むき出しの鉄筋が見える。天井を支える金属は所々が劣化して錆びついていた。茶色だったはずのそれは表面が剥がれ落ち、無骨な鋼色の内部が顔を出していた。 屋根が被っているのは巨大な建物だ。優に野球場の一つは丸々入りそうである。 仕切りはない。それ故、余計に内部を広く錯覚させる。 あちこちに鉄製のコンテナがあった。建物に比べて真新しい。ここに運び込まれて日が経っていない証拠だ。これらの荷物は一箇所に集められた後、それぞれが目的の場所へと届けられるはずである。 そこは、街外れの倉庫だった。 平日なら仕事の関係者が居るので人気も多いのだが、今日は休日だった。本来なら無人である倉庫には、数人の人間が居た。一人の少女を囲むように男たちが陣取る。獲物を追い詰めるように距離を詰め、皆一様に厭らしい笑みを浮かべている。金髪の少女は不快感も露に鼻を鳴らした。 「大事な話があるって言うから来てみれば……どういうことですか、先輩」 少女、惣流・アスカ・ラングレーは中央に立つ若者に向かって問う。その間にも彼女の周りではジリジリと詰め寄ってくる数人の男たち。油断なく周囲を見回し、伏兵が居ないかを確認する。 「理由なんか分かってんだろ? 惣流」 口を開いたのはアスカを呼び出した張本人だ。中央高校の三年生、顔しか知らない上級生である。つい先日告白されたのだが、きっぱりと断っている。どうやら不良グループにコネがあったのか、お礼参りよろしく自分を犯すつもりらしい。後ろは壁際。出口も男たちを挟んで向こう側にある。一人が見張りなのか、出口の前で腕を組んでいた。馬鹿は馬鹿なりに考えるのね、とアスカは内心感心する。 ここは街外れだ。大声で助けを呼んでも人は来ない。休日まで出社する物好きはいないだろうし、もしものときには見張り役がなんとかするだろう。 女一人に対し、男が四人。 普通の少女なら恐怖で泣き叫ぶか許しを請うかの二つだ。しかし普通とは程遠いアスカがそのはずもなく。 四人がかりで迫っているというのに、顔色一つ変えない少女を怪訝に思い、男たちは眉をひそめた。 「一つ聞くわ。最近あったウチの高校の暴行事件―――――― 一年生の女子に乱暴したのって、アンタたち?」 二週間ほど前、一年生の女子が高校を自主退学している。噂ではレイプされたのがその理由だとされていた。 「さて、なんのことだ? 生憎、いちいち名前なんて覚えてらんねぇからなあ」 ひゃはははは、と男たちが笑う。広い空間に響き渡ってさらに声が反響された。癪に障る声だ、とアスカは思った。学校をやめた女子生徒には同情するが、仇を取ってやるつもりはない。あくまでこれは己の問題。 今こうして向けられている笑みが不快で仕方がない。 すでに自分を犯した気でいる輩が不快で仕方がない。 すぐ目の前に、欲望に歪んだ顔がある。口元は吊り上って笑窪が現れている。目元が弓になっている。鼻の穴が興奮のせいか広がっている。 不快で不快で仕方がない。 右手で金髪をかきあげる。金糸の一本一本が彼女の自慢だ。彼が褒めてくれるこの髪を気遣いつつ、一歩を踏み出す。気圧されて男たちが一歩下がる。踏み出して、また下がる。踏み出して、また下がる。ただならぬ雰囲気を感じ取った、見張りの男が声をかけようとして、 「気持ち悪いのよ、アンタたち」 黄金の羽を翻し、天使が舞った。 それは一瞬の出来事だった。 自分の右側に居た仲間が消えたと思うと、遥か後方で音がした。振り返る。角材に頭から突っ込んだ体が生えていた。驚愕して体を戻す直前、鈍い音が響く。サンドバックを打ちつけたような音だ。その男は知っていた。これは人を殴った音だと。経験したことがあるからこそ分かってしまった。 銀製のアクセサリーを手と顔に大量に施した仲間の一人が宙に浮いている。腹部へのアッパーをまともに喰らったのか白目をむいて悶絶しているようだった。拳の衝撃どころか自重まで上乗せさせられた一撃だ。内臓の幾つかが潰されてもおかしくはない。 肺から空気が漏れる。「はっ」という自分の声を、男は聞いた。 目に映るのは金色の翼を羽ばたかせる天使だった。 