あれはなんだ、と様々な言語で呟かれた。それは英語であったり中国語であったり、世界的に使われているものでもあれば、方言が混ざった地域特有のものでもあった。それでも一様だったのは語尾に疑問符がくっ付いていたことだろう。

 白い肌に金の髪。白人特有の容姿をした男性も例に漏れず怪訝な表情を浮かべている。

 周囲に居合わせた人間の殆んどが彼と同じことを思ったに違いない。――――――即ち、あれはなんだ、と。

 上空に現れた物体を説明出来る人間など、その場には居合わせていなかった。いつもと変わらぬ昼下がりの午後。とある東洋の島国でドラゴン退治が行われているなど知る由もない日。
 
 一人一人が思い思いの日常を謳歌する。奥底に眠る本能を押さえつけ、ヒトとのコミュニケーションが円滑に行えるように本音を隠す。それだけで見れば気分を害すかもしれない。だが、そうやって作った笑顔でも楽しくなれるし、嬉しくもなれる。例え奥底を隠していても、その表面の輝きに嘘はないのだ。

 そうして交友を大切にして日々を生きる。それは今日も変わりはなかった。

 空には雲ひとつない快晴。陽光がさんさんと降り注いで気持ちの良い日だった。少し暑い気もしたが、湿度の低さもあって気分を害すほどでもない。カラッとした暑さは程度が良ければ苦にならないものである。

 それは唐突だった。早足の雨雲かと思った。足元が一気に薄暗く翳ったのだ。無意識的に空を見上げた男は強い光に目を細める。目に直接ライトの光を当てられたような強い刺激。思わず目を閉じて、しばらくしてから眉を顰めて目を開ける。

 乱雑だ。チカチカとした反射は耐えることなく蠢き続けている。プールに潜って、空を見上げた時の景色に似ているかもしれない。不鮮明で、けれど光だけは真っ直ぐに伸びる。

 皆が皆、異口同音に疑問を口にして、隣に居た者が肩を竦める。さあね、と恥ずかしげもなく言ってのけたその人物は至って普通の返答を返す。

 これで巨大な円盤だとか、噂に聞くOOパーツであったなら反応も異なるものだったに違いない。

 一見してみれば、それはどちらかといえば綺麗な分類に属される外見だった。だから嫌悪感も抱かなければ危機感も小さい。それ故に気づけなかった。

 一人の女性がそれを指差して何かを呟いた。隣の女友達が倣って空を見上げる。

 ここから見て拳大だった透明なものが大きくなっていた。あっという間に拳から頭部、そして視界からはみ出すほどの巨体だと気づくと辺りがざわめきだした。逃げ出す者も現れている。

 動揺は大きくなり悲鳴に変わった。

 そうして数秒後、地面に激突したゼリー状のそれは人間を食い散らかしながら・・・・・・・・・辺りに広がった。


























神造世界_心像世界 第三十五幕 「歪んだ時計」



























 発令所には情報が流れ込んでくる。それは第三新東京市で行われている戦闘であり、世界中で出現した物体に関するものであった。

 突如現れた物体は、見たままに言えばアメーバのようだ。世界中に現れているそれは第三のものと違ってヒト型にならない。形を成さぬまま縦横無尽に跳びまわって食事・・を続けている。

 リツコは知識でしか持ち合わせていないが、人間が食われる様子は三年前の事態に似通っているものがあった。初めは薄いスカイブルーの色をした体表は次第に赤褐色に変化してきていて、そこに呑み込まれた人間は身体を痙攣させたかと思うと、筆舌に尽くしがたい形相を浮かべて――――――融けた。

 その映像を見たリツコは、これが聞くに及ぶ『人間オレンジジュース』なのね、と胸糞悪そうに目を閉じる。

 本来固体である人間が融ける瞬間は生理的に受け付けないものだった。もしあれが自分に起こったとしたら――――――そんなことを思うと背筋に鳥肌が立つ。

 しかも直前の表情。あれは許容できない激痛を受けたのか、それとも他の感覚を受けたのか。どうすればあんな表情が出来るのだろうか。きっと拷問を受けたとしても、あの顔だけは再現できないだろう。

 リツコは経験していない“融けた瞬間”。けれど発令所に居る者達は殆んどが経験者である。<約束の刻>の最期がフラッシュバックされる。

 現れたゲンエイ

 こじ開けられるココロ

 掴み出されるホンネ

 
 ――――――融けるジブン


 ひい、と誰かが声を上げた。そうなると押さえはもう利かない。あちらこちらで悲鳴が続いて腰を抜かす者や錯乱する者が現れた。顔を青くしてミサトは鎮めようとするが手に負えない。

