辛くて

苦しくて

だけど こんなにも気持ちよくて



























神造世界_心像世界 第二十八幕 「ガラクタたちの黙示録」





























 「初号機は!?」


 余裕を感じさせない、切羽詰まった声だ。赤い制服を纏った女性は、それを自覚しながらも改めるつもりはなかった。


 警報が鳴り響く中、彼女と同じ表情を浮かべた職員たちが慌しく走り回る。書類を抱えた者、白衣姿の研究者。皆一様に焦燥を浮かべ、普段とはかけ離れた足早な様子だ。

 その中央に居座った女性は、各部に伝令を飛ばしながら、頭の中で状況を確認していた。

 轟音。

 音源は目の前にある巨大モニターだ。

 立ち並ぶ高層ビル群、足場を縫うように列を並べる民家。

 第三新東京市だ。

 今や日本の首都となった都が、黒い煙を立ち上らせている。狐の尻尾の如く、地上から天へと昇り、時折紅の炎を吹き上げる。風に流された煙の一部は民家を覆い、住民は我先にと逃げ出しているのが見える。幸いにも、元凶たる物体は派手な行動を起こさず、民家から外れた高層ビル地区を進んでいた。

 
 「……ミサト!」


 呼ばれた声に、女性――――――葛城ミサトは振り返った。

 長い黒髪が翻る。NERV指揮官服は赤く栄え、指令所の中でも際だって見えた。おかげでリツコもさして苦労せずに見つけることができた訳である。

 普段は静かなこの場所も、いざ戦闘となれば一番の活気に満ちる。

 人の体温で僅かに室温が上昇し、かれど普段は不快に感じるそれも、今ばかりは士気が高まっている証拠だ。喜びこそすれ、邪険にする訳にはいかなかった。

 
 「リツコ!」

 「状況は粗方聞いているわ。ついに来たわね」


 この事態は予想できていた。規格外OOパーツの襲来。第壱号が何もせずに姿を消してから、いずれまた、姿を現すのは予想していたことだ。それが今やって来ただけ。万全の体制で待ち構えていたのだ。不意をつかれたなら兎も角、現れた際のマニュアルも作り上げられていた。

 白衣を侍らせ、リツコはミサトの隣へと移動する。

 各員はすでに戦闘状態に入り、NERV本部も出入りが不可能になる。外につながる通路は封鎖され、代わりに対人用の戦闘要員が配置される。前回の教訓を生かしたものだった。

 リツコは手を組み、指の骨を鳴らす。


 「国連に通達。これより特務機関NERVは戦闘に入ります」

 
 彼女の声に従って、オペレーター席のマヤは指を走らせる。キーボード上を縦横無尽に駆けた指が文章をつづった。

 すでに国連軍は太平洋沖で待機しているところである。OOパーツが再び第三に現れた場合、今までの情報からして規格外である可能性が高い。故に重要拠点として日本の第三新東京市が指定された。在日米軍基地に国連軍が駐屯し、迅速に出撃が行える基盤が作り上げられていたのだ。

 だが、基地を出た国連軍が第三を訪れるのは戦略自衛隊が指揮権を譲渡した後である。各国は「何を意地張っているんだか」と文句を言ったが、日本とて自国のプライドがあった。ただでさえNERVがなければ、極東の島国だと馬鹿にされているというのに、“武器”を持ちながら一度も撃退に成功していないのは面子に関わる。

 その結果、『戦自』→『国連軍』→『NERV・国連連合部隊』という出撃順が決まったのだ。

 OOパーツ出現の報を受け、戦自基地からは多数の機影が飛び立ったのを確認している。数分としないうちに先行部隊が到着するはずだ。

 
 「第一種警戒態勢に引き続き、作戦部と技術部の指揮系統はこれより各代表に一任されます」


 確認するようにリツコは省みる。視線を向けられた作戦部代表のミサトは頷き、


 「了解したわ」

 
 強い意志を瞳に秘め、親友である金髪の女性に微笑を送った。

 作戦部はミサトに率いられ、OOパーツと交戦する戦自の情報を収集する。囮役とされた戦自だが、それは彼らとて十分承知していた。

 もう後がないのだ。

 対八岐大蛇戦で致命的な被害を受け、未だに傷跡は残っている。元より低かった立場もさらに落ちた。初めは対岸の火事と皮肉っていた陸海空自衛隊も、同じ“日本国の”という評価を受け、同時に影を落としている。最早、国内で身内争いしている時期はとっくの昔に過ぎ去ったのである。

