黒の残留が散っていく。それはまるで雪のようだった。穿たれた黒死龍は一撃で屠られ、その名残も今まさに消滅しようとしていた。

 風が吹く。

 周囲は地獄、吹き荒れるのもまた暴風。

 だというのに、その黒い雪はふわふわと漂い、そこだけが辺りとは切り離されている錯覚を覚える。
 
 ゆっくりと。

 とてもゆっくりと。

 雪は天上から降り、積もる間もなく消えていく。

 それは彼の。

 それは彼女の。

 
 ――――――この世界に生きた証だった。

























 
神造世界_心像世界 第三十三幕 「開幕」



























 発令所は歓声に包まれていた。

 これまでまったく歯が立たず、見ていることしか出来なかったOOパーツを打ち倒したのだ。それも規格外という化け物を。

 竜は生物の頂点に立つ最強の捕食者である。それに比べて人間のなんてちっぽけなことか。ただ目が合っただけで死んだように感じる。その吐息だけで楽に死ねる。絶対に勝てないと一目で分かる。それが竜だ。

 戦自の大隊を一撃で壊滅させ、それに続いて国連軍をも塵と還した。

 全てを滅ぼすブレスを吐く。そのかぎ爪は鋼鉄を切り裂く。身体を覆う鱗は銃弾、果てにはミサイルさえも防ぎきる。化け物、という名がこれ以上相応しいものはそういない。

 人間と化け物。この二つが戦って牙を交えれば、これといった武器を持たない、か弱き人間の敗北は必然。その爪で四肢を切り裂かれ、ボロ布のように引きちぎられるだろう。

 しかし、彼らには武器が、知恵という見えない武器があった。

 一人で駄目ならば二人、二人で駄目ならば十、千、万。素手から棒、棒から剣、銃。その知恵を絞って様々な物を作り出し、自らの力としていった。

 単体としてのヒトは弱い。群体としての人間も弱い。けれど群れることによって何かが変わる。一人では怯えてしまうときも、隣に仲間が居るだけで奮起することもある。群体としての人間は弱さを補って強さを得る。

 集まったヒトは強力で、そして勝てない敵にも勝てる奇跡を生み出す。

 葛城ミサトは、奇跡なんてものは信じていない。しかしヒトが起こす"必然"は信じている。

 モニターには黒の奔流。黒い雪が舞い、空気に解けて空へと還る。先程まで死を撒き散らしていた竜の死に様は美しいものだった。

 彼女は喉からあらん限りの声を迸らせ、その興奮を噛み締めていた。凄い。まさか本当に倒せるとは。こう言ってはなんだが、あまり勝てる気がしなかったのだ。黒死龍の力を見せ付けられ、膝が震えていたのだ。きっと発令所の皆も同じだったろう、とミサトは思った。事実その通りで、彼らは本能的に敗北を予感していた。それが死に直結しているとしても、だ。

 常に死のイメージが頭の隅で再生されていて、それがいつ現実になってもおかしくなかった。だがどうだろうか。竜は打ち倒され、自分たちはこうして生きながらえている。勝ったのだ。まさにデスマッチ。勝者は生き残り、敗者は死ぬ。その試合、死合に勝ったのだ。

 発令所の人間は席を立ち上がり、雄叫びを上げ、抱き合って喜び勇んだ。反応は完全に消失。ロンギヌスに貫かれた竜は、その特性から完全に殲滅された。<ATフィールドを貫く>という概念が竜の根本から殺し尽くし、後に残る物は何もない。

 ビリビリと空気が震えた。涙を流して取り乱す女性職員。握り拳を掲げて叫ぶ男性職員。様々な反応があるが、彼らが喜んでいることだけは共通だった。


 「やった! やったわよ、リツコ!」
 
 「ええ。槍を使って、だけどね」


 切り札とも言えるロンギヌス・コピーを使用してでの勝利。これがなければ苦戦、いや、敗北していた可能性が高い。EVA三機がかりでも追い詰めることが適わず、後一手が足りない状態。それにパイロットの疲労、周囲の損害状況、諸々を考慮に入れると、今回の勝利はぎりぎりだったのだろう。それをいま口にするのは水を差すようなものだ。