 これでは満足に発令所が動かせるはずもなかった。シンジとアスカが離反、そして現れた<人類の敵>。ここ一番だというのにこの有様である。作戦部長のミサトは他者を諌めることで己の正気を保とうとしていた。何かに気を向けていれば怖気も紛れるというものだ。そこのところ、さすがは幹部の一人である。

 隣で奮闘する姿を見たリツコは、自分も同様の行動に出ようとして、


 「落ち着け」


 強制の込められた言霊が騒ぎを沈めた。一瞬にして発令所に静寂が戻る。

 それが本人も意外だったのか、一瞬だけ面食らった表情を浮かべたものの、ゲンドウは矢継ぎ早に指示を出す。それを受けた人間はぎこちない動きで持ち場に戻っていく。混乱しているときは、誰かに指示を出された方が気分的にも落ち着くのだ。

 たった一声。

 文字通り“指令”である。リツコはその不自然さに気づいていた。確かに碇ゲンドウの声は特徴的で耳に入りやすいが、こうもあからさまな効力はなかったはずだ。

 シンジの言葉を思い出す。世界に干渉する力は誰にでも備わっている、と彼は言っていた。先程のものも、その片鱗だったのではないか、とリツコは思った。チルドレンは“その方法”になれているから力を発現出来るのだが、通常の人間はそうもいくまい。

 ゲンドウの発した言葉――――――落ち着け、と。

 まさに鎮静剤として投げ入れられたそれは、世界干渉をした上でのものだったのかもしれない。常人であるゲンドウが干渉出来た。それほどまでに事態は進んでいる、ということなのだろう。

 時間がないわね、とマヤの復帰を確かめながら呟く。

 各地に現れた“アレ”は現地軍に任せる他ない。国民の税金で運用されている軍だ、こんなときに役立ってこその武力なのだが。

 
 「赤木博士、アレとの通信を切れ」


 返事をせぬままリツコは言われたとおりに通信を切る。これで初・弐・零号機に発令所での会話は届かなくなる。恐らく聞かれては拙い話をするのだろう。離反が確定した今、こちらの会話を筒抜けにしたままにしておくほど馬鹿でもないということだ。

 モニターでは交戦する三機が映し出されている。レイはシンジとアスカを気にしつつも共闘するつもりのようだ。敵が居る以上、彼らと事を交えるのは得策ではない。

 発令所、ゲンドウは初号機に取り付けられた制御機構を発動させると言い切った。元よりそのための<自爆装置>である。一度発動すればコアとエントリープラグが吹き飛ぶ。いかに堅固な装甲を纏っているとはいえ、内部から破壊されれば一撃。掌の上の爆竹は火傷を負わせる程度だとしても、握り拳の中の爆竹はダイナマイトにもなる。

 制御機構の発動はパイロットが即死するということ。冷徹に下した夫に反感を覚えつつも、そうなるのは仕方ないと判断する自分も居る。ユイとて分かっているのだ。シンジはすでに懐を分かち、彼は彼なりの信条を元に動くつもりなのだと。

 譲れないものがある。それは歪んでいても同じだった。

 抗う人間は最期まで抵抗するという望みを持ち。

 受け入れた人間は最期をどう飾るかと現実を見る。

 そのどちらが愚かであるかなど分かるはずもない。自分が正しいと思った時点でそれは自己完結に過ぎないのだ。この世には正しいことなど一つとして存在せず、また間違っていることも同様に一つとして存在しない。

 ただ、間違っていると気づいていても譲れないものがある。正しいか、間違っているかなど些細な問題だ。当人には肯定の理由があって、対する他者にだって否定する理由がある。そんなもの、論争するだけ無駄でしかない。

 結局のところ、最期に勝った方が“正しい”とされる。それは戦争からかけっこの勝敗まで同じこと。考えるだけ虚しくなってくるから、これ以上は考えたくもなかった。

 
 「では、状況が決まり次第発動させる、と?」


 話は進んでいた。今、初号機を破壊してもデメリットの方が遥かに大きい。戦力的にも紫の鬼神は重要なファクターであることは否定できない事実である。

 故に発動するのは勝敗が決してから。敗北した場合は全員の死であるから別として、勝利した後に間髪おかず爆破する。恩に仇で返すような行為だが、形振り構っている時期は越したのだ。誰が外道と蔑めようか。

 ユイは黙って聞いていることしかできなかった。一度説得に失敗した以上、これより先はただの職権乱用になる。人類の存続がかかっている今、いつまでもシンジのことに構っていられるほど余裕があるわけでもない。