 異常の理由から、今回の<戦自>は陸海空の戦力も加えられた、文字通りの<日本軍>となった。

 故に敗北は許されず、そして勝利――――――OOパーツの殲滅しか、彼らには道が残されていない。もしも敗退しようならば、内外から叩かれ罵詈雑言、現政府は解体されることになる。

 モニターは黒煙を立ち上らせる街を映し、同時に逃げ回る市民の表情まで見て取れる。その悲惨な光景に伊吹マヤは形のいい眉をしかめた。手を動かしながらも目線はモニターからチラチラとずれている。無理もない、気になって仕方がない様子だった。


 「市民の避難は作戦部に任せておきなさい。私たちは、私たちの仕事をするだけよ」

 「はい……分かっています」


 リツコたち技術部が指令所の一角を固めている。オペレータ席を外したマヤは、その後を後任に任せ、自らも集まりに身を投じた。彼ら一人一人の前には小型モニターが設置されている。顔を微弱な光に照らされた彼らの中央にリツコ、その右舷後方、背を預けあう形でマヤが腰を落とす。

 技術部のクラッキングチームだ。

 規格外OOパーツとの戦闘に入る中、彼らは各国の軍事を司るシステムにクラッキングを仕掛ける手立てになっていた。

 最優先事項は『核及びN2の無力化』である。戦闘中に弾道ミサイルを打ち込まれたら堪ったものではないし、トチ狂った要人が間違いを犯す可能性も低くはない。何より、『島国の一つで殲滅できるなら安いものだ』と声に出して言わないものの、日本以外の国はそう思っているに違いなかった。

 一応、国連が各国に目を光らせているのだが、もしものためにNERVが手を打つことになったのだ。これは国連が認可しているので犯罪にはならない特例措置だ。

 マヤが深く息を吸い、吐いた。
 
 様子見の作戦部とは違い、この後すぐに技術部は電子戦に突入する。僅かなミスが大きな損害につながるのはネットもリアルも同じことだ。緊張は神経を極限まで集中させるとは言うが、肩肘入りすぎても結果は伴わない。

 発令所が、日本刀の刃のように研ぎ澄まされた緊張に包まれる。

 ある種の爽快感さえも感じ、リツコは口から笑みを漏らした。

 
 「諸君」


 野太い、威圧感を感じさせる声。NERV職員には聞きなれた声だ。発令所の上方、見上げる形になって皆は顔を上げた。そこに居るのは三名。いずれも組織の三巨頭、総司令の碇ゲンドウ、副指令である冬月コウゾウ、碇ユイだ。

 諸君、と前置きで声がかかる。動いていた者たちが足を止め、発令所はシンとした空気に包まれる。

 注目される中、怯みもせず、かといって威張りもせず、淡々とした口調で男は言った。


 「今回の敵は今までとは訳が違う。規格外だ。それも第壱号に酷似した外見を持っている。映像で見たと思うが――――――」


 左に顔を向けると、つられてモニターへと顔を向ける職員たち。

 空を滑空し、羽ばたき、地面を抉り。

 己が全身を漆黒に染めたドラゴンが咆哮を轟かせている。

 ビルとすれ違い、崩壊させ、人々の上空を通り過ぎると血の海を作り出す。八岐大蛇ほどの破壊力はないものの、明らかに常識を逸した動きと攻撃だった。

 シェルターに辿り着けるのは幾人だろうか。

 押し合い、他人を退けて道を行こうとも、その半ばで散っていく人々。抵抗する余裕などあるはずもなく、死んだと気づかぬまま事切れるのは唯一の幸いだろう。


 「此度の敵は――――――生物の頂点に立つ捕食者だ」















 第七ケージ。

 射出口に移動させられているのは紫の巨人だ。足元で作業する人間はあまりにも小さく、対比でその巨人の大きさが目に余る。すでに固定されたその隣、蒼色の巨人もついで移動させられていく。二つ目である紫の鬼に対し、蒼のそれは一つ目のモノアイ使用だ。