 リツコは抱きついてくる作戦部長を受け止めながら苦笑した。


 「やりおったな、碇」
 
 「ゲンドウさん! シンジが、レイが、アスカちゃんが……ああ、本当に」


 指令席で咽び泣くユイ。冬月も年甲斐もなく興奮していた。竜という強大な敵に打ち勝ったのだ。彼らは歴史的瞬間に立ち会っている気がした。

 
 「……」


 だが、発令所の人間が感情を湧き立てる中で、二人――――――碇ゲンドウと、赤木リツコだけが表立って称賛の言葉を口にすることはなかった。普段から堅苦しい二人だが、今は雰囲気がなんとなく違う。ぴりぴりしているというか、何かを警戒しているというか。

 気づいたユイが怪訝そうに夫の名を呼ぶ。隣の老人もただならぬ気配を感じ取ったようで、眉を顰めながら口を噤んだ。

 口元の前で手を組み、視線はモニターに映るEVAを睨んでいる。紫と紅の巨人の下へ近づいていく蒼。この三機が見事竜殺しをやってみせた。生まれ落ちた英雄。ドラゴンスレイヤー。

 NERVは正義の味方として恥ずかしくない成果を遂げ、この映像はリアルタイムで流されているから各国だって確認しただろう。

 OOパーツを倒し、脅威は去った。EVAも三機が無事、パイロットも疲労はあるものの大きな問題はない。第三新東京市が壊滅的被害を被ったことを除けば、なのだが。

 規格外という化け物を相手取る以上、多少の犠牲はやむを得ない。いつ現れるのか、そしてどこに、何が。そんなもの、分かるはずがない。OOパーツは世界のどこだって現れる可能性があるのだ。第三新東京市の黒き月を目指していた使徒とは違う。それでも、碇シンジの発言により、第三が世界の中心である可能性ができ、そこにOOパーツが引き寄せられる、と予想が立てられた。

 しかしあくまでも予想だ。彼の言うことは納得出来るものばかりだったが、確固とした証拠がない。個人は兎に角、団体、果てには政府を動かすには証拠が要る。故に大きな行動を起こせず、OOパーツが現れてからでないと動きようがなかった。

 万全と銘打ちつつも、穴だらけであったこの状況。

 それでも、被害を出しながらも勝利を得ることが出来たのだ。

 喜んでもいいだろう。クラッキングを仕掛けたのも、こうして竜を倒せたのでなんとでも言い訳がつく。現にミサイルの引き金を引こうとした者もいる。相手側も大きくは出れない。全てが丸く収まった、とでも言えばいいだろうか。


 「ゲンドウさん……?」


 彼の胸から覗き込むようにして、ユイは言った。何をそんなにも警戒しているのだろう。竜は殲滅したし、センサーの反応も消失した。確かに敵が消えたからといって気を抜くのは褒められない行為だ。しかし今回ばかりは仕方がないことだと思う。まさに絶望的だと思われていた戦闘に勝利したのだ。この程度はまだ生易しいくらいだ。

 ゲンドウが見据える先にはこの度の英雄、三人のチルドレン。今、彼らは勝利を分かち合い、三機が集まったところで、


 ――――――刃の切っ先が向けられた。















 「……なんの真似?」


 ほぼ相対距離がゼロにろうとした瞬間、予備のプログ・ナイフを抜き放った初号機は一息で刃を突きつけていた。それは蒼の巨人の胸元。このまま貫かれれば、恐らくエントリープラグの直撃コース。狼狽したレイは、その動揺を表に出さずに半歩下がった。冗談にしては笑えない行為だ。気づけば背後に紅の巨人が。前後から挟まれる形で零号機は動けない。