 ――――――息子を取るか、世界を取るか。

 苦渋の選択だった。答えなど出せない。出せるわけがない。

 もしも息子か世界か、どちらか一方しか救えなかったとしたら。制限時間は十秒。選ばなければどちらとも救えなかったとしても。

 それでもユイは選ぶことなど出来はしないだろう。結果、息子と世界、どちらとも失うことになる。そんな光景が容易に想像できた。

 最期まで諦めないという言葉はただの自己暗示なのだ。そうでもしないと諦めそうになってしまうから。何もかも放り出して自棄を起こしてしまいそうになるから。

 息子は血を分けた分身だった。息子は愛した夫との結晶だった。世界は皆が生きる場所であり、必要不可欠なものである。

 どうして選べよう。

 むしろ選べる方がどうかしている。選択とはそんなに生易しいものではない。知識を持ち、自己を確立すればするほど不可能に近づいていく。迷わずに選べるのは理念があるからでも誇りがあるからでもない。考えを放棄しているからだ。

 答えは出ないというのに、迷わずにはいられない。

 本当に。

 本当に人生というものは、ままならないものなのだ。


 「――――――それでも」


 慌しい発令所、その指令席で俯くユイ。ただのお飾りの副指令。それでも構わない。自分は役に徹するのみ。そう考えて、ユイは息子の『喜劇』という言葉を思い出して自嘲した。


 「――――――それでも、ヒトは、生きていくのよ。天国を探すために」
















 勝敗は呆気なくついた。元々戦闘向きではなかったのだろう、ゲル状の巨人はただの一撃を受けて四散する。零号機、弐号機を駆っていた二人も、あまりの手応えのなさに呆けてしまったくらいだ。

 アスカはシンジへと意識を向ける。彼はニヤニヤと意地の悪い笑みを貼り付けたままである。その様子を見て、この敵は一筋縄では行かないことを悟った。

 
 『動かないで』


 銃口を向けながら、警告。蒼の巨人は、モノアイで油断なくこちらを見据えている。アスカは初号機を庇うようにしてレイと向き合った。二対一である。状況の不利はレイとて悟っているだろう。ましてやアスカのATフィールドの一撃は凄まじいの一言に尽きる。EVAが放てる攻撃として、最高峰であることは疑いようもない。

 普通に考えればアスカとシンジは圧倒的有利なのだ。しかしながら、離反する可能性を見越して初号機は起動された。爆弾くびわという物騒なものを取り付けられて、だ。

 故にレイに、発令所に従わなければならない。シンジを確保すればアスカも絡み取れる。シンジを第一に彼女が動いているのは、誰の目からも明白だった。

 だというのに。


 『……っ』


 二人が武装解除することはなかった。シンジにしても、プログナイフを手にしたままだ。


 『……従わないと、制御機構が作動する……それでもいいの?』


 その言葉を聞いて、アスカはさもおかしそうに笑った。電波越しにレイが不快になるのが伝わってくる。ころころと変わるその感情は三年前には見られなかったものだ。変わったわね、とアスカは苦笑する。感情を得たレイは、これからも成長を続けることだろう。やがては普通の女の子と変わらないまでにもなる。

 楽しげに笑う彼女の姿を想像して、それも適わないことだけどね、と割り切った。

 シンジが言うには、今日、この日に世界は終わるらしい。つながっているから分かる。一緒に居たからこそ分かる。

 彼は今日のために生きていたのだ。いや、今日という日を盛大に飾るために第三に戻ってきたのだ。

 変えられないのなら、精一杯美しく散ろう。そんな選択。皆に世界について説いたのも、彼なりの優しさだったのかもしれない。何も知らないで死ぬのは辛いことだ。知らされず、訳もわからず。いつの間にか、事はやり直せないところまで進んでしまっている。

 三年前の使徒戦役。まさに知らぬ間に巻き込まれて人類を融かしてしまったのが他でもないシンジなのだから。

 知らされない苦しみを知っている。だから教えることによって絶望しか与えることがないと分かっていても、ああして発令所の人間全員に聞こえるようにしたのだろう。

 変えられない運命の中で、精一杯輝きを放って散る。最後まで抵抗しようとしているNERVとは真逆の選択。アスカも選ぶ。シンジと共にすることを選ぶ。

 ……これじゃあ悪役じゃないの。

 悪役結構。それで舞台が盛り上がるのなら、シンジと共にゆけるというのなら構わない。むしろ喜んで受け入れよう。

 元々アタシは悪役向きだしね、と皮肉げに口を歪めたその表情は、碇シンジと似通った笑みだった。


 「アタシは技術部員も兼任しているのよ? そのままにしておくわけないじゃない」


 発令所からの音声は入ってこないが、こちらの会話は筒抜けのはずだ。今頃どうなってるのか見ものだった。










 「発動信号を送れ!」

 「駄目です! 拒否されました!」

 「……続けて試みろ」


 苦々しく呟いたゲンドウは己の失態を呪っていた。リツコばかりに気がいっていて、アスカの工作に気づけなかったのだ。惣流・アスカ・ラングレーは天才である。それこそ三賢者と呼ばれていた惣流・キョウコ・ツェペリンを母に持つ。類稀な頭脳は赤木リツコや碇ユイにも引けを取らない。

