「第壱号消滅跡地に高エネルギー反応!」

 「……え?」


 半ば無意識に返したようなものだった。ただ漠然と事実に対して行われる反射。声がしたからそれに返し、理解できないから疑問符のオマケ付き。

 葛城ミサトは頭が良いわけでもない。持っているのは戦闘時における直感的なスキル。今更大学時代の勉強なんて出来るはずがないし、携わっているEVAに関する理論だって表面上だけだ。引っ掻けば剥がれる、そんな程度。

 だがこの有事、頭の良し悪しはあまり関係はなかった。

 事実を事実として受け止めることが出来るか。

 事実を現実として認識することが出来るかどうか。

 規格外OOパーツ第壱号を倒し、チルドレン二名の実質的な裏切り。説得も敵わない彼らは何をしようというのか。

 
 「これは……ヒトの……」


 モニターに映るのは初号機と弐号機である。その二機の後方、あの黒死龍の黒き雪が降り注いだ地点に巨大な影が出来ていた。そう、影だ。しかし、本来ならば黒一色であるはずのそれには模様があった。赤の曲線は歪な大穴を這うようにして広がり、中心から湧き出していた赤いムカデのような模様は全体まで伸びる。

 形容しがたい音が鳴る。

 林檎を潰したとき、はたまた筋の太い生肉を無理やりに断ち切った音、とでも言おうか。兎に角それは生理的に受け付けないものであり、リアルタイムで耳に入れられた発令所の職員たちは全身を引きつらせた。

 

























 
神造世界_心像世界 第三十四幕 「人類 の 敵」




























 放心していた人間で一番復活が早かったのは、意外にも碇ユイであった。否応なしにでも見せ付けられる物体が目に映り、それが信号に変えられて脳に至り、しかしそこでも理解するのに数秒とかかった。それでも把握しきれたわけでもない。それほどまでに理解しにくい物体だったのだ。

 とぐろを巻くように盛り上がった影――――――いや、実体と化したのだから影ではないだろう、それは瞬く間に体積を増した。

 まるで、水を流し込んだ風船のよう。風が吹けばブヨブヨと揺れる山は珍妙で気色悪い。すでにEVAの背丈を追い越したその物体は体表の模様を鈍く赤褐色に光らせ、太陽光を遮るように巨大化していく。向こう側が透けていた。模様は僅かながらも形を変えていた。幼児が落書きでよく書く出来の悪い化け物だ。それが実写リアルで動いているのだから笑えない話である。

 EVAを追い越し、すでにこの街一番のノッポとなったそれは不気味の一言に尽きた。

 物体の主な部分は薄い水色の、透明なゼリーで構成されている。そこに赤褐色の模様が這い回り、独特な雰囲気を醸し出していた。流動体である本体の内部部分は絶えず移動しているようで、向こうからの太陽光が乱反射した。

 その場に居る三機は見あげる形で沈黙を保ったままだ。あまりの出来事に呆然としているように見える。事実、碇レイはあんぐりと大口を開けた面をしているのだが、発令所に居る人間も同じような顔なので別段おかしくもなかった。その点、碇シンジは満足げに微笑んでおり、惣流・アスカ・ラングレーは小首を傾げて微妙な面持ちだった。

 
 「な、なによ、これ」


 絞り出した声は独白に近い。非現実的なものを認めまいとする頭が拒絶反応を引き起こした、とでも言おうか。これで誰かが否定してくれれば万々歳だ。しかし生憎、この場に居る全ての人間がこれは現実だと理解してしまっていた。それでも信じられるまで時間がかかり、今もこうして口を開閉させるだけ。

 そして、彼女の問いに答えられる者など、発令所には居なかった。――――――発令所、には。


 『ようやく役者が揃いましたね。ご紹介します。彼こそ<人類の敵>さんです』


 は、という間の抜けた声がした。上げたのはミサトだ。

 
 「ど、どういうことよ……?」

 『ご心配なく。彼はまだ準備期間なので害はありません。生まれたてですからね。目も開いてませんよ』


 可愛らしいですね、とシンジが言い、全然、とミサトが返した。残念そうに答えを受け取った彼は、ニヒルな微笑を浮かべて、発令所モニターの半分に自分が映るように、そして音声をNERV内全てに行き渡るよう要求する。訝しむミサトを退け、リツコが了解の意を伝えると、彼は一つ前置きをした。