 
 『アスカ……いいの?』

 『今更じゃない。シンジが何を考えているかなんて分からないけど、アタシはついていくだけよ』


 聞こえてくる会話はレイのみならず、発令所にも流されている。今頃そこでは大慌てだろう。何せ戦闘が終わった途端に、初号機と弐号機が敵対行動を取ってきたのだから。

 映像は全世界のお偉いさん方も見ているはずだ。現に、発令所には各国からひっきりなしに通信が送られてきていた。

 
 『何してんのよ! シンジ君!』


 割り込んでくるのはミサトの声だ。激昂しているのか、声が僅かに裏返っている。映像を見るまでもなく、顔を真っ赤にして怒鳴っているのが目に浮かんだ。

 その大音量に眉を顰めつつ、レイは自分でも驚くくらいに冷静になってくのが分かった。他人が取り乱すほど自分が冷静になると聞いたことがあったが、経験してみると中々に滑稽だ。自分ではなく、ミサトが、だが。

 油断なく全周囲を確認する。前方には初号機がプログ・ナイフを装備で、後方には徒手空拳の弐号機がいる。厄介なのは弐号機のATフェールドを応用した断層の一撃。これはアスカにしか出来ない芸当である。レイもシンジもATフェールドは壁を張るものだと認識してしまっているからだ。

 結果から言って逃げ出すのは不可能だろう。大人しく抵抗しない方が賢明だと判断を下す。


 『性質の悪い冗談は止めなさい!』

 『クスクスクス……冗談でこんなことをするとでも? 僕はふざけてなどいませんよ、葛城さん』

 『なら、なんでこんなことしてんのよ!?』


 ダン! という物を叩いた音が聞こえた。後は気味の悪い静寂。発令所の誰もが言葉を失っているようだった。無理もない。竜という敵に勝ったその後にこれだ。思考がついていけないのも当然だろう。

 
 『あんたたち……まさか裏切る気!?』


 耳を劈くような怒鳴り声にも、向けられた本人はどこ吹く風。クスクスと流れてくる笑い声だけが返答だった。碇シンジ。彼の思考だけは理解できない。きっと誰にも理解されない。他でもない、碇シンジ本人でも。

 ヒトではない何か、そんなふうにレイは思う。元々彼女もヒトではなかった。そのときの思考はシンジやアスカ、彼らを別種族のものだと割り切っていた。ヒトとなった今では昔のことだ。だから分かる。昔のレイの思考が理解できないのと、碇シンジの思考が理解できないのは同じようなものなのだと。

 彼が何を感じ、何を考えているのか。ヒトでない、人間でないのだから理解できるはずがない。


 『裏切る? 誰を? そして何に? 僕は裏切る気などないですし、裏切ったつもりもありません』


 その声はかつてないほど喜色に満ち、興奮の色が読み取れる。


 『規格外OOパーツ第壱号。始まりにして終わりの合図。さあ、前座は終わりですよ、葛城さん、いや、全人類の皆さん』


 初号機は両腕を広げる。そのすきをついて離脱。弐号機が追いすがろうとするが、シンジの一声で興味を失くしたように諦めた。

 レイは距離を取るために地面を蹴る。背は見せられない。前方に彼らを捉えたまま、出来る限り離れることに成功した。油断はできないのだ。アスカは中距離用の必殺ともいえるものを持っている。ATフィールドの断層は壁を中和するので厄介なのだ。多少、進行速度を遅らせることは出来るものの、威力を損なわぬまま断層は刃となって襲い掛かってくるだろう。

 警戒は解かない。いつでも動ける体勢。

 でもどうして、と彼女は唇を噛んだ。碇レイは碇シンジのことを嫌っている。正真正銘の一人息子。後から加えられたレイに対して、シンジは間違いなくユイから産まれている。兄ともいえる存在だ。つながりは彼の方が大きい。ユイだっていつもシンジを気にかけていた。この三年間、消息を絶ってからも探し続けていた。

 碇レイは、碇シンジのことを嫌っている。だが最近は認めるようになってきたのも事実だったのだ。ユイには暴言を吐くし、気に触るようなことを言う。けれど決められた役割をきちんとこなしていた。OOパーツ戦に備えての訓練では顔を合わせるときがあった。そのときに見た横顔は必死で、普段の道化のような雰囲気は微塵も感じさせなかった。

