」


 だからな、と多田さんは言った。


 「後悔のないように、がーんといきんさい。失敗しても、顔見知りばかりやから恥ずかしくないしなあ。励ましてくれるしなあ」

 「なんだ、多田さんもそういうことあったのかい?」

 「なんかなあ、鋭いなあ、亜希子ちゃん」


 苦笑すると、皺が深く刻まれた頬を緩ませて、懐かしむように語り始める。

 それは、僕が、いつか聞かせてもらった、あったかもしれない恋物語。

 若き日の多田さんが恋に落ちたのは庄屋さんの娘、トメさんという人だった。身分違いに悩みながらも、激しい恋をして、肌を重ねて。いや、本当の話なのかは及びもつかないけど、じいさんの青春物語として苦い記憶になっているのだろう。

 結局、トメさんとは結ばれることがなかったそうだ。

 将校さんに嫁いだ彼女を思って、青年だった多田さんはどう思ったのだろうか。

 
 ――――――おまえもそのうち好きな子ができるんだろうなあ。いいか、その子、大事にしろよ。


 馬鹿親父のくせに。

 勿体ぶった言い回しをして言いやがる。

 最低の親父だったのに、なんでその口から、こんな言葉が出てくるんだろう。

 
 「なんだい。諦めちゃったのか、その人のこと」

 「きついなあ、亜希子ちゃん」


 うはは、と多田さんは声を上げて笑う。


 「でもな、わしは後悔したけどな、間違ったとは思わんかった」


 後悔したけど、間違っていない?

 妙な言い回しに、僕は内心で首を傾げた。後悔っていうのは、失敗したことを後になって悔やむことだ。こうすればよかったのだと、もしも間違わなかったらと、心を痛めることだ。

 だけど。

 
 「無理に駆け落ちすれば、親にも迷惑かかったろうしな、わしたちだって戦自中や。ろくな目に合わんかったろうなあ」


 多田さんは首を傾げ、ボリボリと首筋を掻き毟った。その表情は泣き笑いのようなもので、苦しそうだけど、嬉しそうでもある。今まで見たことがない、曖昧な表情だった。亜希子さんも同じ表情だ。何か共感できるものがあったのかもしれない。元ヤンキー時代とか、僕には分からない、いろいろなことがあったはずだ。

 それぞれの過去があって、今があって。

 過去は変えられなくて、だけど少しずつ忘れていって。

 好きだっていう思いさえも消えていくのに。

 ただ、漠然と。

 彼女が。


 「ただなあ、トメが幸いになってくれたらわしも救われるんや。子供作って、白い米食って。わしのこと、死ぬ前に少しだけ思い出してくれるだけで、わしは幸いなんや」


 ――――――おまえもそのうち好きな子ができるんだろうなあ。いいか、その子、大事にしろよ。


 彼女を愛することだけが大切なんじゃない。

 彼女を突き放すことだけが大切なんじゃない。

 彼女が死んでしまっても、ずっと嘆いて悲しむことが、愛なんかじゃない。


 「いいかい、坊ちゃん」


 今まで向き合っていた亜希子さんから視線を移し、僕と真っ直ぐ向き直った多田さんは、説くようにゆっくりと口を開く。


 「坊ちゃんが里香の嬢ちゃんと仲いいのは聞いてるんや。こんな老いぼればかりの病院や、微笑ましい坊ちゃんたちは花やな、花」

 「は、はあ」

 「嬢ちゃんが重い病気なんのも聞いてる。難儀やな、若いのに。だけどな、嬢ちゃんのこと思って、行動すんのはやめんさい」


 言葉に詰まる僕を、多田さんは見上げて、続ける。

 亜希子さんは邪魔をしないよう、端っこで新しいお茶を入れ始めていた。コポコポという音で、安っぽいお茶っ葉から匂いが漏れ出す。


 「嬢ちゃんのこと思って行動して、坊ちゃんが不幸になったらどう思うね? 嬢ちゃん、悲しむんやないかい」

 
 『裕ちゃんは、きっと免罪符を求めてるんだよ』

 『あたしにこうすればいいって聞いて、それに従えば自分は悪くないって思ってる。そうじゃない?』

 
 「だからな、二人が幸いになるために行動するんや。一人だけが幸いになるんやなくてな、二人が幸いになるようにな」

 「多田さんは――――――」


 『憧れている人がいるの。背中を追いかけている人がいるの。今はね、その人に追いつきたい、それだけを思ってる』

 『だから、付き合えないの。ごめんね、裕ちゃん』


 「一緒になれなくても、幸いだと思ってるんですか?」

 「そうさなあ」


 僕を見て、亜希子さんを見て。


 「後悔したけどな、間違ってるとは今でも思ってないんやなあ」


 僕の頭に手を当てて、


 「こんなじじいに構ってくれる坊ちゃんもおるしな」


 亜希子さんの胸を揉んで、


 「こんなええ娘な亜希子ちゃんもおるしな」


 両手でそれぞれをなでて、揉みしだきながら、極上の笑顔で。


 「わしはな、いま、とーっても幸せや」


 チョップの一撃を受けても、多田さんは幸せそうに悶えた。









 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■









 亮一が月香ちゃんを引っ張っていく。お目当ては二階にある玩具売り場だろう。実際に買わないにしろ、見て回るだけで楽しめる。私たちも後から続いてエスカレーターに乗る。危ないから気をつけなさいよ、と注意しても、弟は聞く気もないようではしゃいでいる。