 轟音と共にボルトが打ち付けられる。

 ガクン、と固定時のショックで揺さぶられ、完全に射出口に固定が完了された。

 辺りは薄暗い。赤色の非常等が壁を照らすだけだ。時折人型を浮かび上がらせ、作業員の存在を教えてくれる。

 騒音と罵声。

 ただポツンと、二体の巨人だけが静を保つ。


 『僕が前衛、碇さんが後衛。それは変わりないですよね?』


 電波を通した声色だ。外部スピーカには流れず、LCLの中でも聞き取ることができるものだった。

 その声は少年にしては高く、少女にしては少しばかり低い。

 
 『アスカが来ても変わらない……私は援護射撃を担当』

 『はい。まあ、戦自が先に出るから、間に合うと思いますけど』


 相互に通信し、戦術の確認――――――とはいっても、兵法を知っている訳でもないので、ポジションと役割を確認するだけなのだが。

 寸胴な蛇らしき生物を頭に乗せ、白色に所々青と黒の部分が入ったプラグスーツを着たサードチルドレン、碇シンジは口から泡を吹き出す。長い黒髪はヘッドセットで結い上げられ、赤いLCLに漂っている。

 
 『……心配じゃないの?』


 僅かに非難をこめた口調だ。

 蒼みがかかった銀髪のファーストチルドレンは目を険しくしながら問うた。


 『大丈夫ですよ。アスカはきっと来ます』


 誇張も何もない、シンプルな返答に少女は声を詰まらせた。心配していないのではなく、シンジはきっと来ると断言した。信頼している証拠だ。それがなんとなく悔しく、羨ましいと思った。

 ……お母さんは、心配してくれているのかな。

 それとも彼と同じように、きっと帰ってくると信じてくれているのだろうか。ぶしつけに聞く訳にもいかないし、そんなことを聞いたら、きっとユイは心配してEVAを降りてもいいと言うだろう。確かに死にたくはないが、それ以上にユイが死んでしまうのは嫌なのだ。国連も戦自も、言ってはなんだがあてにはならない。

 つまるところ、最大の戦力は自分らチルドレンが操るエヴァンゲリオンなのだ。

 これほど単純明快なものはない。碇レイが敗北すれば碇ユイが死に、彼女が勝利すれば母親も助かることになる。

 恨みっこなしの文字通り、生死をかけた戦いだった。

 
 『今回の敵は恐らく第壱号もしくはその派生系――――――黒死龍カオスドラゴンってトコでしょうかね』


 シンジは前方右下にリアルタイムで送られてくる外の状況、黒い竜が破壊を撒き散らす様子にため息をつきながら言った。呆れているのはその凶暴性だ。休みなく上昇、下降を繰り返し、対空砲を手玉に取っている。第三に備え付けられた簡易型では歯が立たない。

 元より、第三新東京市は使徒防衛都市の役目を終えている。

 兵装ビルはもう数少ないし、必要性のなかった上、あまり戦力として活躍しなかったそれらは建てかえられている。人々の移住性を向上させた作りになった現在、歯が立たないのも致し方ない。

 
 『もしかしたら、これを倒せば……』

 『――――――戦いが終わる、と?』

 『ええ』

 『そうですね。もしかしたら、いや、きっとこの母体ともいえる竜を倒せば、戦いは終わるでしょうね・・・・・・・・・・・


 何やら芝居かかった身振りで力説するシンジを無視して、レイは注意深く映像を見据える。彼女の赤い瞳に閃光が反射し、炎の吹き上がりに目を細めた。

 滅茶苦茶だ。

 知能があるのか疑わしい。子供が駄々をこねているようだ、とレイは思った。その被害は比べようもないのだが。

 破壊を繰り返す行動は規格外OOパーツ第弐号<八岐大蛇>に酷似する。しかし身体を壊しながら活動を続けたそれと違い、暫定的第参号<黒死龍>はまったくの無傷だ。これでは自壊に期待するのは無理だと見て間違いない。