 なんだかんだ言っていても、共に戦う仲間だと思っていた。

 それは自分の勝手な思い込みだったのだろうか。レイが彼を認めただけで、向こうは元から協力する気はなかったのだろうか。

 操縦桿をきつく握り締め、碇レイは薄く開いた口から気泡を漏らす。くっ、と無意識に喉が鳴った。

 レイは嫌っていたはずなのだ。一緒に居るのが不快だったし、全てを達観したような、その皮肉げな表情が嫌いだった。馬鹿にされてるのか、と一時期思ったこともある。しかしそうではないようで、皮肉げな表情は彼のデフォルトであると分かってから苦笑したものだ。シンジの父親であるゲンドウは仏頂面、そして息子のシンジがその表情。親子揃ってずれた二人だ、と。

 碇レイは、碇シンジのことを嫌っていた。けれど時間が経つうちに彼の個性を認め始めていたのも紛れもない事実である。

 レイはシンジのことを心から嫌えなくなっていた。彼が、碇シンジが、自分のことを嫌っていないと知ったしまったからだ。悪口を言った。頬を叩いたこともあった。なのに彼は歯牙にもかけていない態度。むきになる自分の方が滑稽に思えて、頭が冷える。すると分かるのだ。彼の態度はあんなものだけど、心から嫌ってる人物など一人もいないのだと。

 ――――――それと同時に、心から気にする人物など一人もいないのだと。

 その在り方が、以前のレイを想起させた。近しい者を持たず、ゲンドウとの関係はつけ刃的なものでしかなく。ヒトから外れた自分は独りでしかないと、そう思っていた頃。

 碇レイは、綾波レイの記憶を持っている。一人目、二人目、三人目。殺された瞬間や、死んだ瞬間まで覚えているから気持ちのいいものではない。使徒戦役時代の記憶は血生臭いものばかりだった。

 でも、と右手を胸の前で握り締める。

 覚えているのだ。彼の笑顔を。彼の涙を。彼の言葉を。綾波レイが、孤独なその世界で見つけた、かけがえのないものを。

 笑えばいいよ、と彼は言った。

 その泣き顔は嬉しそうで、悲しそうで。泣くという行為を知らなかったレイにとっては未知の感覚。彼が居ると安心した。彼が傍に居ると暖かかった。

 三人目のレイが、<約束の刻>に選んだのは、ゲンドウではなくシンジだった。

 今の碇レイが何人目なのかは分からない。リリスの因子が抜け、ただのヒトとして存在する自分が綾波レイと同一人物なのかも分からない。だが、確かなのは、自分が"レイ"であるということ。碇シンジと、惣流・アスカ・ラングレーと共に、戦場を駆け抜けた記憶を持っているということ。

 ――――――ああ、正直に言おう。

 碇レイは、嫌いだ嫌いだと言いながらも、碇シンジを仲間だと認めていたのだ。そして友人だと思っていたのだ。レイには友と呼べる人間が少なかった。極端に言えば、アスカしかいないのと同義だった。

 自分にはユイだけで十分だと言い聞かし、それと同時に外の世界に憧れてもいた。

 負い目があった。だから外が怖かった。隣にユイが居ないと、誰かに罵られると思った。大袈裟なんかではない。レイは世界を滅ぼす瞬間を覚えていた。ヒトの殻を破り、巨大なリリスとして覚醒するそのときをはっきりと覚えていた。身体に渦巻く衝動を開放し、人間がLCLに還っていくのを感じたとき、思ってしまったのだ。

 なんて気持ちが良いのだろう、と。

 碇レイは化け物になりたくなかった。人として生きたかったのだ。なのになんて様だろうか。完全に化け物と化した自分はヒトを融かすことに快感を覚えたのだ。殺人だ。それは禁忌だ。なのに。なのに。それでは、化け物と言われても仕方がない。次に目を覚まし、この身からリリスの因子が抜け落ちているのを知ってからも、彼女は怯えていた。一度覚えたあの感覚。吐きそうだ。気持ち悪くて、気持ち良くて、癖になりそうで怖かった。化け物になんてなりたくない。自分は人間だ。人間なのに。

