「さあ、精一杯生きましょうか」

































神造世界_心像世界 第二十九幕 「黒い軌跡はソラを絶ち」





























 それは一瞬の出来事だった。

 汚名を挽回せんと意気込む戦自大隊が第三新東京市に近づき、先行部隊に送れて神奈川と静岡の境目に達するときだ。上空を旋回していた黒死龍が倒壊したビルの先端に乗り移り、翼を閉じた。

 NERV指令所でもその光景は映し出されている。

 
 ――――――小休止なのか?


 疲れは知らないと主張するように破壊を続けていた竜が動きを止めている。千載一遇の好機だというのに、しかし攻撃が加えられることはなかった。

 理由は言うまでもない。

 竜を狩る者が居ないのだ。

 先行してきた戦自航空小隊はすでに壊滅している。武力を有するNERVは先に決めた項目――――――戦自大隊が壊滅ないし撤退するまで手出しは不要――――――により指をかんで見守るしかない。民間の救援はすでに始まっているものの、徹底的に破壊し尽くされた建物の瓦礫などのせいで、思うようにはかどっていなかった。

 歯がゆい思いをしていたところの事態の変化。

 戸惑いの表情を浮かべる職員たちの視線を受け、モニターを睨むミサトも怪訝げに眉をひそめた。

 ……もしかして、疲れたのかしら?

 それこそまさか、だ。

 疲れ知らずの行動を見せた黒死龍。いま、ビルの先端付近で首を伸ばす姿からは疲れなど微塵も感じさせない。

 硬い甲殻に包まれたような顔面を、画面左、つまりは西側に向け、ただじっと動かない。

 と、手持ち無沙汰になっていた竜の尾が天を指差した。それだけで鋼鉄の鞭と化す、全長の半分以上はあろうかという尾が振り上げられ、グオン、という大気を切り裂く音と共にビル側面に突き立てられた。煙と破片が周囲に飛び散る。真下に人は居ないからいいものを、吹き飛んだコンクリートの塊は半径十メートル以上をその身で押し潰す。

 その長い尾は、体を固定するためのものだ。

 眼前を西方面に向けたままの身体固定。

 長い胴体も相成って連想させるその姿形は、虎視眈々と得物を狙う、


 「固定砲台!?」


 ミサトが叫んだ。

 それと同時だ。よく分かったな、と言うかのように口を半開きにした竜は目つきを細くさせ、その顎の狭間から空気の揺らぎを生み出す。徐々に漏れ出す光量が増していく。

 空間が熱せられ、陽炎を生んだ。

 モニターからも熱気が伝わってきそうだ。慌ててミサトは青葉に竜の向く方角、第三新東京市西方の状況を問いただす。指令所の巨大モニター、その右下に映し出されたのは隊列を組んで進軍する戦自大隊だ。最早、この大隊一つで一国を落とせる規模だった。その戦自総力といえる数々は、画面の簡易地図上では赤い点の集まりとして表示されている。

 第三新東京市の西数キロまで迫った軍勢。必殺の意思を抱え、背水の陣で臨む戦だった。

 
 「――――――」


 だが、その不屈の意思に反応するように、まだ目視もできない距離の敵を見据える。

 黒死龍は感じ取っていた。殺意、敵意をみなぎらせた大群がやってくるのを。

 向けられる対象は己だ。

 OOパーツは感情に敏感だった。悲しみ、苦しみ、憎しみ。マイナスの感情に特に敏感なのが堕天化の特徴と言える。

 故に、レーダーでもなく、直感でもなく。

 純粋に“気配”を察知した竜は、その軍勢のレンジ外からの攻撃を試みていた。

 自身の腹が加熱する感覚を覚える。

 食道を通り、喉を経由し。

 口内で破壊の粒子となった吐息が。

 吐き出された。












 一直線に伸びた光の帯は全てを分解した。直線上にあった建物、山、果てには大地さえも呑み込んで進む。あとには何も残らない。破砕した欠片も、飛び散った大地も、灼熱した鉄塊も。

