神造世界_心像世界 第二十一幕

                       「Darkness which low moon illuminates」











 彼は、それでも願った。

 独りは嫌だと。

 独りは寂しいと。

 他人に怯え、拒絶して。それでも彼は独りは嫌だった。

 都合のいい我侭。

 彼は怖かった。そして愛しかった。自分を傷つける他人が。自分を癒してくれる他人が。

 赤いプラグスーツを抱きかかえ、彼は歩いていた。ジャリ、ジャリ。踏みしめる砂が音を立て、二十数cmの足型を残す。延々と続く足跡は、砂浜の水平線まで延びていた。

 あすか、お腹減ったね。彼は話しかける。しかし周りに人気はなく、ジャリジャリという音と、打ち寄せる波の音しかない世界だった。ごめんね。きっとゴハン見つけるから。返答はない。それでも、彼は話しかける。まるで会話しているように。まるでプラグスーツに話しかけるように。

 ザァー、という波音。

 彼は怒鳴った。うるさい、と。狂ったように叫び続ける。うるさい。うるさい。プラグスーツを膝にのせ、しゃがみこみ、両手で耳を塞ぐ。うるさい。うるさい。それでも聞こえてくるようで、彼は頭を振って叫び続ける。

 憎い、と、聞こえてきた。うるさい。

 悲しい、と、聞こえてきた。うるさい。

 苦しい、と、聞こえてきた。うるさい。

 ひっきりなしに流れ込んでくる声。四六時中囁かれる苦悶の息遣い。できることなら耳を引き千切ってしまいたかった。だが、そうしても声が止むことはないだろうと、なんとなく分かっていた。

 赤いプラグスーツを抱え、立ち上がる。あすかぁ、待っててね。今、ゴハン食べさしてあげるから。こんなに軽くなっちゃって。少し痩せちゃったんじゃないの? ねえ、あすか。お腹減ったね。

 歩く。

 歩く。

 それでも、食べ物は見つからない。あるのは赤い海水と、大きな綾波レイの顔。磔にされた巨人と、真っ黒な月。

 空を見上げ、彼は倒れた。

 ボフっと間抜けな音がして、彼はそれっきり身じろぎ一つしない。動く力がなかった。動く気力もなかった。ただ、目線に入るのは、白い砂と、赤いプラグスーツだけ。

 もう、駄目だった。

 囁き声も、あすかの声も、グチャグチャに交じり合って聞き分けることができない。あの金切り声が恋しかった。自分を罵倒する彼女の声が恋しかった。なのに、今では誰とも知らない声と交ざり合って混乱混乱。まるでミキサーでかき回されたようにグチャグチャで、聞くだけで嘔吐感がこみ上げてくる。

 胃液を吐いて、それっきり。すでに死に掛けの彼には、吐き出すものがもうなかった。唾液も渇き、舌と喉が張り付いた。ひっひっと、情けない呻き声を上げながら、彼は痙攣を繰り返す。

 目を瞑ると、知らない誰かが、こう言った。

 死ね。

 そして、次に現れた誰かが、こう言った。

 生きて。

 うるさい。彼は言った。訳が分からないことを言うな。何が言いたいんだ。僕にどうしろと言うんだ。

 うるさい。

 うるさい。

 それでも、声が止むことはなかった。いや、今まで以上に声が高まっていく。うるさい。抗議の声も、もう飲み込まれて聞こえない。圧倒的な奔流。流されて、流されて、逆らうことなど考える暇もない。

 騒がしかった腹の虫も、ドクドクと鼓動していた心臓も、自分自身でさえ掻き消されて、もう誰が自分で自身なのか、見当もつかなかった。憎い痛い苦しい妬ましい屈折愛しいこの粘着質汚泥の。

 まるで、碇シンジという名の砂を押し流されたような。そうだ。小さいビンで、慎ましくも厭らしく生きてきた彼を、他の砂が追い出したのだ。

 固形を保っていられたのは“ビン”のおかげなのに。追い出された彼の砂は、ザラザラと崩れ落ちた。地面に這いつくばって顔を上げると、見知らぬ“碇シンジ”笑っていた。クスクスと、まるで楽しそうに、クスクスと笑っていた。