 ココロが、ヒトを還せと叫ぶのだ。

 紅い世界。

 全てが原初に還った、その紅くて白い海辺。

 気持ち悪くて、ゾクゾクして、考えただけで喘ぎ声が漏れそうになる、そんな馬鹿げた心像世界。

 彼は、碇シンジはあの世界を知っていた。あの精神を犯す砂浜を、彼は知っているのだ。誰も知らない。二人だけの。

 レイは思ったのだ。そして感じたのだ。シンジとの仲間意識を。

 そして気づく。認めたくない。認めてはいけない。その感情。

 気づき、愕然とする。

 思い出し、なんで今更、と泣きそうになる。

 悲壮な面持ちで、彼女は、耐え切れなくなり嗚咽を漏らす。


 彼女は、碇レイは、碇シンジのことを、アイしていたのだ――――――















 「これがお前の答えか」


 非難するのでもない、悲観するのでもない。ただ確かめるように、ゲンドウは言った。声は良く通った。発令所に沈黙が降りていたせいもあっただろうが、何よりその声は心に響いた。皆が見上げる。指令席。ゲンドウは手を組んでいた。モニターを見ていた。いつもと同じ、仏頂面だった。

 こうなるのではないか、と少なからず彼は予想していた。シンジが第三新東京市に戻ってきて以来、その予感は大きくなり、今日確信に変わった。

 だが、別にどうということはない。息子が一人立ちしようとしているだけだ。今更なんて都合のいい話だろうな、とゲンドウは自嘲する。それでも彼はシンジの父親だった。死に際、その最後にならないと素直になれないという困った性格。こんな晴れ晴れとした気持ちになるのはもっぱら死の間際。今回もそうなのだろう。

 モニターの向こうに居るシンジも、そのゲンドウの様子を感じ取ったのか、表情を改めた。皮肉げなものから真剣な表情へと。

 
 「事の重大さは分かっているのか」

 『ええ』

 「世界にこのやりとりも流れている。それも承知の上か」

 『ええ』

 
 蒼白になるユイと、驚愕する冬月を横目に、ゲンドウは問う。


 「これがお前の答えか」

 『――――――ええ」


 ならば、と彼は言った。リツコに視線を寄越す。気づいた彼女が頷いて返す。そのままオペレーター席の女性職員と代わり、キーの叩く音だけが響いた。

 ミサトを含め、職員たちは予想外の出来事に恐慌をきたしている。しばらくは使い物になりそうもない。


 「お前は世界の敵となる。覚悟は出来ているのか」


 声もなく口を開閉させるユイ。涙目になって首を振っているが声になっていなかった。人間、ショックを受けると脆いものだ。この発令所で、事の展開についていけるのは二人しかいない。それはゲンドウであり、リツコである。二人とも何かしら勘付いていた節がある。リツコは共に暮らしていたので疑わしいのだが、こうして発令所で対処を続けている以上、裏切る様子もない。

 
 「もう一度問おう。お前は全てを承知で行動しているのか」

 『ええ、もちろん。これは冗談でもおふざけでもありません。僕は、いつだって真剣に生きているんですよ?』


 その答えに、ゲンドウは苦笑した。声にならない程度の苦笑だ。すぐ隣のユイにも気づかれなかったし、シンジにだって知られなかっただろう。

 愚かな奴だ、と彼は思った。シンジも、そして自分も、親子揃って愚かな奴だ、と。

 かつて碇ゲンドウは、妻に会いたいがために世界を敵に回す覚悟をした。外道に堕ちようが構わなかった。息子を利用して恨まれようが構わなかった。その上で、憎悪に駆られたシンジに殺されても仕方がないとまで覚悟していたのだ。しかしかつてのシンジがそこまで出来るはずがない。故に計画は進行し、誰も止める者がいないまま、発動に至った。

 どうやら本当に親子だったらしい。融通が利かないところだとか、世界を敵に回して飄々としてる態度だとか。容姿はユイに似たのに、中身は自分よりのようだ。それが悲しくもあり、嬉しくもあった。

 詳しい理由は分からない。いや、これから説明するのだろう。兎に角、碇シンジはNERVに牙をむき、同時に世界を敵に回した。流れている映像はリアルタイム。先程から問い合わせが来るのも仕方がない。