 モニターが焼き切れんばかりに白に染まり、薄暗い発令所を昼間のように照らし出した。

 な、と誰かが声を漏らした。半ば無意識に発せられた喉の収縮に反応して、誰もが声にならない驚きの空気を吐き出す。

 右下の簡易地図上にあった赤の軍勢が消えていた。

 まるでそこには、初めから何もなかったかのように。

 日本列島の西を断ち切る光の一刀は、文字通り日本の西部付近を両断した。そのまま海を突ききり、大陸に上陸するかと思われたその光も、日本海上で唐突に霧散して消えた。

 戦自大隊は、交戦することもなく、消え去ったのだ。


 「な、なんだってんのよ……!」


 震えるその声も、誰もが臆病者などと罵る者は居なかった。

 たった一撃だ。

 たった一撃で進軍する戦自大隊を蒸発させ、日本列島を切り裂いたのだ。現存する兵器では類をみない。かの核兵器にさえ匹敵する一撃だった。

 伝説上、最強とされた幻想種。

 その竜が放つ滅びの極。

 ――――――竜の伊吹ドラゴン・ブレスだ。

 その一撃は大地を削り、天さえも穿つとされたもの。鉄の壁ごときが太刀打ちできる代物ではない。ありとあらゆる物質は“滅ぶ”という事実に裏づけされた攻撃に耐え切れるはずもなく、塵も残さず消え去るのみだ。


 「荷電粒子砲、かしらね」


 いつの間にか隣に来ていたリツコがそう零した。

 陽電子砲ポジトロン・スナイパーライフルと同様、物質を原子から分解するものだ。現在の科学力ではそうそう兵器として使えるものではないが、第伍使徒ラミエルが使用した荷電粒子ビーム以上の破壊力を見せ付けられた。地球の磁場や、周囲の状況で直進するはずがないというのに、竜の伊吹は一直線に伸びていった。

 観測されたデータを流し見て、リツコは脳内の計算を停止させる。その行為が無駄だと気づいたからだ。


 「……荷電粒子砲って、あの第伍使徒と同じヤツじゃない」

 「正確に言えば、“科学に当てはめた場合”だけど、ね」

 「どういうことよ?」


 砲撃の余波で自重を抑えきれなくなり、ビルを巻き込んで吹き飛んでいく黒死龍を見ながら、


 「<竜の伊吹>という神話上の攻撃を現在に再現すると、一番近いのが<荷電粒子砲>になるのよ」


 "竜の伊吹は全てを滅ぼす"

 そんな、曖昧な空想を、人間たちは想像しているのだ。

 
 「だけどね、想像とか信仰っていうのは凄くちぐはぐなの」


 ちぐはぐ? と、ミサトがオウム返しに問う。

 頷いたリツコは指で大型モニターを指した。

 そこには、固定されていたビルだけでは飽き足らず、その後方に控えていたビル群までも倒壊させる竜の姿があった。硬い甲殻を持つその体は、さながら巨大な砲弾だ。口から吐き出した伊吹はジェット噴射よろしく、巨体を後方に吹き飛ばす役割になっていた。反動を抑えるために固定していた尾も、予想以上の力の前には意味もなさなかったらしい。

 あれを見ても分かるでしょ、とリツコは言った。

 "全てを滅ぼすなら、その反動も凄まじいことだろう"

 などと、その脅威と同時に、攻撃の短所・・も同じく信じられているのだ。

 絶対無敵であるものは存在せず、この世を創世した、人間など比べ物にならない<神族>にさえ弱点は存在する。


 「なら、竜の弱点をつけば……!」

 「或いは、ね」


 もしかしたら倒せるかもしれない、と調子付くミサトは頭の中で竜に関する事柄を思い浮かべた。

 竜は中国、インド、日本、ヨーロッパに至るまで、幅広く知られた神獣・霊獣だ。まさに最強と呼ぶに相応しい体躯で空や水中を駆り、中国古代神話上、東方を司る四神の一つにもされている。中国方面では<龍>、ヨーロッパ方面では<竜>と表記することが多い。

 ざっと思い出してみて、ミサトに考え付くのはこれくらいだった。どちらにせよ、竜種は強大で太刀打ちできるものだとは到底思えない。ゲームでもボスクラスに該当する魔物であるし、並みの装備では一撃でゲームオーバーだ。現実と仮想は程遠いだろうが、通常装備で出たところで、あの荷電粒子砲には敵わないだろう。

 むー、と頭を捻るミサトにアドバイスするように、頭上の指令席から声がかかった。

 ユイだ。


 「竜には天敵とされる者が居るわ。俗に言う竜殺しドラゴンスレイヤーよ」

 「……ベオウルフやジークフリートのことですか? しかし、彼らは実在しませんし、使用されたとする魔剣もNERVは所持していません」


 確かに、ユイの言う<竜殺しドラゴンスレイヤー>が居てくれればこの上なく頼もしいことだが、生憎この時代には英雄がいないのだ。

 反論に対し、ユイは微笑してから、ゆっくりとモニターへ向き直る。


 「いいえ。竜殺しは――――――英雄は、戦場で生れ落ちるものよ」











 