 自分が絶対にしないであろうその表情を見て、彼は複雑な心境になった。どうして笑っていられるのだろう。うるさくないのか? イライラしないのか? そもそも何がおかしいのか。

 すると、碇シンジは、地面に這いつくばる“彼”を指差して笑い始めた。クスクスクス。クスクスクス。ああ、僕がおかしくて笑っているのか。僕が惨めだから笑っているのか。彼は理解した。分かってみると、事実その通りだった。無造作に散らばる自分はなんて滑稽なことか。シンジが笑っているのも頷ける。クスクスと、空っぽのビンを揺らして、碇シンジは笑っている。

 そうだ。これはあのときの。

 自分が壊れる瞬間。本当の意味で、“碇シンジ”が死んだ瞬間。

 縋り付き、絶望し、狂って、シンジがシンジでなくなって。それでも惨めに足掻いて生き続けた、最後の瞬間。

 壊れたんじゃない。

 狂ったんじゃない。

 “空っぽ”になって、碇シンジは絶命したのだ。

 例え、壊れても。例え、狂っても。その人間は生きている。元とは違う形になってしまっていても、ビンには詰まっているのだ。人生、記憶、人格、魂。不確かな要素さえも名前を持ち、人間を人間として生きさせる“砂”。

 砂の色が変わっても生きている。

 砂の量が変わっても生きている。

 だが、砂が空っぽになった瞬間、人は“死ぬ”。

 本来ならば身体の機能を停止させ、心臓を止め、脳を腐らせるはずなのに。

 声が、言うのだ。

 生きろ。生きろ。もっと苦しめ。足掻け。のた打ち回れ。

 皮肉なことに、彼らの声が、碇シンジを死なせなかった。地面に零れた彼は一部始終をずっと見ていた。動かなくなった体が痙攣し、跳ね回り、砂浜を暴れまわって蘇生するところを。

 ゆっくりとした動作で起き上がり、碇シンジは顔を上げる。おもしろい。シンジが言った。紅い海を眺め、綾波レイを見据え、最後には、視線を足元に寄越す。ああ、空っぽだ。彼は思った。中身は空洞なのに、なんで生きているのだろう。なんて綺麗なのだろう。シンジには中身がない。透き通った容器だけ。透明度を持ったシンジは、この世の何よりも純粋で、虚ろだ。

 他人が覗けば、先が透けて見えてしまう。そして僅かに映り込む、己の実像。

 クスクスクス。

 あーあ、零しちゃった。シンジが言う。自分のことだと理解するのに数秒を要し、彼はかつての“自分”を無感動に見上げる。もはや誰とも知れない碇シンジ。空っぽだ。虚ろだ。故に、恐ろしい。彼は純粋だ。生かすことも、殺すことも等価値だ。

 ああ、自分はどうなるのだろう。一人歩きする“碇シンジ”は、この先どうなるのだろう。確かに、自分は『独りは嫌だ』と願った。他人を願った。だが、こんな形を望んだ訳ではなかったのに。

 クスクス。反対側が透けて見える。恐ろしい。恐ろしい。

 そうして、“彼”は絶命した。零れて、死んだ。意識がなくなる。そうだ。これで終わりだ。“碇シンジ”という彼が生き絶え、“彼”のビンが“碇シンジ”として一人歩きし始めた、その日。

 終わりだ。

 終わりだ。

 ここで、終わり。彼のお話は、終わり。

 だけど。

 今回は、少し、違かった。



 ――――――シンジに何もないんだったら、アタシの全てで満たしてあげるんだから!