 リツコが<堕天化>と名づけた現象がすでに始まっている、もしくは終わった後であることは安易に予想できる。凶暴性はその一環だ。

 と。

 微笑を浮かべていたシンジが突然顔をしかめた。どうしたの、と口に出す前に、レイ自身も引っかかるものを感じて、口から吐息が漏れるだけに収まった。


 『これは、嘆き?』


 半信半疑の言葉はしかし、彼らが感じた感情だ。


 『失意、落胆……アレは、泣いているの?』


 頭に響く雑音、黒板を引っ掻いたようなノイズだ。生理的に身の毛がよだつ。滅多に動じない二人が思いっきり不快感を露にした。

 ひああ、という悲鳴。

 あれは咆哮ではなく悲鳴だ。

 負の感情に満たされ、それでいて己が境遇を呪っている。

 シートに身を沈め、シンジとレイは顔を見合わせた。
















 オペレーターの席にはマヤの代わりの女性技術部員が座っている。さすがに能力的には劣るが、それでも平均を上回る仕事振りだ。ひとえに経験もあるが、伊吹マヤの能力が如何せん高すぎた。おかげで比べられる女性職員も堪ったものではない。

 その彼女をフォローするのはベテラン二人組み、日向マコトと青葉シゲルである。

 影の薄い彼らだが、決して能力が低い訳ではない。もちろん、ベテランの肩書きに伴う実力を持ち合わせている。

 黒ブチ眼鏡をかけた青年は姿勢もよろしく、軽快にキーを打つ。モニターを流れるのは現場の状況だ。建物、住民、第三全体被害率が著しく変動を続けている。事態は歓迎したくない方向へ傾きつつあった。第三新東京市、全壊。明日の一面を飾るのは他でもない自分たちの居る場所かもしれない。

 マコトとは対照的に崩した格好で臨むのはシゲルだ。

 彼の担当は戦闘状況。戦自の大隊が第三に向かっていることを確認し、


 「あと三分四十秒後、交戦予定です」


 太平洋沖で待機する国連軍が介入するのは戦自大隊が全滅、もしくは本部が指揮権譲渡した後である。てめえの落とし前はてめえでつける、と意気込む自衛隊連合を止める真似はしなかった。戦略上、一番手は大損するのが大概だ。囮役、疲弊役と言えばいいだろうか、それでも彼らは引く気などないようだ。

 大和魂、と聞こえのいい心情だが、心中と特攻では訳が違う。そこのところ、彼らが理解しているとは思えなかった。

 
 「アスカは?」


 苦虫を噛み潰したような表情のミサトだ。未だに連絡がつかないセカンドチルドレンを考え、戦略的にも友人としても、戦闘に巻き込まれたのではないか、と危惧する。状況が状況なだけに迎えも出せない。アスカが自力でNERV本部に戻ってきてもらうしかないのだ。

 怪獣映画にもあるように、いくら全力で逃げたとしても、怪獣の一動作で街は破壊され、蟻の如く人間がミンチになる。セカンドチルドレンだとはいえ、彼女も人間だ。建物に潰されたりすれば命はない。

 焦る気持ちを汲み取ったマコトが告げる。


 「赤木博士との連絡を最後に通信は途絶えていますが、最後の会話から校舎の外に出ていたことが確認されています」


 そして、と彼は続ける。


 「倒壊した中央高校は体育館が全壊。その余波で校舎も半壊しています。セカンドチルドレンは校舎外に居て無事、とMAGIも高確率で示しています」

 「科学的な慰め、アリガト。そうね、帰ってくるのを信じて、あたしたちは仕事を進めましょうか」


 苦笑し、両手で軽く頬を張ったミサトが立ち上がった。

 依然、モニターは閃光を産み続けている。










 「各政府への根回しはどうだ?」

 「問題ない。国連加盟国は同意している……あくまで、表上は、だが」


 うむ、と冬月は納得いったように頷く。

 ……混乱に乗じて、などと考える輩も居そうだな。

 彼の懸念は最もだった。正義の味方と銘打つNERVだが、以前からの因縁もあり、恨みを多く抱く輩は腐るほど存在する。その代表格ともいえる戦自は自らの進退で仕掛けてくる暇もなさそうだ。しかし世界は広い。小規模な団体から大規模な組織まで、疎ましく思われているだろうと想像できる。

 だが、それはNERVに限ったことではない。

 ある程度名が知られるようになれば、必然的に問題は生まれるものだ。要はその後の対応、付け込まれて費えるか、相手を逆手にとって滅ぼすか、だ。ゲンドウの手腕もあって勝者だったNERVだ。この世界中を騒がす一大事に乗じて武力侵攻してくる馬鹿者が居るかもしれない。