 
 「直前まで監視は怠らなかったのに……腕を上げたわね」


 称賛とも取れる呟きにマヤは非難の目を向ける。リツコは苦笑すると続けて言った。


 「彼らが不利になるような信号はすでに無効化されていると思われます」

 「対策は」

 「戦闘中に行うのは不可能です」


 恥ずかしげもなく言ってのけたリツコに、ゲンドウは虚言を述べている可能性は低いと判断する。発令所からの抑止がなくなった今、残された手段は物理的殲滅戦のみである。

 となると単機であるレイが当然不利になる。一対一ならば望みもあるのだが。

 ゲンドウはこのままでは埒が明かないと、離反した二人との回線復帰を命じる。間髪おかずにつなげられた回線から、不気味な笑い声が漏れてきた。

 すでにシンジは狂っている。自分も他人のことを言えた義理でもないがな、と内心で自嘲した。


 『一回戦は僕らの勝ち、ですかね』


 まあ僕は何もしてませんけど、と彼は続けて言う。


 『回線がつながったことですし、話の続きをしてもよろしいでしょうか』

 「……そうね。さっき飛び散ったもののことも聞きたいし、ちょうどいいかもしれないわ」


 リツコは指令席に視線を向ける。それに気づいたゲンドウが無言で頷いて返した。

 情報が圧倒的に不足している今、シンジから与えられる情報は生命線なのだ。対策を考える時間稼ぎとしての理由もあるので、話を続けることのメリットは大きかった。

 シンジもそれを分かっていて話をしているようだった。“舞台”の演出の一部なのかもしれない。


 『どうです? 飛んでいったものは大活躍しているでしょう?』

 「――――――ええ。洒落にならないくらいに、ね。まるでB級映画だわ」

 
 いまどき人を食うなんてナンセンスである。しかもLCLに融けるとなれば、舞台役者の反発は免れないだろうに。

 各国の軍が出動して対策に当たっているものの、成果はない。むしろ被害は増すばかりである。幾度アレを破壊しても、留まることなく食事は続けられる。無機物を除いた有機物は取り込まれると液状化――――――LCLに還元されてから吸収されるようだった。

 ぶよぶよとした外見からも分かるが、その物体は有体に言えばアメーバのようである。表面上の模様や大きさを考えなければ、誰が見てもそう思うだろう。

 攻撃され、四散しても死なない。その散ったままで動き出す。体積はLCLを取り込むことによって増す。濃度が濃いほど黒に近づいていく。

 これが、情報をまとめた上で分かっていることだった。

 かいつまんでそう話すと、シンジは感心したように拍手を鳴らした。巨人サイズのエヴァンゲリオンが両手を鳴らしている様は酷く滑稽だ。馬鹿にされているような気もしたが、シンジは純粋に称賛しただけである。少ない情報からここまで導き出すとは、さすが天下の赤木リツコである。

 
 『すでにお分かりかもしれませんが、アレはOOパーツの行き着く終着点です。攻撃されても死なない体。ただ純粋に仲間――――――いえ、自分を増やすことのみに特化した性質。下手に知識もないから、本能以外の行動パターンはなし。生物として見れば、アレ以上のものはそういないんじゃないでしょうか』


 使徒と同じく単体としての道を選んだものだ。ただ、彼らのように強力な半永久機関もなければ知識もない。喰らうことしかできない野蛮な生物と言われても仕方ないだろう。

 だが、それだけに強力なのだ。有機物を取り込み増殖を続ける。餌がなくなればどうなるかわからないものの、現在の食物連鎖では頂点に立つこと間違いなし。

 アレが通り過ぎたあとには、草一本も残らないのだ。人口物だけは免れるのがなんとも皮肉なのだが。


 「……じゃあ、アレが“世界を終わらせる”オオトリってことかしら?」

 『……クス』


 明確な答えは返ってこない。意味ありげに微笑んだシンジを見て、ミサトが激昂しかける。それを片手で抑えながら、リツコは与えられた情報を噛み締めて整理する。

 ほぼ間違いなくアレが最後のOOパーツなのだろう。進化の終着点が単細胞生物であることは納得出来る。

 ATフィールドで出来ているのなら、ロンギヌスによって殲滅可能なのだが、生憎世界各地に散らばってしまっているのだ。適当に消し去ったとしても、効果は期待できない。

 使徒と同じくコアがあれば話は別なのだが。それを内包しているものを見つけるのは絶対に不可能であった。ご丁寧にも、アレは世界各地に等間隔でばら撒かれている。発展途上国では軍も出動できずに悲惨なことになっていた。