 別に僕は支配者ゲームマスターではないのであしからず、と。その言葉に反論したのがリツコである。シンジと再会して以来、OOパーツのことを研究していたリツコ以上に情報を知り得ていたのだから無理もない。彼女はシンジが全てを知っていた、つまりゲームマスターではないか、と思っていたのだ。

 しかし、その問いを真っ向から否定したのがその青年、碇シンジである。彼は確かに奇妙な力や、OOパーツに関する情報を持っていた。けれど力に関しては人類全ての人間が行うのも可能であり、ただ実行できないだけであること。次に情報は予め特典・・として教えてもらった、と彼は言う。


 「特典……?」


 リツコは問い返すように呟く。


 『僕はゲームマスターでも傍観者でもありません。観客です。舞台の最前列、その中央。だからあなたたちに一番近くに居て、そして時には僕も台上に上げることもある。ただそれだけですよ』

 「答えになってないわ」


 そうですね、とシンジは苦笑する。

 その二人の様子を見下ろしているのが総司令、碇ゲンドウである。離反者碇シンジと同居していたリツコもグルかと最初は疑ったのだが、こうしているとそれもないかもしれない、と彼は思った。赤木リツコという人間は良い意味でも悪い意味でも芯がある人間なのだ。演技をするにしても、ここまで引っ張る必要もない。シンジが離反を宣言した時点で乗ればいいのだ。

 それに、だ。元々裏切る予定ならば、すでにこの場にはいないはずである。残っている以上、すでに逃げ出すのは不可能。どちらの表情も至極真面目であり、虚偽や偽装を看破するのが得意なゲンドウから見ても、不自然な点はない。

 
 『三年前に起きたサードインパクト』


 その言葉に発令所の人間は総じて反応を示す。


 『ご存知の通り、僕は儀式の依り代とされて、人類が融けるのを目にしました。その後の赤い海、白い砂浜』


 そして、と彼は言い、


 『世界が造りあげられる瞬間をも・・・・・・・・・・・・・・

 「そんな!」


 頭上からの悲鳴は納得出来るものだった。仮にシンジの言い分が正しかったとして、一度無――――――ではなく、一つになった世界が造り直される現場に居合わせた、と彼は言う。ならば、その所業は、まさしく神話そのものではないか。

 
 「あなたが、神だって言うの……?」


 創世の場に居合わせたのだ、そう言っても過言ではないはず。だが、リツコの問いに返されたのは否定の言葉だった。

 大げさに手を振りながら、彼はそんな恐れ多い、と苦笑。


 『僕は居合わせただけですよ。ただ目にしただけ。何もしてません。今思えば、もうそこから始まっていたのかもしれませんね、僕の観客としての役割は』


 思い出すように遠い目をしたシンジは続ける。


 『全てが終わった後、僕はこの世界のことをいろいろと教えてもらいました。急ごしらえで不安定なこと、その副作用たるOOパーツ。大した情報でもありませんね。リツコさんも辿り着いた、言わば秘密でもない事実なんですから』

 「それは誰から教えてもらったのかしら」

 『……』


 沈黙は逡巡だった。ややあって顔を上げたシンジは内緒です、とだけ答える。


 「まあ、いいわ。それであなたは特典をもらった。役割は観客。そして今、OOパーツとも使徒とも取れないものの出現――――――先の言葉、<開幕>と言ったわよね。なら、これが最終幕、つまりは大ボス、ということでいいのかしら」

 
 リツコの言葉にミサトも同意を示す。最終幕、つまりは最終決戦。そう取れる言い方だった。

 黒髪を揺らし、肯定。臆しもせずに頷いた彼はその通りです、と弾んだ調子で言う。嬉しそうだった。見るからに興奮している。そんなシンジを見るのは再会してから初めてだった。それが何よりもの証拠なのだろう。

 一方で、自分と居るときにその姿を見られなかったのが残念で仕方がなかった。


 『彼こそが――――――』


 ちら、と振り返る。

 体内で荒れ狂うのは如何なるものか。透明な巨人は光を拡散させて立っていた。手も足も首もない。ただ寸胴な胴体が直立し、不気味な濁音を奏でている。

 初号機、弐号機、零号機。一番距離が離れているレイでさえ、空気に当てられたのか寒気が治まらない。


 『彼こそが――――――正真正銘、人類の敵。人類が生み出した敵、ですよ』
















 増殖し、拡張し、膨張を続け、ついにそれは張り詰めた風船よろしく弾け飛ぶ。ぶじゅ、と嫌な音がした。四方に飛び散るのは肉片であり、その一つ一つがEVAの半分ほどもある。ここで驚くべきことに、ただ破裂しただけであるはずに、上空で破裂して四散した肉片たちは空を突っ切って見えなくなった。