 かの、<約束の刻>の戦自のように。

 これから起こるであろう厄介ごとを思い、老人は疲れた表情を浮かべた。


 「しかしマズいな。要である惣流くんが遅れるのは」


 苦虫を噛み潰した自問に、ユイが俯いたままで答える。


 「きっと、大丈夫ですよね? アスカちゃんも、これから戦いに行くあの子たちも」

 「……ああ」


 ゲンドウは内心で苦笑した。結果がどうあれ、彼らチルドレンが負ければ人類は滅びるだろう。大げさではない。何よりこれで最後だと決まった訳ではないが、このままだと疲弊した人類は滅びる運命だ。

 神とは酷なものだな。嘲笑う言葉はしかし、どこか晴れ晴れとした心境だった。

 彼は己が内心を省みて、悪い癖だと苦笑する。いつだってそうだ。追い込まれ、死際にならないと素直にはなれない。あのときも、息子であるシンジに真っ向から謝罪できたのは初号機に食い殺される直前だった。本当に悪い癖だ。もう一度思い、声には出さずに口だけをつりあげた。

 テーブルに肘をつき、口元の前で手を組む。

 相手に表情を悟らせないための動作。

 
 「戦自先行部隊、交戦エンゲージ


 足元から声が響いた。

 青葉シゲルの声だ。

 緊張を伴った声は発令所に鋭く通り、固唾を飲み込んでモニターを見守っている。

 戦自は敵対組織だ。しかしこのときばかりは応援するのも非難されることはないはずである。

 
 「……お願い」


 ユイは手前で十字を切った。

 神に祈る妻を横目で見て、ゲンドウは自らの冷静さに驚いていた。世界が滅べばユイも死ぬというのに、絶望感もなければ焦燥感もない。一緒に死ねるなら本望――――――などと、思えてくるから始末に置けない。

 一家心中をする者たちはこんな気持ちなのだろうか、と彼は思った。
















 大気を切り裂き、爆音が轟いた。

 機影が音速を突破して先行し、遅れて追従するのはアフターバーナーの残照だ。尾を引いて細長い影、VTOL戦闘機が低空を駆ける。

 本来ならありえない超低空飛行だ。障害物に衝突しないよう、巧みなテクニックはパイロットの腕のよさを窺わせる。

 地上に居た何人かが足を止め、空を見上げた。

 目に映るのは一瞬のことだ。

 音速の前には動体視力も追いつかず、黒い影が通り過ぎたことしか理解できない。それでも気づけず、後からやってくる爆音によって存在に気づくのが大半だった。

 建物の崩壊に巻き込まれて命を落とした人々とは違い、いま第三を走り抜けているのはごく少数だ。無事な建物目掛け攻撃する黒龍は容赦という言葉を知らない。逃げ遅れたなら運が悪かったと諦める他ないだろう。

 と、彼らの頭上を黒い影が通り過ぎた。

 全長は三十メートルはあった。両翼を開いた状態の横幅では、その二倍ほどにもなるだろう。

 臀部にスラスターが付いている訳でもないのに、VTOLに負けず劣らずの速度だ。ほぼ滑空するように宙を切り、まるで滑っているように見える。巨大な翼はゴツゴツとした外見だ。とてもじゃないが空気抵抗など考えている節はなかった。

 地上で空を仰ぐ数名の中、金色の髪が眩しい少女がわき目もふらずに走り抜けていく。

 全力に近い疾走だ。

 足の裏は地面を噛み、腿、ふくろはぎの筋肉が収縮、或いは引き伸ばされて骨格を動かす。

 口は半開きだった。絶え間ない運動は酸素を渇望する。間に合わない呼吸は荒くリズムを乱し、それでも動きを止めることはない。

 長い金髪はマントのようにはためいている。

 自慢の髪だが、このときばかりはズッシリと来る重量が恨めしい。

 少女、惣流・アスカ・ラングレーは戦場と化した第三新東京市をフィールドとし、タスキを渡す相手が居ないマラソン競技に翻弄されていた。

 相対する風の壁が重い。

 大気を突き進むたびに抵抗を感じ、普段は心地良いはずの冷風が目に染みた。

 風景画のように通り過ぎていく街並み。その住人たちは思い思いの速度で歩を進めている。アスカと同じく走っている人も居れば、優雅に肩を並べて歩くカップルも居た。歯がゆく、注意する暇もないので無視を貫く。