彼女が舞うたびに男が吹き飛び、一撃で昏倒させられていく。舞踊のような動きは可憐だ。無駄が一切見られない足運びで確実に相手に詰め寄る技術。気づいたら目の前に居る。まるで瞬間移動だ、誰もが思ったに違いない。 金色の軌跡が半円を描く。 向かう先は見張り役だった男の下だ。異常に気づいて近づいてきたその目の前に少女は躍り出た。 重心が左前方にずれる。慣性に従って、長い金髪が左から右側へと乱れ、波打った。 右肩が絞られ、左肩が引かれる。すでに前かがみ状態だ。筋肉が収縮して拳が突き出されていく。ヒュ、という音が聞こえた。少女の口笛の音。走り出していた男は間に合わない。右足を振り上げた状態で、鳩尾に杭で穿たれたような衝撃が走る。 宙を舞ってゴロゴロと転がった後、思い出したように胃の内容物を吐き出して動かなくなった。 「――――――」 すでに立っているのは主犯格の男一人だった。なぜか自分だけが無傷で残っている。本能で悟る。自分はワザと見逃されたのだと。 我に返ると行動は早かった。脱兎の如く走り出す。向かう先は倉庫の出口。一つ目はアスカの向こう側なので行くことが適わない。残ったのは右後方にある大型貨物を運び出すための出入り口だけだ。扉は休日なので閉まっている。それを確認した男は舌打ちした。 「どこに行くのよ、先輩」 躓いた、と気づいたときには地面を転がっていた。運動エネルギーのせいで勢いよく体は前へと進む。視界が回転して、男には何がなんだか分からない。 呻き声を上げて仰向けになると、犯すはずだった少女がこちらを覗き込む。その蒼い瞳に見据えられた男は震え上がった。 垂れるように金髪が流れ、金色のカーテンを作り上げる。顔を覗かせた少女は笑っていた。犬歯を剥き出しにした笑顔は一見、無邪気そのものであるというのに。 ……どうして生きた心地がしないのか。 蛇に睨まれた蛙だ、と男は思う。本来なら蛇は自分のはずなのに、今は大口を前にした雨蛙だ。喉を震わせて情けなく鳴くだけ。 「……どうして男ってさ、そんな下らないことばっかりするのかしらね?」 人差し指を唇に当てながらアスカは言った。一歩一歩と足を踏み出し、ついには男のすぐ目の前に立った。手を伸ばせば届く距離。吐息さえも感じそうな近距離で、しかし男は瞬きさえろくにできぬまま硬直する。 ピンク色の唇が動いた。 「きっと、その下半身に付いているモノがいけないのね。それがなければ少しはマシになるんじゃない?」 「お、おい……冗談だろ? なあ」 「アンタ馬鹿ぁ? 女の子だって初めては痛いのよ? 膜を突き破られるんだもの。それに、アンタたちは今まで散々やらかしてきたんでしょう? 自業自得だと思って観念しなさい」 「ちょ、ま、待って、ま――――――」 なんとも形容しがたい音が響いた。まるで何かを踏み潰すような、そんな股間の痛い音が。 「……断末魔、っていうのかな」 顔を青くしているのは碇シンジだ。隣を歩くのは終始笑顔の惣流・アスカ・ラングレーである。街外れの倉庫からの帰り道、建物の外で待っていたシンジと合流した彼女はすこぶる機嫌が宜しかった。対してシンジの肩身は狭い。心なしか黒髪も輝きを失っているように見える。 彼らは『建設中』と書かれたテープで入り口を固められているビルを通り過ぎる。 第三の外れには開発中の区域がある。予算や時間の都合上、後回しにされたこの区域には柄の悪い輩が自然と集まる場所である。少しでも常識があれば、一般の人間ならば近づこうとはしない。 パイプがむき出しになった外壁を横目に、シンジは声を出しかけ、しかし飲み込んだ。 「……?」 冷や汗を垂らして唸る姿を見て、アスカは首を傾げる。 「どうしたのよ?」 「いや……最後の、あの……断末魔はなんだったのかと」 まるでこの世の終わりみたいな声だったなあ、と思い出す。腹を裂かれて、臓物をほじくりまわされても、あそこまで大気を震わす怒声は出ないと思う。 問われたアスカは苦笑して、爽やかな表情で空を仰ぐ。頭上を小さな白い影が通り過ぎていく。白い尾を引いて泳ぐ、両腕を広げた姿。 飛行機だ。 