 まったく。

 気を利かせた月香ちゃんが手をつないでいるからいいものを、いや、手をつないでいるから余計に浮かれているのかな。

 策士、策に溺れるってわけじゃないけど、かえって逆効果な気がする。

 店内の案内放送が流れた。上品な声だ。素顔は分からないけど、きっと美人に違いない。

 一番上まで上った後、エスカレーターから降りる。早く早く、とせがむ亮一に苦笑して、あたしたちは歩を進めた。子供服売り場を抜けて少しすると玩具売り場がある。カードを使って遊ぶ、なんとかキングというゲーム機が見える。亮一は目を輝かせて歩み寄ると、財布から小銭を取り出すと何やら操作を始めた。

 画面に夢中になっているのでしばらく動きそうもない。

 世古口くんと顔を見合わせる。


 「どうしようか」


 周囲を見回して彼が言った。


 「どうしようね」


 つられて視線を向けて、あたしも言った。

 二階は主に衣類の売り場になっている。食品やらは地下で、一階は本屋とかCDショップがある。三階はレストラン街だ。

 亮一と月香ちゃんが居るこの二階から離れることはできないから、服を見て回るのが無難かな。

 ちら、と横目で盗み見ると、相変わらず細目の世古口くんが居た。


 「……あたしたちも見て回ろう?」

 
 とは言ったものの、裕ちゃんから聞くところによると、世古口くんはあまり着衣に関心がないらしい。衣類で興味を示すのは料理かプロレス関係。生憎だけど、このデパートにプロレス系はなさそうだ。代わりに料理系はあるだろう。

 エプロンとかなら、婦人服売り場……かな?


 「うん。じゃあ、戎崎さんに言ってくるね」


 ゲーム機の隣で我が弟の面倒を見る、小学四年生のお姉さんに駆けていく背中。遠目から見ても、どっちが引率者なのか分からない。背の小さな月香ちゃんが指示を出しているように見えるのは気のせいじゃないだろう。

 それにしても、本当にお姉さん肌なんだね、月香ちゃんって。

 尻尾を振る忠犬のような世古口くんを待ちつつ、あたしは苦笑した。
 
 







 「うわあ、新作が出てるよ!」


 左胸の部分に大きく『乙女魂ぃ!!』と、達筆でもの凄く男らしい、荒々しくもアクセントが引き立つエプロンだ。桃色で乙女チックながら、胸部分だけがただの白地という拘りよう。学校の調理実習でこんなのを着たら、あらゆる意味で有名になるに違いない。

 その大きな手でエプロンを掲げながら、小躍りする世古口くん。

 女性ばかりの売り場に一人だけ男性が居るからかなり目立つ。しかも巨漢で、料理するより柔道とかプロレス向けの体格。もっとも、彼の趣味はプロレスだから、その通りと言えばその通りだけど。

 
 「どうかな?」


 満面の笑顔で聞いてくる彼に、あたしはどう答えればいいのか迷った。

 正直に言うべきか。

 それとも、オブラートに包んでそっと教えてあげるべきか。

 一応は表情をポーカーフェースで隠して、内心かなり焦りながら考える。


 「ちょ、ちょっと女の子っぽすぎるんじゃないかな」


 言うと、世古口くんは考え込むそぶりを見せて、ややあってから顔を上げた。


 「うん。みんなからもよく言われるかな」


 なんでだろうね、と彼は言った。


 「うーん。裕一が言うにはもっとワイルドに行けって背中を小突かれたんだけど。だけど、横嶋さんは今のままでもいいって」

 「横嶋さんって、隣のクラスの?」


 背が低くて、童顔もあって幼く見られがちの女子だ。あたしも少しだけ話したことがある。委員会活動で二言くらい交わしただけだけど。声もなんとなくアニメ声だった気がする。声優になれそうだ。

 そっか、横嶋さんも料理研究会だったんだ。大方、お菓子作りとかしているうちに知り合ったんだろう。世古口くんは人見知りが激しいから、趣味であるお菓子作りとかプロレスの話題がないと会話が続かないらしい。その点、横嶋さんはお菓子作りという共通話題があったから仲もよくなったに違いない。

 あたしも女だから、色恋沙汰の話には目がなかった。女性の悲しい性だ。


 「へえ、世古口くんも、ついに……!」
 
 「な、何か勘違いしてるよ、水谷さん!!」


 わたわたと両手を振って否定する。振り回されている『乙女魂ぃ!!』エプロンはいささか迷惑そうに捩れた。


 「横嶋さんとは料理仲間なんだ! べ、別にそういう関係じゃ」

 「そういう関係って?」

 「うっ」


 墓穴を掘った彼は声に詰まった。虐めすぎても可哀想なので、この辺でからかうのは止めてあげよう。

 裕ちゃんも言ってたけど、本当に弄られ体質なんだね。体格とのギャップがあって微笑ましい。


 「でも、仲いいのは事実なんでしょ?」

 「う、うん……」


 確か、横嶋さんはフリーだったはずだ。ただの料理仲間だからといって男女がそこまで仲良くなるわけないし、きっと彼女の方も好意を持っているはずだ。元気のいい性格だから、気の弱い世古口くんの手を引っ張る役には持って来いだと思う。