 まるで自ら飛んでいったようである。

 第三新東京市に落ちた肉片は数えで三つほど。零号機、レイの近くに落ちたそれを見て、彼女は小さく悲鳴を上げて後退した。

 見れば見るほど気色の悪いものだ、と思考の隅で思う。欠片となった今でも動いているし、生臭い臭いが視覚だけなのに漂ってくる気がしてならない。

 
 『話は済んだか?』


 沈黙を保っていたゲンドウの声だった。威厳を持って放たれた声色は動揺の欠片も感じられない。威圧感は鋭く増して、責めるような勢いだ。

 だが放たれた言葉はシンジに向けたものでもないらしい。答えを待たずして彼は告げる。


 『現時点を持って、セカンド・サードチルドレン両名を反逆者とみなし殲滅対象とする。作戦部長、復唱しろ』

 『な、待ってください! ゲンドウさん、シンジとアスカちゃんは』

 『シンジは自ら離反したのだ。今更改めんだろう――――――違うか?』


 モニターに向かって問いかけると、そうですね、と息子が返す。

 呆気らかんとした二人とは対照的にユイは今にも倒れそうだった。顔は蒼白、声も震えている。事の重大さがありすぎるせいでパニックになっていないのが幸か不幸か。


 『シンジ! お願い、もう止めて。こんなことしたってなんの意味もないわ。だから、ね?』


 必死な様子の母を目にして、レイははらわたが煮えたぎっていた。それでも冷静になれるのはユイが半ば取り乱しかけていること、そして未だに敵らしきものがあるからだった。無闇に跳びかかればそれだけで戦うことになるだろう。だから今は傍観しているのが賢明だった。

 でも、と彼女は納得できないものを感じて眉をひそめる。

 こんなに大っぴらにメンチを切る必要があったのだろうか。離反するのが目的だったのなら、訓練中にしろ整備中にしろ、もっと警戒が低いときに行うのが利口だろう。しかしこの状況、確かにEVAに乗り、自由に動けるにしろ遠隔制御があるのだ。かつてシンジも初号機で本部を破壊しようとしたとき、LCLの濃度を限界まで上げられたことがあるはずだ。これをやられるとパイロットは脳神経に負荷がかかって気絶する。

 何か対策を考えてあるのか、はたまた考えなしにやっているのか。今までの碇シンジという青年の狡猾さを見る限り、レイはきっと前者だろう、と思った。


 『残念ですが、副指令。僕は第三に連れてこられたときから決めていたことでしてね』


 母が息子を説得しようと試みている。親ならば当然のことかもしれないが、生憎碇シンジは規格外である。ユイを親だと認識しているのさえ、甚だ疑わしい。


 『それに、観客である僕が言うのもなんですが。ほら、始まりますよ?』


 そうシンジが呟いた瞬間、レイの視界にあった肉片が蠢きだした。










 瞠目する職員たちに披露するかのように、ゆっくりと肉片は形を変えていく。まず立ち上がり、手が伸び足が形成され頭が生える。透明な影絵だ。EVAと同じくらいの背丈があるそれは粘液を垂らして左右に揺れている。レイの零号機から二百メートルは離れているだろうか、モニター上の零号機は咄嗟に予備のライフルを構えた。

 攻撃を仕掛けてこられたら即座に反応できる状態。そのままで彼女は姿勢をホールドさせる。立ち直ったミサトが待機命令を無難に出しているころ、シンジとアスカも同様に戦闘態勢をとった。

 新たな敵の出現。しかしこれも好機ではないか、とユイは気づく。


 「シンジ。分かるでしょ? 私たちがいがみ合うのは後でいいわ。まずOOパーツを……敵を殲滅しないと」


 共通の敵が居れば矛先もそちらに向くはずだ。そんな淡い期待を持っていうが、


 『その提案は承諾できませんね』

 「どうして!?」


 わけも分からない敵、今までと明らかに違う物体。今仲違いしているようでは勝てるものも勝てなくなってしまうではないか。こうしている間にも残り二つの肉片が成長しているのだ。数のアドバンテージがなくなった今、協力し合わなければ到底勝てそうにもない。