 ただ、のん気な彼らが羨ましいとも感じた。

 騒音が再び耳につく。しかし空のものではない。地上の騒音だった。

 通学路を抜け、大通りに面している表通りは自動車がひしめいている。クラクションと罵声が飛び交い、互いに罵ったのだろう、路上で意味もなく喧嘩を始めている馬鹿者。呆れを通り越してすでに滑稽極まりない。現実をリアルとして認識する能力に欠けているに違いない。そう納得し、車道よりはマシな歩道に身を躍らせた。

 人の流れは東に向かっていた。

 その先にあるのは第三新東京市から出て行く国道、それと郊外にあるシェルターだ。どちらを選ぶにしろ、同じ方面に向かわなければならないのだから皮肉なものだ。設計者は何を考えてこんな作りにしたのだろうか。

 走る。

 痺れを切らした若者が運転する車が前方の車、後部バンパーにわざとらしく衝突するのを傍目に、少女は走る。

 が、無休に思えたその走りも、五十メートル程前方に火の玉が落下したことによって中断させられた。

 数台の車体を巻き込み炎上する。

 悲鳴が聞こえた。

 火の玉は地面に激突し、自動車を巻き込んでも物足りないと、さらに炎の傘を広げる。突き出た平面状の物体は尾翼だったのだろう。半ばから折れたそれは見るも無残な姿だった。

 搭乗者も脱出ベールアウトする暇がなかったらしい。出来の悪いマネキンのような、手足が折れ曲がった物体が生焼けで半身をコックピットから晒している。

 それも業火に包まれ、すぐに見えなくなった。

 意図的ではないにしろ、彼女は立ち止まった。これ幸いにと、体中が脈動し、呼吸器系が精を出す。血流が血管を膨張させる錯覚を覚えた。

 その頭上、航空戦が続けられている。

 観客に困ることはないが、兎に角、VTOLは劣勢だった。









 「クソッ!!」


 搾り出した声はしかし、急激なGに喉が圧迫され、音として発せられることはなかった。視界が目まぐるしく移り変わる。視点を固定している暇もない。絶えず上半身ごと身を乗り出し、真横、後方と視認を繰り返す。

 心臓はおかしいくらいに音を叩く。

 旋回。

 右舷下方にビル群が迫る。慌ててスロットルを引いた。急上昇する際に生じる地球の重力はハンパではなかった。気を抜いたら一瞬で意識を持っていかれても不思議ではない。

 VTOL戦闘機の機動性を生かし、追尾してくる竜を引き離しにかかる。

 後方を確認できないのが辛い。副座式ではないので同乗者は居らず、単純にドッグファイトに秀でた機体なのだ。レーダーは完備されている。しかしOOパーツという敵の前には意味も成さない。物体を捉えたときにはすでに攻撃される直前だ。運良く初撃を交わしたこのパイロットは身を持って知っていた。

 ガガガ、と機体が微震する。姿勢制御を司る計器はひっきりなしに数字を変え、すでに役に立つものではない。

 ……中隊で生き残っているのは自分が最後らしい。

 応答がないことに嘆き、黙祷を捧げる暇もない。仲間たちは、あの野蛮極まりないバケモノに堕とされたのだろう。仇を取るまではいかなくても、せめて一発報いるまでは死ぬ訳にはいかなかった。

 背に感じるのは、ひしひしとした圧迫感。鳥肌が立った。死に瀕した間際、こんなことがあったのを思い出し、夢中でスロットルを絞った。機首が上がる。そのまま上昇を続け、半円を描き、その頂点で螺旋的に軌跡を捻る。

 バレルロールだ。

 後ろから迫る竜には、機体が瞬時にずれたように見えた。水平を真横に移動するのだ。視界から外れ、轟音だけが響く。

 VTOLが初めて竜の姿を捉えた。

 パイロットの眼下には陽光に反射し、黒光りする鱗が見える。テラテラと鈍い光沢を放つそれは、黒曜石の輝きに似ていた。

 直後、シートに身体が押し付けられる。急降下によるGだ。歯を食いしばり、目玉に圧迫を感じても尚、速度を緩めることはない。竜はこちらの姿を見失っている。勝機は今しかない。英断したパイロットは迷わなかった。仲間のため、自らの名誉のため、一撃を入れて散るのが本望だった。