 竜の伊吹が戦自大隊を消滅させた映像は、同じくエントリープラグ内でも流されていた。声を失うレイは、以前の記憶から移動砲台を内包した要塞使徒、第伍使徒ラミエルのものを引き上げた。指令所での会話も聞こえてくる。

 ……荷電粒子砲。

 並みのミサイルを防ぎきるEVAの装甲を、飴細工のように溶解させた攻撃だ。特殊装甲をもってしても耐えられるのは数秒で、強力なATフィールドを使用できる現在でも、あの一撃を堪えきれる自信はなかった。

 雷の使徒とは比べ物にならない、とレイは独白する。

 あのときだって一人では太刀打ちできなくて、二人がかりでやっと倒せたというのに。


 『――――――嬉しくて、泣いてるんだよ』


 誰かの泣き顔が思い出され、レイは慌てて頭を振った。LCLに漂う銀髪が遅れて後を追う。

 目線を右下に向けると、初号機パイロット、碇シンジの姿がある。目をつむってシートに身を任せた姿。轟音がしているのに、ぴくりとも反応しない。寝ているのか、とも思えたが、それならば指令所から注意がくるはずだ。

 
 「……余裕なのね」


 呆れと感心が半分ずつ混ざり合った口調で言うと、ややあってシンジは目を開けた。


 『余裕がないからこそ、見栄を張りたくなるのはいけませんかね?』

 
 そう言って、彼は微笑んだ。

 
 『――――――なら、笑えばいいと思う』


 レイは応じるように目をつむった。先とは立場が逆になる。シンジが目を開け、モニターを見据え、代わりにレイは視界を放棄した。聞こえてくるのはクリアな破壊音だ。その巨体で体当たりされたビル群がドミノの如く横倒しになり、連鎖的に広範囲が崩れ去っていく。この時点で被害率は三十パーセントを超えており、人が住める状態ではなくなっていた。

 水中では濁って聞こえるはずの音だが、神経接続によって直接脳に送り込まれてくるのでクリアである。

 瓦礫が崩れる音に混じって、甲高い悲鳴が聞こえてきた。必死な声だ。当たり前か、とレイは思う。なにせ自身の生死がかかっているのだ。他人を蹴落としてまで生きようとする者も少なくないはずだ。

 初めは手を取り助け合っていた連中も、ここまで崩壊が激しくなると、他人に構っている場合ではなくなる。

 怪我人はただのお荷物だ。

 それでも見捨てられない善人が居て、肩を貸そうと近づいたところで、頭上から落ちてきたコンクリートの塊に押し潰されて圧死する。


 ……そんな死に方で、本当に満足なの?


 そんなはずがない。

 見ず知らずの他人を助けようとして、自身が死に。

 もしかしたら助けられたかもしれない、“大切な人”を救えなかったとしたら。

 本当に、満足なのか?

 否。

 断じて、否、だ。

 碇レイはそんな馬鹿な死に方をするつもりはないし、けれどその行動を取った人間を馬鹿にするつもりもない。

 所詮、他人は他人だ。

 誰とも知らない人間を助けて満足できる輩も存在するかもしれない。

 帰りを待つ人に、『俺は人を助けられて満足だ』なんて、笑顔で言い残す輩が存在するかもしれない。

 結構。

 大いに結構。

 死にたいやつは死ねばいいし、生き残りたいやつは他人を見捨てればいい。

 どちらも悪いことではない。

 他人を見捨てた者を、薄情者と罵る者こそ、そのときになって我先に逃げ出す輩なのだ。

 
 「アスカ、大丈夫なの?」

 『ええ』


 シンジは胸に手を当て、僅かにずれる鼓動を感じながら、


 『大丈夫です』


 モニターには荒れ果てた第三新東京市の姿があった。戦闘時には障害になりうる障害物を確認して、レイは目線をそのまま、さらに問いかける。


 「なぜ、断言できるの?」

 『そうですねぇ……愛の成せる業、なんて言っても信じてもらえませんよね』

 「当たり前」


 レイはきっぱりと言い切った。いくら信じ合ってるとはいえ、相手の考えていることが分かるなどとほざくのは大したペテンだ。言葉に出さなければ分からないものはそれこそ山のようにあるし、きちんと口に出したものでさえ誤解されることもあるというのに。