 まだ決まったわけじゃないけど、応援するのは決定かな、うん。

 終始笑顔のあたしに第六感を刺激させられたのか、世古口くんは少しばかり腰を引かせた状態だった。


 「世古口くんは、横嶋さんのこと、嫌いじゃないんだ?」

 「うん。当たり前だよ。同じ師匠を持つ同士だもの」


 急に天を指差して、『イリュ――ジョ―――ン!!』なんて叫びだしたけど、何かの発作だと解釈してスルーする。

 結構普通だと思ったけど、結構普通じゃなかったんだ。世古口くん。

 人間、見た目と性格だけじゃないよね。


 「なら、がーんといきんさい。がーんと」

 「それ、多田さんの真似?」

 「うん。廊下ですれ違ったとき、あたしのお尻触ろうとしてきたから撃退したあとにね、急に爽やかな笑顔でそう言うの」


 三角関係やなあ、青春ってやつかい? と、アルカイックスマイルを浮かべて去っていく背中。多田さん、何気に事情通なんだね、とあたしは背筋を寒くしたのを思い出す。病院に十年も入院してれば、それなりの地位についているんだろう。幕府で言えば将軍、マフィアで言えばボス、若葉病院で言えば婦長さん。

 でも、よく逮捕されないよね。

 きっとおじいさんだから許してもらってるんだけど、あれで二十ばかり若かったらきっと刑務所の中に居るはずだ。

 多田さんの鼻を伸ばした表情を思い出し、苦笑する。


 「多田さん、お尻触ってくるから困るよね。スキンシップにしてはやりすぎだし」


 世古口くんが頬を掻いて、困ったように同意して言った。

 ……。

 なんか、その、多田さん、世古口くんのお尻まで触っているらしい。その、筋肉質なお尻を。

 
 「……月香ちゃんたちのトコに戻ろう?」

 「うん、そうだね」

 「……」

 「……」


 多田さん、恐るべし。









 ■ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ■









 「裕一、裕一!」

 「――――――え?」


 顔を上げると、ご立腹状態の里香が仁王立ちしていた。

 辺りを見回す。東病棟にある里香の病室だ。オレンジ色の夕日が差し込んできている。時計を見ると、午後四時になるところだった。

 僕はパイプ椅子に深く腰掛けた状態だ。里香はいつも通りのパジャマ姿で、ベットの前で胸を張っている。

 靄がかかる頭を再起動させて、



 『どこに行くの?』

 『砲台山ですよ、ユーイチ』

 『え……?』

 『きっとそこに行けば、何か分かると思うんです』

 『ありがとう』

 『駄目ッ!!』

 『覚悟できたわ』

 『ユーイチ!!』

 『里香ッ!?』

 『死ぬ覚悟よ』

 『あ――――――』

 『これで満足して死ねるわ』

 『パパもこんな気持ちだったのかな?パパもここで――――――』



 僕はこんなところで――――――。


 また、彼女を失うのか?



 「裕一、裕一ッ!?」


 里香の声だ。視線を向けると、青い顔して僕の襟首を掴んでいる。ガクガクと揺さぶられ、やっと脳みそが動き出した。

 何か。

 とても大切な何かを、忘れている気がする。

 本当に大切なものだったんだ。

 彼女の――――――彼女の、なんなんだ?

 頭の中で砂嵐が荒れ狂う。脳みそを吹き上げ、ぐるぐると掻き回して、大切な何かが砂に埋まってしまった。


 「裕一!!」

 「――――――あ、里香……?」

 「どうしたのよ! 急に呆けたかと思ったら、顔が真っ青よ!」


 心配してくれる里香の言葉も、今ばかりは耳を通過していくだけだ。普段なら泣いて喜んだその気遣いも、現実感がなくて事実と受け止められない。

 僕は、何を忘れているんだ?

 何か。

 とても、とても大切な何かなんだ。

 急に変わった風景。

 さっきまで、僕は何をしていた?

 僕は。

 僕は――――――。


 『嬢ちゃんのこと思って行動して、坊ちゃんが不幸になったらどう思うね? 嬢ちゃん、悲しむんやないかい』


 だけど、体が勝手に。

 そうだ。

 あれは。

 あの夜は。


 『だからな、二人が幸いになるために行動するんや。一人だけが幸いになるんやなくてな、二人が幸いになるようにな』


 無我夢中で。


 『わしはな、いま、とーっても幸せや』


 ただ助けたくて。

 失いたくなくて。



 『ユーイチ!!』

 『お、』



 だから、僕は。



 『おねーちゃん!!』



 駆け出したんだ。

 半分の月がのぼる空の下。

 彼女たちに、手を伸ばしたんだ。






                                                    ■ "AperTURe"に続く ■