 
 「シンジは……世界が滅びてもいいっていうの……?」


 ユイは絶望に打ちひしがれた声で言った。


 『まさか!』


 それとは正反対に、彼女の息子はオーバーリアクションで答える。明らかに楽しんでいる。通夜のような雰囲気の発令所とは別世界の住人である。

 くつくつと肩を揺らしてシンジは笑った。


 『世界が滅びてもいいだなんて……そんな不謹慎な! どちらかと言えば肯定派ですが、滅びてしまってもいいだなんては言いませんよ』

 「さっきと言ってることが違うじゃないのよ!!」


 ミサトが怒鳴った。職員達も同じような心境なのだろう、シンジを見る目は敵意に満ちている。その視線を心地良さそうに受け止めてみせた息子に、ユイは背筋が凍る思いだった。何があそこまで息子を駆り立てるのだろうか。きっと向けられる殺意でさえ、彼は純粋に心地良いと思うのだろう。

 
 『何を勘違いしているのか知りませんが、僕が世界を滅ぼすのではありません。世界が滅びるから僕たちは滅びる』


 言い聞かせるような口調だった。言いたいことが分かったのか、ミサトはバツが悪そうに閉口する。

 
 『――――――即ち、世界が僕らを滅ぼそうとしているんですよ。だったら僕に文句を言うのは筋違いというものでしょう。苦情は世界に言ってください』

 「……ぐ」

 
 恨めしげに睨むミサトを尻目に、リツコは話を再会させる。どちらにしろ時間は残り少ない。アレを倒さないとその後の対策が練れないのだ。もしもアレが世界に生み出されたというのなら、敵は世界そのものということになる。

 スケールの大きい話ね、とリツコは思う。まあ、世界滅亡をかけた戦いなんてしている時点で現実味に乏しいのだが。


 「それで、貴方は情報を与えてくれるのかしら? 有益なものだと尚ありがたいのだけれど」


 これは本音だ。あのアメーバは並大抵のものではない。通常兵器が効かない、恐らくEVAでも同様だろう。負けはしないが勝てもしないのだ。厄介なことこの上ない。

 全滅覚悟で核を撃ち込んだとしても、破壊された荒野に悠々と生き残っていそうだ。

 各国にしても、今は軍で対応しているものも、効果がないと分かったらどうなることやら。自分たちの近場まで攻め込まれてきたら錯乱して危ないスイッチでも押しかねない。

 すでにアレは世界中に広がっているので、第三新東京市だけが狙われているわけでもないだろう。自らの祖国に核の花を咲かせる輩も、そのうち出てくるに違いないのだ。

 
 『……そうですね。皆さんも目標がなければ動けないでしょうし。勇者は魔王が居てこそ引き立つというものです』


 その勇者はNERVを指しているのか、はたまたシンジを指しているのか。どちらにしろ不毛な話であることには違いなかった。


 『さて、以前にも話した通り、アレはOOパーツです。それはいいですね?』


 ええ、とリツコは返した。


 『壊しても殺しても動き続ける。アレを使徒に言い換えれば、コアがないからです』

 「やっぱり……」


 それは予想出来た。完全無敵の生物など存在しない。あのドラゴンだって倒れたのだ、アメーバ如きが勝るはずもない。

 それじゃあ、とリツコは思案する。コアがないとしたら、考えられるのは別の場所に隠されている、という可能性だ。大きくて特徴的ならば問題ないのだが、ミジンコのように小さければ探しようがない。使徒のように固有波形パターンを当てにすることはできないのだ。何せヒトとまったく同じなのだから。

 第三新東京市で四散したことから、コアはこの付近にあるのだろう。探し出して破壊、それしか手はない。


 『ですがリツコさん。コアというのはあくまで仮称です。OOパーツのコアが、使徒のように赤い球体であるとは限りませんよ?』

 「……! そうね」


 言われてから、いけないいけない、とリツコは頭を小突く。どうも長年の癖がまだ抜けていないようだ。どうも何もかも使徒と関連付けてしまう。早急に頭を切り替えないと、あとで痛いしっぺ返しを喰らうことになるだろう。

 
 『ここまで教えて差し上げたんです。少しは発令所の皆さんと話し合ってみてはいかがですか? その間――――――』


 ちら、とシンジはレイの後方を覗き見る素振りを見せた。気づいたレイが横目で確認すると、倒したはずの巨人、その破片が蠢きだしていた。

 
 『僕らは、アレと戯れていますから』


 言い終ったや否や、アメーバはEVA三機に襲い掛かってきた。

 強力な攻撃手段を持たないものの、装甲から中に入り込まれたらひとたまりもない。生体部品は一瞬にしてLCLと還るだろう。素体をやられることは敗北を意味するのだ、無闇に近づくのは得策ではない。

 幸いにしてアメーバの数はそう多くはなかった。知恵がないせいか、どれもが近くに居る機体に真っ直ぐ跳びかかってくるだけだ。一機だけに数を集中させなければ、捌けないものでもなかった。