 賢明な息子なら分かっているはずなのだ。なぜ裏切るような行為をとるのか分からない。けれど人類のためならば、手を取り合って戦ってくれるはず。なにせ相手は<人類の敵>。倒さなければこちらがやられる。人である以上、倒さなければならない相手。

 だというのに、


 『どうして、ですか。いや、これこそが僕が望んだものだからですよ。クスクスクス……』

 
 すでに武器をあらかた消耗した初号機はプログナイフ一本しかない。弐号機に至っては素手である。そんな状況なのに泣き言も言わない、むしろ楽しんでいる節があった。


 「し、シンジ……」 
 
 『副指令……いいえ、碇ユイさん。貴女は生きていれば何処だって天国になる、と仰いましたよね?』


 そうだ。それこそが碇ユイの信条であり、譲れないものなのである。娘であるレイにも説いたこと。死んでしまったら何もならない。この世は苦しいと、この世はくだらないと、それだけしか考えないのは許せない。生きて、行き続ければ、きっと気づくのだ。

 生きていて本当によかった、と。

 この世界は汚いもので溢れ返っている。人間同士で殺し合う。人を傷つけ、喜ぶ輩まで存在する。それでも醜いだけではないのだ。人とのつながりを尊び、大切に出来る。想い合える。救い合える。なんて素晴らしいことだろうか。一人ではできないことを、二人で、三人で現実とする。

 それがヒトの力だ。

 知恵の実を食したヒトが成せる業なのだ。

 だから、すれ違っても、理解し合えなくても、きっと分かり合えるときが来る。そう信じて生きる。そう希望を持って生きる。

 この世界はこんなにも素晴らしいのだと、そう思える日を夢見て。


 『貴女に譲れない理想ユメがあるように、僕にも譲れない戯言モノがあるんですよ――――――』

 「……それは、なんなの?」

 『ヒトの人生は素晴らしいものであると、そう証明するんです』

 「なら! なら! こんな裏切るような真似をするのはどうして!? シンジの言うことは素晴らしいことだわ! だったら、違う方法で」

 『もう、手遅れなんですよ』


 加熱する思考を冷ますように呟かれた言葉は、ユイの激昂を沈めるのに造作もないことだった。それは諦めているようであり、ただ淡々と事実を認めているようである。

 あまりにも平淡な声が発令所に流れる。皆は動きを止めた。


 『この世界は急ごしらえで創りあげられた。そう言いましたよね?』


 答える者がいないので、唯一常時と変わらない様子のリツコが代わりに答える。


 「ええ。確か、そのせいでヒトが世界に干渉出来るようになってしまったのよね。OOパーツもその副産物である、と」


 反復するリツコに、そうです、とシンジ。

 
 『難しいことは抜きにして、有体に言ってしまえば、世界は再生なんてしてないんですよ。前と同じように創りあげられた、劣悪な模造品に過ぎません。勿論、人間も例に漏れずに』

 「……」

 『おかしいとは思いませんか? いったいどうして戻れたのか・・・・・。天の神様が助けてくれた? それこそまさかでしょう。本当に存在するのなら、世界が滅ぶ瞬間に現れて助けてくれるはずです。しかし神は現れなかった。ならば神はいないということになる。だったら誰が世界を造り直した、いや、造りあげたのか』


 その言葉にリツコは閉口した。確かに、言われてみればおかしな話だ。シンジが言うには、彼は世界創造に関わってはいないらしい。ただ見ていただけだ、と。偽る理由もなし、恐らく彼は嘘をついていないだろう。

 サードインパクトが起きてから、目を覚ますまでの空白期。そこに答えがあるのだろう。しかしその間を知るのは碇シンジしかいない。彼が口を割らない以上、知り得る方法もなく、現時点で一番この世界に通じているのが当人だ。その彼が離反した。きっと意味があることなのだ。

 リツコも、いつかはこうなるのではないか、と薄々感じていたのだが。


 『そして結果から言えば、世界は今日滅びます』










 『え?』


 あのいつだってクールなリツコが出した間抜けな声に、シンジはとても“おかしくなった”。クスクスと笑う。向こうのリツコはすぐに気を取り直し、自身の失態を省みてか、少々顔が赤くなっている。普段とのギャップもあって可愛らしいです、とシンジは褒めたのだが、一刀両断で断ち切られた。