 距離が近い。

 ミサイルでは距離が合わない。機関砲ガトリングの範囲内だ。操縦桿を握る両手に力が入る。

 斜めから突き刺すように機体は接近した。


 ――――――当てる。


 VTOLの先端が火を噴く。連続した音はつながり、一となり、『ブーン』という濁った射撃音に変わった。

 目視も適わぬ速度で打ち出される鉄鋼。大気を削り、真空を作り、黒龍に圧迫する。

 胴体を穿ち、羽を削ると思われたそれは、


 ……馬鹿な!


 火花を散らし、しかし体表に傷をつけることも適わなかった。決して口径が小さいという訳でもない。戦闘機に用いられる装甲を容易に引き裂く弾丸だ。並みの機関砲に引けを取らない仕様なのだ。

 もはや成す術もない。

 機体ごと特攻し、腹に抱えたミサイルごとブチ当たろうと決意したとき。

 眼下を行く、黒龍の片翼、右の翼だけが大きく羽ばたいた。空気抵抗諸々を無視した動きだ。目を見張るパイロットを嘲笑うように身体が反転し、方向そのままに上下だけが逆様に至った。

 自然と向き合う形になったパイロットは今度こそ声を失った。

 並列飛行する二体は直線的に飛んでいく。軌道を先にずらした方が後ろを取られてしまう。一気に速度を落とそうと考えるが、最高速からの減速は機体が持たない上、自らが失神する可能性が高い。打つ手がない。

 黒死龍の背中側は鱗で覆われていたが、腹の一部だけが灰色で柔らかな部分が見える。この場所こそヤツの弱点なのではないか。

 気づき、しかし、真下への攻撃手段を持たないVTOLには手の出しようがなかった。

 すると、逆様に飛行を続ける竜の首が僅かに動き、パイロットと視線が絡まる。彼は息を呑んだ。近場から見る相手の目は赤で染まり、白目と黒目の区別がないために禍々しい。ルビーをそのまま眼孔に嵌め込んだようだ、と彼は思った。

 白い雲を引き、大気に拒まれながら、その顎が大きく開かれた。

 それは凶暴さを窺わせる作りだ。

 口内に生えた牙は虎バサミを連想させ、喰らい付けば決して獲物を引きちぎるまで離さないだろう。

 その口内のさらに奥、喉へと続く暗闇が一瞬ぼやけた。

 続いてその顎が瞬時に閉じ、上下の牙が打ち合わされる。

 火花が散った。

 喉が膨らみ、熱風と化した気体が吹き荒れ、火花によってさらに引火する。


 
 黒死龍は――――――火炎を吐いた。










 アスカの頭上、炎に包まれたVTOLが落下していくのが見えた。高熱で溶解した装甲片を撒き散らし、最後まで粘った機体が地面を目指す。ベイルアウトはなかった。恐らく死亡しているのだろう。

 息がやっと整ってきたのを確認し、周囲の様子を窺う。

 顔面を蒼白にした老女が杖をついて歩いているのが見えた。声をかけようと言葉に詰まり、思考が一巡した頃、ややあってアスカは頭を振った。

 ……他人に構っている暇なんてないのよ。

 NERVにはあと十分も走れば着く距離だ。裏道を使えばもう少し短縮できるだろうが、あまり路地裏に詳しくないアスカでは道に迷う可能性がある。ならば正規の道順で行くのが無難だ。途中までは人の波に乗り、分かれ道で進路を違える。

 彼らは逃げ、彼女は戦いに赴くのだ。

 力を持たない一般人が背を見せることに異議はない。

 そして代わりに力を持つ子供が戦場の地を踏むことにも異議はない。

 だが。

 死ぬ思いをして、血反吐を吐いて。

 その想いを知らぬまま平和を謳歌する人間に、彼女は意味を成さない。

 人類がどうなろうと知ったことではない。

 しかし、彼女の――――――アスカの大事な人のためだけに。



 背を見せず、前方を見据え。

 死地へと挑み、彼と共に生き残るために。

 彼女は、走り出した。







                                           ■ 第二十九幕 「黒い軌跡はソラを絶ち」に続く ■