 
 『シンジ』

 『うん……なるべく孤立しないように陣を組んで、あとは攻撃しないように。切っても増えるだけだから。碇さんもいいですね?』

 『…………。発令所、構いませんか?』


 確認を求めてくるレイに、ゲンドウは頷いて返した。今は従っていた方が無難である。

 アレをひきつけておく囮役のようなものだ。攻撃しなければ増えることもないようだし、まあ、地上に残っていた者達には酷な話かもしれないが、頑張ってもらう他ないだろう。

 今、第三新東京市には加持が率いる保安・諜報部の面々が出張っている。彼らと交友を持つ職員は気が気でないようだった。

 例に漏れず、夫が死地に居るのだからミサトには余裕がない。

 三機が陣形を組んで対処を始めた。逃げ回るという作戦上、地上に居る人間を気にしている暇はない。不慮の事故で煎餅を作ってしまっても致し方ないだろう。

 
 「ああもう! どうして全部教えてくれないのよ!?」


 帽子を脱いでミサトは頭を掻き毟った。髪が乱れるが気にしている様子もない。


 「全部教えてしまっては面白くないからでしょ? 喜劇は踊らなきゃ意味がないのよ」

 「あの餓鬼……!」

 「止めなさい。今シンジ君の機嫌を損ねたら取り返しがつかないわよ?」


 実際のところ、何を言おうが、シンジは機嫌を損ねないことをリツコは確信していた。それでも口にしたのはミサトを落ち着かせるためである。他に他意はない。

 ただの方便だとは知る由もない作戦部長は渋々と矛先を納めた。一応幹部である自覚もついてきたので、自分が取り乱すと指揮が乱れるのを熟知していた。だから表立って反論するのは止したのだ。内心は不満たらたらであったのだが。

 とりあえず場が治まったので、彼らは話し合いを開始した。議題は『OOパーツのコアはどこにあるか』だ。

 あのアメーバを止めるにはコアを押さえるしかない。その中枢たるコアの存在はすでに教えてもらっている。情報が嘘であったのなら元も子もないのだが、ここでシンジが虚言を述べる可能性は低いというのが皆の見解だった。今まで、情報の出し惜しみはしているものの、嘘はついていないからである。

 コアとなる物体はどこにあるのか。最高峰の頭脳を持つリツコとユイが頭を捻る。しかしながら如何せん情報が少なすぎた。

 未だに未知に包まれた部分が多いOOパーツ。その最もたるのが中枢、コアである。


 「ねえ、さっきからコアコア言ってるけど、そもそも“コア”ってなんなのよ?」


 ミサトは自棄気味に言い放つ。

 それに嘆息してリツコは説明をした。いま活動しているアメーバ状のOOパーツを止めるためにコアを破壊しなければならないこと、コアさえ破壊すれば全てが終ること。それが隠されている場所を探している、とも。

 さっきシンジ君が言ってたでしょう、とリツコが言うと、作戦部長はそれでも納得いかない表情で反論する。


 「だからぁ、あたしが言ってるのはコアが何処にあるのかじゃなくて、なんなのか・・・・・ってことよ。まずどんなものなのか分からなきゃ探しようがないじゃない」


 例えば、コアが隠されている場所が現実世界とは切り離されている場所だとしたら、その時点でアウトだろう。しかし、情報提供者であるシンジは話し合ってみろと言った。それはつまり探し出せる場所にあることを意味するのだ。

 ミサトの言うことは至極単純なことで、コアがあの赤い球体でないとしたら、恐らく上手く擬態しているのだろう、ということ。つまりは一目では分からないものに化けている・・・・・ということである。

 
 「昔から言うでしょ? 『木を隠すなら森の中。人を隠すなら人ごみの中』って」

 「「……!」」


 リツコとユイは顔を見合わせた。これがミサトの強みである。学者肌な二人には導き出せない単純な答え。小難しい計算式は簡単に解けるのに、こういった問題に詰まるのが科学者の欠点であった。

 今回のことも、まさに灯台下暗し。思い至れば行動に移すのみ、だ。

 リツコは指示を出しながら説明することにした。


 「なるほどね。お手柄よ、ミサト」

 「え?」

 「『木を隠すなら森の中。人を隠すなら人ごみの中』だったら、OOパーツを隠すなら?」


 コアコアと言っていたから疎かになっていたのだ。コアはあくまで仮称。有体に言えば、探しているのは他でもない、OOパーツそのものなのである。

 
 「……OOパーツを隠すなら、やっぱりOOパーツの中なのね」


 ユイはなぜ気づけなかったのだろう、と苦々しく言った。


 「OOパーツの中? あのアメーバのどれかに入ってるってこと?」


 ミサトの視線の先には交戦するEVA三機とアメーバが八。虱潰しに破壊すればいつかはあたるだろうが、それでは敵を増やすことになる。そう彼女が進言すると、リツコはアレじゃないわ、と考えを否定した。