 だが無理もないか、とシンジは思う。誰だって『今日世界は滅びます』と言ったところで、信じはしないだろうし、言った人間の頭を疑うだろう。今だって発令所の何割かはそう思ったに違いない。けれどこの日、今日この日だからこそ意味もある。

 規格外OOパーツ第壱号が現れ、殲滅したはずなのに正体不明の敵が発生。今でも透明な巨人は形を変え続けている。最早ヒト型とは言えない作りだが、これはヒトを模したカタチだ。四肢がある、という手足合計四本の基本は無きに等しいのだが。

 この現実離れした世界だからこそ、戯言も現実味を帯びてくるというわけである。

 視界の左下に映ったリツコも一笑に付すようなことはしない。レイも同じく。そしてアスカばかりは納得したように頷いた。その紅き彼女に微笑みかける。最後まで一緒だ、と。伝わったかどうかは分からない。ただつながっている鼓動は暖かかった。彼女の表情も暖かかった。


 『……その理由は?』

 
 科学者としての顔だ。もたらされた情報を鵜呑みにせず、確認を取る。


 「それが先の特典です。僕は世界が終わる日を知っていた。これが最大のものですかね」

 『だったら!』


 割り込んできたのはミサトだった。今の話を聞いていて、我慢ならないことがあったらしい。


 『なんでもっと早くに教えなかったのよ! もしかしたら対策を』

 「世界を滅ぼしかけた僕が、ですか?」


 皮肉るように言うと、彼女は痛い所を疲れたのか声を詰まらせる。


 「全人類を殺しかけた僕が『あと三年後に世界は滅びます』。きっと殺されるかなんかしたんじゃないでしょうか。もしくは端から聞いてもらえない、とか」

 『や、やってみなきゃ分かんないじゃないのよ』

 「もしも加持さんが明日にでも死ぬと分かったらどうします?」


 意表をつかれたのか呆けるミサトに説き伏せるように、ゆっくりとした口調でシンジは語り始めた。

 一度は死んでしまった加持が生き返り、楽しげに人生を再び歩み始める。喜ばしいことだ。けれどそれは造りものでしかなくて、明日にでも彼は死ぬとしたら。

 ――――――明日死ぬと、言えるだろうか。


 『そ、それはもしもの話でしょ! これとは違う! 滅ぶ日が分かっていたとしても、それに抗うのが人間ってもんよ!』

 『そうだわ、シンジ。諦めなければきっとどうにかなる。私はそう信じているわ』


 ミサトの援護をするユイ。いつだって前向きに。そういう二人なのだ。

 確かにいい意見だ、とシンジは思った。諦めない。挫けない。最後の最後まで希望を捨てない。素晴らしい。大いに結構。


 「いいですね。とてもいい。その青臭い戯言。根拠のない妄想。ク――――――実に人間らしい」

 『『な……』』

 「ですけどね、葛城さん、副指令。考えってものは一つじゃないでしょう。人間の数だけ多種多様な考えがあって想いがある」


 そして、碇シンジの考えは彼女とは異なるのだ。それこそが群体の意味であり強み。一つになることを拒否した碇シンジの主張。他人がいて、理解されない。他人がいて、分かり合えない。それでもシンジは人との関係を望んだのだ。一人は嫌だと。皆が欲しいと。だから、理解されないのも分かっている。分かり合えないのも理解している。

 碇シンジの想いは、彼だけのものなのだと、そう思っている。


 「僕の、僕の戯言オモイ――――――人の人生は、素晴らしいものである!」


 彼の言葉に反応したのか。いや、きっと偶然だろう。透明だった巨人に色が付き始める。

 それは黒。

 欲望の黒。

 渦巻き、溢れ出すのは憎しみの黒。

 赤の模様は黒を引き立たせ、悲しみや苦しみをもブレンドして交じり合う。

 
 「クスクスクス……最後まで諦めない。大いに結構。なら、最後まで足掻き続けようじゃありませんか」


 絶対に立ち向かう勇気。

 滅びに刃向かう勇気。

 醜い人間でも放てる美の輝き。


 「茶番劇に終止符を。この人生に輝きを。ねえ? 精一杯生きようじゃありませんか」







                                           ■ 第三十五幕 「歪んだ時計」に続く ■