気持ちよさげに見送った後、視線を戻した彼女は、おでこに張り付いた前髪をかきあげて言った。 「タマを潰した――――――んじゃなくて。間違えて踏んじゃっただけよ」 そう、と相槌を打つ。若干、内股だ。 これ以上はヤバいと思ったのか、シンジはこの話題を打ち切った。代わりに当たり障りのない会話へとつなげていく。 話しているうちに開発区域を抜けて、若干、人通りが戻った道に出る。世話しなく早歩きで歩を進めるサラリーマン。スーツ姿にハンカチを持っている。流れ落ちる汗に辟易しているのが窺えた。 先は陽炎の熱に揺らめいている。 シンジが足を止めると、頬に耳元の髪がかかってきた。この暑さでは長い髪が恨めしい。かといって、バッサリと切るつもりもないのだが。 灰色の半袖にGパン姿でも暑いものは暑い。真っ裸になれば別だろうが、人間的にそれは間違った自己表現だろう。 仕方なしに右手の甲で汗を拭う。 と、横からハンカチが差し出された。薄いピンク色の、薔薇のワンポイントが入ったものだ。綺麗に四つ折りにされたそれを受け取って、シンジは顔の汗を拭く。洗って返すと言うと、「構わないわ」と手から奪われる。 嬉しそうにハンカチを抱きしめているのはどういう訳か。シンジは苦笑した。 ……でも、いつにも増して暑い日だ。 下手すれば車のボンネットの上で目玉焼きが作れそうだ。路上のアスファルトなんてジュウジュウと音を立てそうである。 この暑さのせいで、休日だというのに普段より人気は少なかった。大方、家の中で映画鑑賞やら読書やらとしゃれこんでいるのだろうが、電話で『大事な話がある』と呼び出されたアスカにしてみれば癪に障る話だ。 街外れの倉庫といういかにも怪しげな待ち合わせ場所に行ってみれば、予想通りに展開が進むものだから嫌気が差してくる。 今回はそのせいで少しやり過ぎてしまった。救急車は一応呼んでおいたから大丈夫だろうが。 告白して駄目だったなら力ずくで。 すでにワンパターンとなったこれには、怒りどころか哀れにさえ思えてくるものだ。しかしながら、古典的な文句で呼び出されてしまう馬鹿な子羊も残っているらしい。このご時世、純情なものだ。そして掌を返された物だから堪ったものではない。先日の一年生が学校を辞めるのも無理はない話だ。 街中に入ると活気が戻ってくる。 第三新東京市は三年前にも増して開発が進められ、大型のショッピングモール他、若者たちが好む多種多様な店が軒並みを連ねている。数ヶ月前に半壊した丸三デパートも復旧が進められているらしい。 休日であるせいか若いグループが目立つ。時折向けられる視線をやり過ごして、アスカはビルの影に潜り込む。少しは涼しくなった。 「アスカ?」 急に立ち止まった姿を見て、シンジは声をかける。彼女の目線を追うと、ゲームセンターから同い年くらいの男女が出てきた。珍しくもない普通な光景である。 目を細めたアスカは手を取って歩き出した。追うのは今の二人連れだ。男は肩までかかる、シンジには及ばないが長髪で、女の方は茶髪に染めたショートカットだった。イヤリングをしているのか、光が時折反射している。服装は派手だ。いわゆるギャルに分類される容姿で、まともな高校では煙たがられる存在だろう。 肩を並べ、腕を組んでいるところを見ると、恋人同士であるのは一目瞭然だ。そのカップルをなぜ追いかけているのか、と疑問に思いつつも、真剣なアスカの表情を見ると、シンジは何も言わずに後を追うだけだ。 しばらく歩くと表通りとは違う、夜には活気付きそうな建物が立ち並ぶ通りに出た。悪趣味としか言いようがない外装はシンジでも見覚えがあった。 ラヴホテル街だ。 こんな真昼間から来るような場所ではない。それでも気にした様子もなく、先を歩くカップルは一軒のホテルへと入っていく。 「ホテル・桃源郷」と銘打たれたそこは、クリスマスでもないのに電球が飾り付けられている。夜にはさぞ目立つに違いない。この手のホテルはインパクトとユーモラスが勝負の決め手であるらしい。苦笑してシンジは視線を横に向けると、険しい顔をしたアスカが目に入った。 手には携帯電話が握られている。