 シンジは困ったように苦笑して、前髪を弄りながら考え込んだ。どう言えばいいのだろうか。知らん、なんて断言すれば関係悪化は明確だ。言葉を慎重に選んで、士気を下げないようにしなくては。

 何しろ、最高の舞台がもうじき幕開けなのだから。


 『例えば、他人に興味がなかった人間が居たとします』


 語り部の口調だ。

 怪訝げに眉をひそめるも、レイは黙って先を促す。


 『そこに現れたのが自分を信じられない人間。その二人はどういう訳かいざこざに巻き込まれ、心がつながってしまうのです』

 「心が、つながる?」

 『テレパシーみたいに、言いたいことがそのまま伝わってくるものじゃありませんよ? 爆発した感情とか、その片方の鼓動とか、そんな他愛もないものが流れ込んでくるんです』


 でも、ですよ? 彼は視線を前髪に隠しながら、前置きをして、


 『周りに虚無感しかなかった片方にしてみれば、それはとても刺激的なものだったんですね。少しばかりの哀しさでも、喜びでも、感じられるそれらには心躍りました』

 「それは、」


 ……なんとなく、分かる。


 心躍る心境も、自分のことのように分かる。レイだってユイと出会うまでは虚無感に支配されていたからだ。出会いを経てからの日常がなんて素晴らしいことか。一緒に朝日を浴び、食事を摂り、仕事をして、また床に入る。その一つ一つからユイの喜びが伝わってきて、レイも同じように嬉しくなるのだ。

 ここに来て、碇レイは確信した。

 今まで感じていたシンジへの拒否感は、


 ……そう。似ているのね、私たち。


 同属嫌悪からだったのだ。他人を拒絶して、しかし互いには信じられる唯一が居て。

 その信頼をあつさを見せ付けられるようで、碇レイは腹が立ったのだ。

 故に唯一おかあさんと彼が楽しそうにすると、自分の唯一が取られてしまったような、そんな錯覚を覚えた。

 あなたには別の唯一アスカが居るでしょう、と。

 
 『それから片方は感じていたモノを、さらに感じたくなりました』

 「そう。だから、分かるのね」


 ええ、とシンジは演技くさく頷いた。

 














 無骨な表面には滑らかな場所など一つもなく、黒と灰色の小石が見て取れた。それらが集まって作るのは巨大な一塊だ。その中心を貫いているのが赤茶色の鉄芯。本来ならば直線上のそれも、今では歪に曲がり、“芯”としての役割も成さなくなっていた。同じような物が辺りに散らばっている。無造作に転がり、人間を押し潰しているのはその重さゆえ。

 飛んできたコンクリートの塊だ。

 人間の体重の何倍はあろうか、慣性も加わってぶち当たれば、人間などひとたまりもない。筋肉を潰し、内臓を破裂させ、骨を砕く。残るのは形を崩した肉人形だ。四肢を残しているのはまだ幸いな方だった。数トンもの落下物は人を四散させ、跡形もなく押し潰すのだから。

 <竜の伊吹>を放った黒死龍はビルに突っ込み、それと同時にコンクリートの散弾を四方に吹き飛ばした。

 連鎖的に倒壊するビルはもちろん、直接的に接触していないビルまで崩壊させる始末だ。竜が狙ってないにしろ、結果からみれば、破壊率は凄まじいものになる。

 しかし、黒の砲弾は無傷だった。コンクリートを砕き、硝子の破片をその身に浴びたというのに、鱗の一枚も剥がれた様子はない。

 化け物め、と誰かが呟いた。

 未だに埃が立ち上る中、一つの影が身を起こす。灰色の靄で視界が悪い。ちょうど人間大のコンクリート破片三つの、その隙間に潜るように身を投げ出していたその影は、己が動体視力と身体能力に心底感謝を述べた。

 わき目もふらずに走っていたとき、足元に影を見つけ、空を見上げれば、なんと巨大な塊が通過して行くではないか。

 一秒とかからずに頭上を過ぎ去った影はしかし、目の前を阻んでいた高層ビルの中程に突き刺さった。突貫力にものを言わせ突き進み、突き立った反対側から宙へ踊り出す。

 コンクリートの塊がビルを穿ったのだ。

 耳を覆いたくなる大音響。

 何事かと皆が見上げる中、回避運動に入っていたのは一人だけだった。そして見上げた体勢で押し潰される面々。死んだ、と気づく者は少なかっただろう。即死ならば尚、幸いだったに違いない。