 もう、顔も思い出せない、大切な人。

 その声が、聞こえた気がして。

 見ると、空っぽだったビンに、僅かだが砂が入っていた。あかい砂。燃えるような、淡いあかいろ。気色悪い海の紅とは正反対の、生き生きとした色。

 ああ、もう大丈夫。

 彼女なら、自分を助けてくれる。導いてくれる。満たしてくれる。空っぽじゃない。凄い。凄いよ。

 感情がなくても。

 声が五月蝿くても。

 自分が虚ろでも。

 彼女がいれば、恐れることはない。

 そうだろ? ■■■――――――。



 僕を、助けてあげて。

 それと。

 本当に、ゴメン。

 そして、ありがとう。

 これだけは、言いたかったんだ。

 地べたに這いつくばって言う台詞じゃないけど。

 こんなコト言ったら怒られそうだけど。



 僕は、君のことを。



 愛して、――――――い、ま、す。

 いと、し、い、あ、す――――――。



























 「――――――アスカ」


 碇シンジが目を覚ますと、見慣れた天井が目に入った。違和感を感じ頬に手をやると、湿っていることに気づく。泣いていた? 馬鹿な。自分が泣ける訳がない。今までだってそうだった。そしてこれからも。・・・・本当に? そうだ。きっとそうだ。でもなんだ、この感覚は。優しかった。暖かかった。ああ、そうか。あすか。アスカ。リンクされているアスカ。
 
 流れてくるのは彼女のココロ。ほんの小さなものだけど、シンジには十分すぎるほどの熱をもたらす炎のようなものだった。愛しいあすか。僕のアスカ。彼は気づかない。自分でも気づかない。安心した表情、反射的な感情。

 なんとなく、彼は気分が良かった。そのことの異常さに気づかないまま、シンジは天井を見上げる。そこには黒い染みが真ん中に二箇所あり、そこから左に行くと大きな灰色の染みがある。三年前にもお世話になった病室は、いつの間にかシンジの専用室になっていたらしい。

 備え付けの鏡の向こうに映るのは、顔中に湿布を貼った長髪の青年だった。

 ズキズキと痛む顔に悪態をつく。きっと痣になったしまっただろう。いやだなあ、恥ずかしくて外も歩けないよ。スリッパを履いてベッドを降りる。

 病室から出ると、ゲンドウの後姿を見つけた。一度立ち止まると、手をクイッとやってまた歩き出す。付いて来い、ということらしい。三年前ならいざ知らず、今のシンジは気分を害するまでもなく付いていく。

 確かに人としては最低な人間だが、組織を率いる者としては、ゲンドウは中々優秀である。他組織に対する根回しも完璧だし、何より舐められる・・・・・ことがない。指令とは組織の看板と同義なのだ。なよなよした指令ならば馬鹿にされるし、組織そのものの評価も、それに伴った結果になってしまう。ゲンドウならば恐れられはすれ、甘い組織だと思われるのは、まずないだろう。

 インパクト後、NERVに求められたのは、<抑止力>としてのNERVであった。使徒を全て倒してしまっては存在意義がなくなる。そうなればNERVが解体されてもおかしくはない。

 しかし、サードインパクトがもたらしたのは、破壊以前に、“混乱”であった。政府関係者が欠けたことにより国内で乱れ、紛争と化し、これ幸いにと軍事国家が精を出し始めた。

 混迷の大地を歩くには、お人好しでは荷が重い。各国でも、穏便派と呼ばれた政治家達が次々と姿を消す中、やはり最後まで残ったのは古参の者達――――――しかも腹黒い連中ばかりであった。

 その代表ともいえるのが、NERV総司令、碇ゲンドウである。

 解体案の出ていたNERVを維持しつづけ、国連をもバックにつけた。彼の手腕なくして、ここまで事態を回復することはできなかっただろう。サードインパクトを起こしたのではないかと、各国に疑われていた厳しい立場だというのに、上手く立ち回り誤魔化し続け、最後には“正義の味方”にまでなりつめた。ユイの頼みだとはいえ、綾波レイを擁護し、世間の目から逸らしたのも彼のおかげだった。


 「今回はよくやってくれた」


 労う言葉に多少驚きながら、シンジは愛想笑いを返す。

 有能な人間にはそれ相応の対価を与える。ゲンドウのモットーであり、自身が信じて疑わない教訓だ。私情が絡むと話は別だが、今回のシンジの働きは、ゲンドウにとってありがたいものであった。

 自分が動くとなると、暗殺しか手段はない。そこに友人であるシンジを絡ませることによって、「スパイがバレ、強硬手段に出て反撃にあい死亡」という、ヤラせとは考えられない劇を織り成す。元々遠くない未来に、それは起きていただろう。今回は強制的に起こしただけの話だ。