 ならば、碇ゲンドウは己が役目に徹するだけだ。

 シンジが覚悟を決め、言い切ったように。自分は、息子を殺す大罪を背負う覚悟をしよう。ユイに恨まれようが、構わない。柄にもなくそんなことを思ってしまった。我ながら狂っているな、と彼は思った。以前はあれほど躍起になっていたのに、手に入った途端に価値が低くなってしまったように感じる。

 だが、こちらとてただでやられてやる訳にはいかないのだ。それがNERVに科せられた十字架であり、在り方なのだから。


 『僕も問うよ、父さん・・・。これから始まる、最終幕の覚悟台本の用意は出来た?』

 
 ゲンドウは口元の前で手を組んだまま、つむっていた目をゆっくりと開き、フッ、と軽く嘲笑し、


 「ああ――――――問題ない」















 『ようこそ、お集まりの皆様方レディース・アンド・ジェントルメン!』


 シンクロする心からは歓喜の感情が流れ込んでくる。自然とつられてテンションが上がる。体温が上がる。これから何が起こるのか、アスカには何も分からない。それでも彼女はついていくだけ。シンジが望み、歩む道を追っていく。それが自分なのだと。それが惣流・アスカ・ラングレーの在り方なのだと。

 両手を広げた初号機の向こう側に、警戒するように構える零号機の姿が見える。碇レイ。アスカの友人であり、そして敵となった人物。もしかしたらやり合うことになるかもしれない。だとしたら戦えるのか。友人であり、戦友であった彼女と。刃を向け、命のやり取りが出来るのか。

 出来る。

 ああ、出来るさ。

 レイだって本気でやってくる。間違いない。彼女が求めるのは碇ユイと過ごす世界だ。この世界なのだ。彼女にとって天国であるこの世界を守るためだったら、間違いなく躊躇はしないだろう。それがかつての友であったとしても。倒す相手がアスカだったとしても。

 いろんな意味で、二人は友人だったのだ。互いに大切な人がおり、その人のために命をかける。

 レイとアスカは同じような理由で戦っている。だから分かるのだ。相手が必死になって抗ってくること、自らの命を賭して殺しにくること。引くことは許されない。引くことは考えない。思考が似通っているのだから当たり前か、彼女たちは互いに譲れないものを持っているのだから。

 向こうが本気なら、こちらだって本気にならなければ負けてしまう。そうなればシンジが死ぬ。彼が望む未来が、自分が望む未来が消えてしまう。

 そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。

 だから、本気で戦おう。

 手加減などせず、妥協などせず。

 それが在り方なのだ。それが生き方なのだ。

 それが、彼女たちが生きる世界なのだ。


 『分かってんの! あんたたちが敵に回れば、NERVと戦いになるのよ!? アスカ、あの馬鹿を止めなさい!』


 その言葉。アスカがすでにシンジ側に居るということを理解しきっていないようだ。発令所の中でも、彼女に何を言っても無駄だと諦めているのは僅かに二人だけ。残りは説得出来ると思っている。シンジの精神が異常なのは周知の事実であり、それをサポートしているのがアスカだと見られていたのだ。

 だが、その認識は的外れである。

 チルドレンには、まともな精神構造を持っている人間など一人もいない。見かけは問題ないレイとアスカも、根本にあるものが狂っている。元よりそう作り上げられたのだから。

 健常に見るのは隠しているからに他ならない。でなければ社会に溶け込めずに自滅する。シンジもアスカもレイも、それを心得ているからこそ表に出さなかったのだ。多少の独占欲くらいなら可愛らしいものだ。

 そして、今。

 ついに、幕が上がったのだから。


 「知ったこっちゃないわ」

 『な……』

 「アタシはシンジについていく。そう決めたのよ」


 その上で周囲に何を言われようが、どうなろうが知ったことではない。外聞を気にするのはその世界に住んでいる人間だ。集団から外れ、固有の世界に移った彼女だ、他の世界がどうなろうが関係はない。