 一瞬の移動で空白を探し出し、その隙間に飛び込むのは並大抵のことではないが、彼女はそれを成功させていた。

 被った土砂を頭を振って吹き飛ばす。くすんだ色の金髪に悪態をつくのは少女だった。

 惣流・アスカ・ラングレーだ。

 間一髪で生き残った彼女は辺りを見回す。巨大な落下物で埋め尽くされ、まるでトンネル内で崩壊が起きたようだ。しかし空は見え、閉じ込められた訳でもないのだが。

 衝撃にふらつく足を無理やりに立たせる。

 地面を陥没させたコンクリートの郡の下からは、赤い液体が滲み出ていた。時折人体の一部を見かけるが、それを無視して彼女は歩き出す。とは言っても、瓦礫の山を行くのは予想以上に困難だ。自分の背丈以上の塊をよじ登り、怪我をしないよう、慎重に降りる。神経を使う嫌な進軍だ、とアスカは毒づいた。

 さらに火の手もあった。熱を避けて通り、爆発しそうな場所はさらに迂回する。頭上の注意も怠らない。倒壊しかけている建物は、少しの揺れで、その身から落下物を産み落とす。厄介なものだ。

 ほんの少しの油断で死ねる、それは笑えない散歩だった。

 アスカは逃げていく人々とは反対方向に走ってきたので、ここで押し潰されているのは逃げ遅れた連中か、と考える。大方、非常警報を馬鹿にして、本気で逃げ出さなかったのだろう。そのツケが回ってきたのだ。

 見ると、集団で潰されているのは若いグループばかりだった。本来なら足の遅い老人がこうなるのだろうが、その老人たちは我先に自動車に乗り込み、道が混雑する前にシェルターへ向かったはずだ。第三出身者ならではの生き汚さ、とでも言おうか。

 次の障害に手をかけたそのとき、頭上を聞きなれた爆音が過ぎていく。

 VTOL戦闘機だ。

 しかし、先程全滅させられた戦自仕様のものとは形も僅かに異なっている。一機目が通過し、後を追う二機目の側面、国連のエンブレムをアスカは見た。


 ……国連所属機?


 確か、国連が介入するのは戦自が全滅、もしくは撤退した後だったような、と彼女は首を傾げる。金髪に付着したセメントの塵を叩いて落としながら、


 「戦自が出てこないのは……さっきの攻撃のせい?」


 走っていたせいで確認できなかったが、辺りの緊張感から、黒死龍が何かしらの攻撃を仕掛けようとしていたのは察知できた。その直後に竜自体が吹き飛んだのを見たのには驚いたが。体を押さえきれない程の反動、そこから生まれるのは強大な砲撃。

 それが、戦自大隊を殲滅したのか。アスカはそれほどの威力を持つ武器を考え、N2もしくは核くらいしか該当するものがないと断言する。ならば、竜が放ったのは人類が誇る破壊兵器と同等、それ以上の威力を持つのだと推測される。絶体絶命だ。


 ……ま、いつものことだけど。


 使徒戦役時代から対OOパーツ戦に至るまで、こちらが有利に事を進められたのは数えるほどだ。今の状況も、何度も経験している絶体絶命。絶対と銘打ちながら、生き延びてきたのは他でもない自分らなのだ。

 音を目で追えば、空に咲く破壊の花びらが。

 爆散し、種子を撒き散らすが如く鉄の破片は舞う。

 お世辞にも、綺麗だとは言えないものだ。花弁は薄汚れた茶色であるし、悲鳴のような破砕音は耳に悪い。

 けれど、醜いからこそ、美しいものもある。

 その代表が、散り際の輝き、なのだろうか。

 一機、また一機と撃墜され、先の戦自と同様、瞬く間に制空権は奪い返された。いや、元より空は誰のものでもなく、強者に付き従うものだ。敵を撃ち落し、優雅に舞えば、自ずと空は主を歓迎する。

 歓喜に鳴く空。

 だというのに。


 「――――――え?」


 はっとして、アスカは空を見上げる。

 声だ。



 ――――――痛いの。



 それは竜の声だ。



 ――――――苦しいの。



 それは嘆きの声だ。


 
 ――――――だけど。


 
 






















     「なっ」

 
「これは……」

「竜の、声?」    




 


























 
だけど。



























コンナニ気持チイイノ








 


