ここから見える限り、先程のカップルがホテルに入る後姿が液晶画面に写っている。カメラ機能を使って撮影したものだ。 「知り合い?」 シンジは自分の知人の顔を思い浮かべて問うた。しかし記憶の中に一致するような人相はなかった。 建物の影に入り、歩いてきたせいでかいた汗を拭う。 諮詢するように間を置いて、アスカは携帯を弄りながら話し始めた。 「前にどこかで見たことがある顔だったから追いかけてみたのよ……さっき思い出したわ。あのロンゲの男……ヒカリの彼氏だわ」 以前に顔を綻ばせたヒカリが、自分の携帯に保存された画像を見せてきたことがあった。そこには笑みを浮かべる男が写っていた訳なのだが、ヒカリの好みとは程遠い外見だった。改めて人は見かけによらないと感心したのだが。 ……人は見かけによらないって言うけど、まんまその通りのヤツも居るってことね。 嬉しそうに彼氏の自慢をする友人の姿を思い浮かべ、アスカはため息をついた。 「ただ遊んでいるだけなら友人とか家族って言い訳もできたでしょうけど……こればかりは、ね」 見上げると、ピンク色の看板に「ホテル・桃源郷」とある。 家族友人がこの建物に入るはずもなく、もしそうだとしたら厄介な関係に違いない。それは兎も角、一番考えられるのが恋人同士である。 そう。二股の恋人、という関係になってしまうのだが。 「洞木さん、近頃元気がなかったよね」 同じく看板を見上げ、興味を引かれたのかマジマジとそれを観察しながらシンジが言う。表通りでは規制に引っかかりそうな外見も、ひとたび裏通りに回ればしっくりとくるのだから不思議なものだ。ただ、初めてこういう場所を訪れた人間なら多少は躊躇するだろうに、さっきのカップルたちは慣れた感じで入り口をくぐっている。 それはつまり、もう何度もここに来たことがあると推測できるのだ。 「なんでもないって誤魔化してたけどね。鬱になっていた原因はこれかも」 「……知ってるのかな?」 「薄々とは感づいてるんじゃないかしら。女って意外とその手には鋭いし」 ふうん、と感心して相槌を打つ青年。 「……一度、聞いてみた方がいいかもしれないわ。ヒカリに」 曖昧に苦笑すると、「暑いから今日は帰ろう?」とシンジに向き直る。それに頷く彼の横に並んで、もと来た道を戻り始めた。 緑の葉から漏れた木漏れ日がヒカリの顔を照らす。 短く刈り揃えられた芝生は、直に腰を下ろしても汚れることはない。柔らかい草の感触を感じ、寝転がる時間は贅沢だった。 彼女の周りは人気も少ない。この暑さのせいで建物の中にひきこもるのが大半で、好き好んで外出する人間は数えるほどしか居ない。その一人であるヒカリは、緑の森が想像以上に涼しいので感動していた。エアコンなどの冷房器具による人工的な涼しさとは比べ物にならない。確かに快適とまではいかないものの、心地良い暑さと緑を通した風が全てをまかなってくれる。 辺りは木々に囲まれていた。 第三新東京市でこの条件に合う場所は一箇所しかない。 NERV前にある自然公園だ。 街の中枢を司るNERVが管理しているとだけあって、清掃から設備の管理に至るまで完璧にこなされている。もう少し涼しかったならば、子供づれの家族で賑わっていたに違いない。 ヒカリが居るのは遊歩道から外れた森林の中である。木々の種類はよく分からない彼女だが、桜の木に似たものであるのはなんとなく分かった。 視界には青い空を縫うように広がる木々の姿。まるで天を目指しているみたいだ、と彼女は思った。 風が吹くと細い枝が揺られ、その先端についた葉が音を立てる。自然のBGMを聞いていると心が和む。家の中でこもっていたときの鬱が嘘のように消え去っていた。 「ぐるー」 誰も居ないのをいいことに、仔竜ははしゃいで飛び回っている。 背中には一対の羽がある。体全体より少し長いだろうか、形成する骨格が浮き出ており、そこに風を受ける膜のようなものが張られている。羽の間接部分にあたる先端には鋭い棘があった。ヒカリは気づいていないのだが、これは爪である。元々翼とは腕にあたる部位なのだ。だから体には足しかない。 彼女の膝下くらいの大きさに成長した仔竜は、地面に降り立つと、ヨタヨタと心もとない足取りで近づいてくる。