 何せ、アスカの世界に住むのは自分とシンジ、ただ二人だけなのだから。


 『それが許されるとでも思ってんの!?』

 「思ってないわよ。許してもらおうとも思わない。恨んでもらって結構。アタシはアタシの世界のために戦うだけ」

 『なに訳の分かんないこと言ってんのよ! 頭おかしいんじゃないの!』

 「ミサトぉ、アンタ馬鹿ぁ? 今更じゃないのよ、アタシが頭おかしいのは」

 『あ、アスカ……』


 それとも自分たちのことを常人だとでも思っていたのだろうか。何を馬鹿な。精神を構築する重要な時期、その思春期に殺し合いの舞台に立たされ、親もいない、満足に日常を過ごすこともできない、死に掛け、殺し、逃げることなどできず、ついには精神崩壊まで起こしたアスカだ。ミサトは何言ってんだろうか、と本気で心配してしまう。

 少し考えれば分かるはずだ。大の大人でさえ戦争を経験すれば気がおかしくなる。それを。それを十代の彼らが、変調もなく踏み越えることなどできるはずがないではないか。

 ああ、狂ってるわね、狂ってるわよ、とアスカは言った。


 「でもさ、こんなアタシになったのは他でもない、アンタたちのせいでしょうが」

 『で、でも』

 「仕方がなかった? 他に方法がなかった? ああ、なら仕方ないわね。だったらどうよ?」


 言葉に詰まるミサトに、畳み掛けてアスカが続ける。この状況を招いたのは自分たち、そして子供たちを狂わせたのが大人たち。そしてこの世界に生きる人々。

 誰もが称えたチルドレン。しかし彼らの苦労、いや、悲劇を知る者など片手にも満たない。

 ならば、責任はあるはずだろう。知らなかった? 何を馬鹿な。知ろうともしなかったくせに。悪気はなかったかもしれない。それは仕方がなかったことかもしれない。ならいいさ。これは逆恨みだ。犠牲になった自分の逆ギレだ。こんな、世界。こんな馬鹿みたいな世界。

 ――――――どうなろうと知ったことか。


 「この状況になったのも、仕方がないんじゃないの? あはははははははははは!」


 自分でもおかしいくらいにアスカは笑った。なんて清清しいのだろうか。今まで溜まっていた鬱憤が晴れていくようだ。抑圧されていた感情が爆発。そして拡散。シンジの興奮、アスカの興奮。二人がシンクロしているせいで相乗効果が現れたのだ。

 
 『素晴らしい祝辞ありがとう、アスカ。皆さん、ついに幕が上がりました。僕が第三に来てはや一年になろうとしています。いろいろな出来事がありましたね? 指令、副指令、リツコさん、伊吹さん、青葉さん、日向さん。たくさんの人々と再会することが出来ました。とても喜ばしいことです』

 『シンジ! シンジ! 今ならまだ間に合うわ。ゲンドウさんも、私も、怒らないから』


 ユイの乱入の声。けれど大した効果も出せず、無視される形で一笑に付される。


 『皆さん、サードインパクトから三年、そしてこの一年、どうお過ごしでしたか? あなたの人生は充実したものでしたか? そうであればとても素晴らしいことです! 人生は一度きりしかありません。そして死に絶えるとき、胸を張ってこう言える人生でありたいと思いませんか!」

 
 この映像、音声は全世界の軍、政府に流されている。各地で翻訳がなされ、シンジの言っていることも理解出来るはずだ。それを踏まえて彼は言う。伝えたい言葉。伝えたかった想い。声をあらん限りに、今までにないほど興奮した面持ちで、


 『――――――僕たちは、精一杯生きたのだと!』


 狂ったように弁を振るう彼に、口を挟める者などいなかった。レイも、ゲンドウも、ユイも、ミサトも。熱に浮かされたその表情を見れば、ふざけてないことなど一目瞭然だった。普段は感情的にならないシンジの姿に驚かされる。何が彼をそんなにも駆り立てているのだろうか。

 
 『さあ、舞台の幕が上がります! 主演、共演、全ては全人類!』


 紫の鬼が一歩踏み出した。発令所、相対するレイ、全世界の要人が息を呑む。


 『では、お楽しみください――――――この茶番劇に盛り上がりを。僕らの人生に祝杯を。では――――――開幕』







                                           ■ 第三十四幕 「人類 の 敵」に続く ■