 黒い軌跡を空に描き、黒死龍は身を震わせた。

 その軌跡は剥がれ落ちた鱗だ。体表を覆っていた無数の鱗が剥げ落ち、地上からは軌跡となって見えていた。

 まるで何かを我慢するように捩り、けれど口から漏れ出すのは痛ましくも艶やかで。

 骨格を軋ませ、関節を外し、外面そのものが形を変えていく。
 
 
 「あれは――――――」


 NERV発令所。

 誰もが息を呑み見守る中で、ミサトが誰に言うでもなく呟く。

 モニターから離れた位置に陣取る、マヤを中心としているクラッキングチームも、周囲の異様な雰囲気に飲まれて手を止めていた。

 映し出される竜の形状が変化し、かぎ爪はさらに鋭く巨大化し、尾は根元から三つに分かたれた。内部の筋組織が脈打っている。血の飛沫を迸らせ、けれどそれすらも快よいと言わんばかりに竜は吼えた。三つの尾はすぐさま体組織の複製を初め、寸分違わず傷を癒す。

 そして成ったのは三尾を持つ竜だ。

 固定砲台としての不備を補うよう、かぎ爪と尾、つまりは固定用に使用される身体の一部を、部分的に促進・進化させたのだ。

 その異常とも言える急激な進化は、


 「――――――堕天化」


 自らをさらに殺戮兵器へと昇華させるために。

 黒死龍は進化したのだ。


 「頭が……痛い」


 発令所でも数人が米神を抑えている。伊吹マヤもその一人で、同僚が心配そうに伺っていた。感受性の強い人間が特に酷いようだ。悲しみと愉悦の声は金切り音と化し、直接脳を引っ掻いた。

 影響が出たのは指令席のユイも同様だった。ゲンドウに寄り添われた彼女は眉をしかめてモニターを見る。映し出されているのは黒い軌跡。黒曜の鱗を走った宙に捨て置き、新たな鱗――――――並みの力量では穿つこともできない、漆黒の装甲を作り上げている。

 その身を自ら千切り、剥がし。

 激痛に身をもだえさえながらも、竜は進化を繰り返す。


 「赤木博士」


 僅かに焦りを帯びたゲンドウの声だ。進化を繰り返すということは、戦闘を繰り返し、経験をするたびに学習、身体の強化を図る、ということだ。

 故に、手に負えなくなる前に、竜を狩らねばならない。


 「国連に通達しろ。最早面子に構っている頃合は終わった。共同で竜の首を刎ねねば我らは焼き尽くされるだけだ」

 「弐号機はまだ出撃できませんが……?」

 「シンジ」


 呼びかけの声に、一息送れて返事が返る。備え付けられたスピーカーからの音声だ。周囲の職員たちがNERV総司令、碇ゲンドウに注視する中、威厳を持った低めの声は言った。


 「弐号機は居ないが、竜を狩れるな?」

 
 ミサトは返事を待っていた。決まれば、己は指揮を執り、竜に挑むことになる。だが、それに臨むのはパイロットである彼らだ。

 リツコは微笑して、帰ってくる返事を予想していた。以前は立ち会うことがなかった決戦とも言える戦いだ。ただ、状況を客観的に見据え、全力を出すだけだ。

 ユイは祈っていた。竜を撃退し、無事に息子、娘たちが帰ってくるのを。ただ、それだけを。

 固唾を呑んで沈黙を守り、声の主はそれを破るように声を上げた。


 『無論です――――――さあ、始めましょうか』


 応、と発令所が答え、ケージから射出口へと巨人が運ばれていく。第三新東京市の開発のせいで、地上の口は限られたものになっている。残されたのは六つ。その中で第三の郊外、未だにビル群が形を残している開発区を設定し、マヤの代わりにオペレーター席に座る女性は頷いた。

 空に待っていた黒々の軌跡が地上に堕ち、その自重と鋭角を持って切り刻む。

 さながら剃刀の雨だ。

 画面が乱れ、その激しさを物語る。地上に生き残っていた人間達たちも、これには堪らないはずだ。しかし鼓動は消えていない。ずれる脈動、流れ込む感情。その全てがアスカの生きてる証拠バイタルサインだ。激しすぎるくらいの自己主張に苦笑し、シンジは頭上のヌル助と共に身を屈めた。


 「シンジ君、行くわよ? 作戦は先程決めたとおりに」

 『了解』

 「久しぶりにキツいの行くわよ! エヴァンゲリオン初号機、発進!!」








                                           ■ 第三十幕 「紅き鼓動は灼燃に」に続く ■