赤ちゃんが必死に歩いているようだ、と微笑ましい。 父親にも姉にも妹にも、家の小屋でこの仔竜を飼っているのは話していない。知っているのは飼い主である本人だけだ。 恐らくこの仔はOOパーツに分類される生物なのだろう。テレビやアスカから、僅かながらも情報を手に入れているヒカリは推測する。現実に竜なんて存在するはずもないし、トカゲが突然変異したにしても、空を飛ぶのは明らかにおかしい。そもそも、秒間に一回程度の羽ばたきで、体を宙に留めるのは物理的にありえないことだ。 OOパーツには常識が通用しない。 シンジが言っていた、『善玉のOOパーツ』という言葉を思い出す。きっと、この仔竜もそれに分類されるのだろう。本来ならばNERVに知らせなければならないのだろうが。 今でもこうして、手元に居る訳である。 当初は隠れて飼っても、NERVに見つかるだろうと彼女は思っていた。何より街を管理しているのだ。一般的に危険視されるOOパーツを放置するはずがない。その危険な生物を民間人が飼うなど許すはずもなく、ニ、三日で関係者が来るのではないかと身構えていた。 だというのに、数週間経つ今でも音沙汰もなく。誰かに見張られることもなく、電話の一本さえかかってこない。 ……もしかして、気づいていないのかしら。 泳がされているのを除けば、そうとしか考えられない。使徒戦役を経験したヒカリは、NERVの情報力の高さも、十分に承知していた。まだ姿も見えない使徒を見つけ出し、迅速にシェルターへと非難させる手並み。敵が来る頃には逃げ込み、敵が殲滅された頃には地上に戻れる。民間の目には届かない場所で、その戦いは行われていたのだ。 ――――――ズキリ。 胸の痛みを感じて、軽く頭を振る。深呼吸をすると落ち着いた。 仔竜は目の前の木の枝に飛び乗り、翼を休めている。その表面はゴツゴツしていて、例外的に腹の下だけが柔らかい。その箇所以外は固い甲羅のようなものに覆われている。色は白に限りなく近い灰色だ。爪は黒光りしているが、使わないとき以外は手の中に収納される仕組みのようだ。ヒカリの肩に乗るときには、きちんと爪もしまわれている。 眺めていると、目が合った。 その瞳は赤い。色素が薄いのだろう。だがしかし、その赤は綺麗な色をしていた。ルビーをもっと透き通らせた、と言えばいいのだろうか。奥底まで見渡せそうな瞳は、見ていて飽きないものだ。 体を丸めて枝の上に居座る姿は、猫のそれに近い。長めの尻尾が前に回されて、体を包み込んでいた。 ぎゃあ、と一鳴き。 顔を伏せて昼寝に徹したのを見届けると、ヒカリはつられて目を閉じる。 物置に入れっぱなしにしておく訳にもいかないので、散歩がてらに仔竜を連れてきて今に至る。道を歩く最中はボストンバックの中に入ってもらっていた。OOパーツというのは興じて頭がいい生物なのだろうか、仔竜は人語を理解しているとしか言いようがない態度でヒカリの言うことを守る。呼べば舞ってくるし、駄目なものは駄目というと、それ以上はしなくなる。 静かにしてね、と言っただけで大人しくバックの中で泣き声も出さないのだから、知能の高さが窺える。 「……」 瞼を閉じているので、目の前は日の光が透けてオレンジ色だ。 脳裏には先輩の顔が浮かぶ。電話してからも音沙汰がなく、勇気を出してこちらからかけると、一応は出てくれる。しかし少し話しただけですぐに切れてしまう。「忙しい」と言って。 「……そう。忙しい、のよね。そうでしょ? 先輩」 肉を打つ音が聞こえる。粘着質な水音が繰り返され、荒い喘ぎ声が部屋に響き渡る。 若い男女が交わっていた。 大型のベットは二人が使ってもまだ余りある。そこにかけられたシーツは乱れていた。二人が身につけていただろう衣服は乱暴に脱ぎ捨てられ、下着までもが放り出されていた。 肩に髪がかかった男は口を半開きにして熱い吐息を吐き出す。覆いかぶされた女は大口を開けて喘いだ。 部屋の内装はシンプルなものだ。壁は乳色で、外の派手さに比べて拍子抜けしてしまう。ベッドとテレビがこの部屋を占める物だ。