 モニターに目をやってキーを打つ。今まで外の戦闘の映像がメインだったそこに、第三新東京市付近の地図がアップされた。元々小さかったチルドレン達の声はさらに低くされ、リツコのキータッチ音は発令所に良く通った。

 地図に示される赤い点。都心から離れた郊外に七箇所、いくらか近くの場所に一つ。


 「なによ、これ」

 「OOパーツよ」

 
 へ、とミサトは間抜けな声を上げた。


 「お、OOパーツって……え? どういうこと?」

 「シンジ君は以前こう言っていたわ。破壊されたはずの第三新東京市は元通りになっていた。まあ、この街こそがOOパーツだって見方も出来るんだけど、ひとまずそれは置いておいて」


 そう言って、モニターから視線を外した彼女はため息をついた。


 「元通りになる前とその後、変わったものは何?」

 
 むむむ、と腕を組んで考えてみる。まず直っていた建物、そして融けたはずの植物、死んだはずの人。それらは還ってきた。理屈なんてわかるはずもない。兎に角、死んだはずの人間までもが生き返ったのだ。中には、生きていたはずの人間が戻らなかった例もあるのだが。

 あとは……変わったところなどあるのだろうか。いいや、先に上げた例は“変わった”のではなくて、“元通りになった”のだ。リツコは“変わったものは何”と聞いている。

 変わったもの。必死に頭の中を掘り返すのだが、それらしいものは見つからない。

 サードインパクト後は、いろいろと印象的なことが起きすぎていて、そのどれもが記憶を占めているから些細なものは忘れ去られてしまったらしい。

 これはもうお手上げである。降参の意を示すように、ミサトは肩を竦めた。


 「やっぱり、インパクト後の帰還とか、建物の再生の印象が大きすぎて忘れがちなのよね……まあ、かく言う私も忘れてたんだけどね」

 「勿体ぶらないで教えなさいよ! 遊ばせる時間はないんだから」


 一つ頷いて同意したリツコは話し始める。灯台下暗しとはよく言ったもので、元々『OOパーツ』と銘打たれたものはそれだったのだ。

 インパクト後、至るところに“生えていた”遺物ガラクタ。害もなければ利もなかったそれは、ただ邪魔になるから、景観の妨げになるからと撤去された。

 それはもう、粗大ゴミをどかすように。

 撤去されたあとも、何事もなく、三年もすれば記憶の片隅に追いやられてしまった。残っているのは先程示された八つ。


 「この八つがOOパーツ。シンジ君の言う“コア”は、恐らくこのどれかであるはず……!」

 『――――――大正解!』










 シンジは頭の上を飛んでいくアメーバを見送りながら称賛の声を上げた。それとついでに音声のボリュームを戻してくれ、とも頼むのも忘れない。

 解かれるとは思っていてものの、ミサトがきっかけになるとは思いもよらなかった。

 これだから人生って面白いんだよね、と喜色満面。彼は発令所メンバーを視界の隅に納めながらも、回避の方に意識を残すことも忘れない。ここでしくじれば末代までの恥である。シンジに子供は居なくても、この大舞台で失態を犯すわけにはいかなかった。


 『シンジ君のお墨付きがもらえるとはね』

 「なかなかに面白い会話でしたよ――――――特に葛城ミサト作戦部長」

 『嫌味を感じるのはあたしの気のせいかしらぁ?』

 
 顔を引きつらせるミサトに向かって、


 「まさか! 他に他意はありませんよ」

 『どういう意味よそれ!!』


 と、ドアップになったミサトは障害物よろしく押しのけられる。代わりにリツコの姿が現れた。


 『じゃあ、私たちはコアの破壊をさせてもらうわ』


 シンジはクスクスと笑って、どうぞご自由に、と言い切った。その後に目を細めて、僅かばかり声色を低くした彼は、俯き加減に続けて言う。


 「――――――まあ、簡単には破壊させませんけどね、この僕が」


 その言葉を予想していたのだろう、リツコは大層にため息をつく。彼女の後ろで暴れ狂う悪鬼が見え隠れするものの、きっと酒を飲みすぎて酔っ払っているのだろう、と見当をつける。

 いいねえ、とシンジは思った。実に素晴らしい、と感涙に咽んだ。

 これこそが待ち望んだ最後だ。ここまで上手くいくとは、どこかの神様に感謝したくもなるというものだ。キリストだかアラーだか知らないが、自分の味方をしてくれるのならば、足の指だって舐めてやろう。