テレビを設置する台の上には、男の持ち物が無造作に散らばっている。その中の一つに学生証があった。顔写真にはもちろん、ベッドで情緒を続ける男の顔が映っている。『第三市立中央高等学校』と記された横に氏名を書く欄があり、『柊シュウゴ』と、顔に似合わぬ丁寧な文字で書き込まれていた。 男、柊シュウゴが体を脱力させると、それに伴うように女の体が仰け反った。 一オクターブ高い嬌声が、シュウゴの鼓膜を揺るがす。 「ねえ」 女は衣服を身に着けていない。裸のままベットに体を横たえている。しかし恥ずかしがる様子もなく、形のいい下半身のラインがシュウゴの目を楽しませる。 応じるように目を向けると、目をつむって唇と差し出す女の姿があった。軽く唇を合わせる。満足して妖艶に微笑むその表情は、いつ見ても飽きないものだ。彼女の手が伸びて、シュウゴの髪を弄る。人差し指に髪を絡ませる動きだ。くるくると巻き込まれ、ピン、と弾かれると元に戻る。女は、それを楽しそうに繰り返した。 「あの、名前なんていったっけ。シュウゴが付き合ってる二年生」 「洞木ヒカリだ」 「そう。ヒカリっていうの、その娘。で、どうだった? あたしより具合は良かったの?」 顔を俯かせてクツクツと笑った。再び顔を上げると、「ねえ」と繰り返し尋ねてくる。シュウゴは観念したように両腕を上げた。 「まあまあだな。初々しさは処女の特権ってヤツだ」 ベッドに腰を下ろすと、太ももに腕が回された。シュウゴも全裸なので、くすぐったい感触が下半身を走る。腰を浮つかせた反応を楽しむように、女はさらに指の動きを加えた。呼気も荒めに、微弱な快楽を楽しむ彼は独白する。 「――――――だが、そろそろ飽きてきた」 言うと、ベットから身を乗り出した女が股を割る。上半身を除かせた状態でしだれかかった。手には携帯が握られている。片手でそれを操作して、一人の少女が写った状態で液晶を向ける。そこには、少し長めのおさげ髪で清楚な雰囲気を纏う、無邪気な笑顔があった。 少女、洞木ヒカリの画像を一瞥すると、シュウゴは鼻を鳴らした。 「その女、元彼だかなんだかの話ばかりしやがる。いい加減、ウンザリだ」 「ふふふ。それはまた。あなたじゃなくても嫌になるわね」 携帯を閉じる。そのままベットに放り出して、女は顔をうずめた。シュウゴは軽く声を漏らした後、思い出したように呟く。 「……近いうちに引き渡すか」 「ただいま」 「おかえりなさい」 茶色のドアを開けると、出迎えたシンジの姿があった。長い黒髪を結い上げてポニーテールにしている。エプロンを装備しているのは料理中だったからだろう。黒地の布に三日月とそれにかかる雲がプリントされているエプロンで手を拭きながら、 「このところ仕事が長引いてますね。何かあったんですか?」 踵を返したシンジが問う。リツコの目には揺れる黒髪が映っていた。髪留めは白い。黒髪に映えて余計に目立っている。 靴を脱いで、先に置かれていた二足の横に寄せた。色違いのスニーカーはシンジとアスカのものだ。履いている靴までお揃いなのね、と苦笑するリツコ。 ストッキング越しで上がった床が冷たくて心地いい。 「――――――そうね。正念場ってところかしら」 そうですか、と前を歩くシンジの黒髪が揺れる。 リビングに近づくにつれていい匂いが漂ってくる。今更ながらに空腹感を感じ、リツコは喉を鳴らした。シンジの料理に慣れてしまうと、適当なものでは満足できなくなってしまう。事実、NERVの食堂の料理はすでに満足できない。栄養摂取だけを考えて食事を摂っていた昔とは偉い違いだ。セカンドインパクト直後では贅沢も言ってられなかったが、今では十分に食料が溢れかえっている。 振り返ったシンジと視線が絡まり、リツコは足を止めた。リビングへと続く扉の目の前。先にはアスカがお腹を空かせて待っているに違いない。その一歩手前で足を止め、彼はワラった。 「お仕事、頑張ってくださいね?」 「え、ええ。ありがとう」 クスクスと喉を鳴らしてワラうシンジに戸惑いながら、リツコは辛うじてそう答えた。 ■ 第二十七幕 「始まりにして終わりの」に続く ■ |