 ……さあ、行こうか。

 最高の舞台にしようじゃないか、と意気込んで。

 ボルテージは最高潮。まるで感情があるみたいだった。久しく忘れていたものだから、これが本物なのか、或いは別のものなのか判別がつかないのが口惜しい。


 「どうです? 悪役っぽいでしょ、今の僕」

 『ええ、それはもう。でもシンジ君。貴方が悪役だとしたら、私達NERVは何になるのかしら』

 「愚問ですね。僕が悪だとしたら、役回り的にも決まっているでしょう? 貴方達NERVは自他共に認める“正義の味方”なんですから」


 シンジの言葉に、ミサトを含めた職員らは『何を当たり前のことを』という顔をして、残り数名は顔を顰めた。


 「もう無駄話はこの辺にしておきましょう――――――アスカ」

 『うん』

 「碇さんの相手、頼めるかい?」

 『任せて。最後なんだもの、派手にやってやるわ!』


 未だにアメーバは動き続けている。この中での戦闘は間違いなく乱戦になるだろう。相手ばかりに気を向けすぎると、アメーバに背中を食われる。酷く神経を使う闘いだ。

 三機の陣形が崩れた。外れたのは碇シンジの初号機だった。

 レイが追おうとするが、アスカの弐号機に阻まれる。そこに襲い掛かるアメーバ。舌打ちしてレイは群集から距離を取った。その間にも初号機は安全圏に抜け出してしまっていて、もう追うのは難しくなってしまった。


 『シンジ、忘れないで。シンジに何もなかったとしても、アタシの全てで満たしてあげる』

 「――――――ああ」


 忘れるものか。忘れられるものか。教えてくれたのは他でもない彼女なのだから。空っぽな自分に流れ込む紅の鼓動。それは優しくて、暖かくて、それでいて力強くて。

 ただ終焉に向かって歩いていた自分に色を添えてくれた。

 こうして自分と共に歩いてきてくれた。

 そうして。

 碇シンジが望む役に徹しようとしてくれている。

 断ってもよかったのだ。普通ならそうするだろう。けれど彼女は自分と同じように普通じゃなかったのだ。縋ることでしか自己を確立出来ず、他者に委ねることでしか生きていくことができない。そんな壊れた彼女が選んだのが自分。

 碇シンジは彼女に死ねと言ったようなものだった。

 それでも彼女は嬉しそうに受け入れてくれた。

 罪悪感がないわけでもない。僅かに残った思考パターンが、シンジに“痛い”と知らせてくる。

 ――――――ああ。

 ああ、彼女の気持ちが凄く痛い。彼女の気持ちが凄く嬉しい。

 だから、だから、自分は彼女の気持ちに報いるためにも、最後まで駆けぬけなければならないのだ。

 
 『だから……一緒。ずっと一緒。これからは、ずっと一緒――――――そうでしょ、シンジ?』


 うん。シンジは迷わずにそう返す。心は解け合い混ざり合い。別つことなど適わないほどに一つになって。


 「――――――うん。ずっと一緒だよ」


 そう残して、彼は一歩を踏み出した。










 「なんなのよ、あの子達……」


 理解できない、とミサトは呟く。二人の会話は発令所にも流れていた。

 狂人の会話だ、と一笑に付す者、訳もなく声に詰まる者。反応は様々だった。けれど共通して理解出来たのは、彼はもう交わることはない、ということ。

 
 「リツコ……?」


 無言で俯く姿を怪訝に思ったのか、ミサトは声をかける。


 「あんた……泣いてるの……?」

 「シンジ君もアスカも、選んだ道を歩き始めた――――――」


 彼女は涙を拭った。いつまでも泣いている場合ではないのだ。

 シンジとアスカが病的に依存し合っていたのは知っていた。だから、先程の会話の意味も理解出来た。だから、もう止めることなど不可能であると理解出来た。

 
 「だから、私も私が出来ることをするだけ――――――本当に。本当に、無様ね」

 「それでも、だ」


 リツコは顔を上げた。相変わらずの仏頂面で、ゲンドウは続ける。変わらないはずなのに、それはどこか穏やかなものにリツコは感じた。


 「まだ終っていない。分かっているな、赤木博士」

 「はい」


 そうか、と鷹揚に頷いて、


 「ならば――――――問題ない」










 シンジは安全圏に抜けたことを確認すると、歩調を緩めた。そのまま歩いて、小高い丘が見えてきた辺りで足を止める。

 目をつむった。

 ――――――想像しろ。

 皆につなげる感覚。アスカとのつながりとはまた違うライン。感情ではなくて声を通すためのもの。

 そうだ。

 ――――――僕の声は、世界中に届くのだ・・・・・・・・


 「あー、聞こえますか。全世界の皆さん。人類の敵、碇シンジです」


 彼は、実に楽しげにそう切り出した。







                                           ■ 第三十六幕 「彼が望んだ終末」に続く ■