 火種は以前から燻っていたのだ。


 「アスカはどうなったんですか?」

 「彼女は治療を終え、すでに帰宅している。先程まで、おまえに付き添っていた」

 「そうですか」


 シンジが覚えているのは、マナを刺したところまで。それ以降は気を失っているし、こうして生きている以上、アスカがもう一人の男を処理してくれたのだろう。

 
 「・・・・」


 僅かに感じる、憂鬱な感じ。

 友人を殺害したのだ、平気なはずがない。例外的にシンジは感じないのだが、アスカの感情が流れ込んでいるので、多少は悲しい気分になれる。

 
 「・・・・何か報酬を望むか?」

 「いえ、結構です。報告を聞いた限り、僕が狙われていたのも彼らの仕業だったみたいですし、今回は自衛としての行動ですから」

 「そうか」


 一瞥すると、ゲンドウは立ち上がる。周りの医師達がヘコヘコと頭を下げる中、ゲンドウの黒い背中は去っていった。


 「・・・・中々サマになってるじゃないですか、父さん・・・



















 「アスカちゃん・・・・」


 今にも泣きそうな顔で病院帰りのアスカを出迎えたのが、ユイであった。

 マナと親交があったユイにしてみれば、彼女達がスパイであっただけでもショックなのに、戦闘のすえ死亡と知れば、ショックもさらに大きいだろう。
 
 人通りの多い通路で泣かれたらたまらない。アスカは慌てて休憩所にユイを移動させる。幸いなことに人の姿はなかった。ミサト、レイがよく訪れる場所なので不安だったのだが、一安心だ。この状況をレイに見られれば、何を言われるか分かったものではない。ただでさえシンジと一緒にいるから敵視されているというのに、ユイが泣かれている場面を見られれば、張り手の一つや二つ、飛んできても不思議ではないのだ。


 「マナちゃんが、マナちゃんが・・・・」
 

 スパイがバレ、戦闘のすえに死亡――――――か。

 アスカは内心ため息を吐いた。ボロボロになったシンジ。銃を向けるマナ。日常の中では考えられない出来事。

 霧島マナはスパイだった。ムサシ・リー・ストラスバーグとつながっていた。

 だけど、彼氏ができたとのろけるマナを思い出すたび、今日の出来事が信じられなかった。恐らく彼氏とは、ムサシ・リー・ストラスバーグのことだったのだろう。マナは心から照れくさそうだった。それは演技じゃない。断言できる。

 霧島マナが戦自のスパイだと知ったのは、結構前だった。しかし、そのときには、すでに友人関係にまでなっていた。裏切られたと思った。だけど、彼女が今まで叶えられなかった、“普通”の日常を噛み締めているのだと気づくと、親近感が沸いた。

 かつてのアスカも感じた、“普通”の日常のありがたさ。セカンドチルドレンとして幼少期の殆んどを訓練で過ごしたからこそ、学校に行ったり、友達と遊ぶのがこれ以上なく楽しかったこと。

 それをマナも感じているのだと思うと、スパイであっても許せる気がしたのだ。

 好きでやっている訳ではない。嫌なことを拒否できない立場に、マナはいたのだから。

 だから、彼女の任務が終えるまで、友達ごっこを続けていこう。そう思った。


 「霧島マナ、か」


 それはあっさりと崩れ去った。

 目が覚めてから聞かされた内容に、アスカは驚いたものだ。なんでもマナの手引きで、シンジの拉致未遂が一回起きているのだそうだ。きっとあの日だろう。シンジが帰り道、急に一人でどこかに行ってしまった日。彼の喚起の声が流れ込んできた日。

 
 「アスカちゃん、マナちゃんを、恨まないであげて。命令だから仕方がなかったのよ。いけなかったのは私。彼女を救い出せなかった、私達の責任よ」
 

 涙を流しながら、ユイは謝罪する。


 「・・・・いえ、小母さまのせいじゃないですよ」


 マナは戦自に身を置く兵士なのだ。水面下ながらも、NERVと戦自は敵対している。それなのにマナを引き込むとなれば、いろいろと面倒なことが出てくる。何より、NERVの管理体制を疑われてしまうだろう。

 スパイは敵だ。曲者だ。排除すべき輩なのだ。

 正義の味方、特務機関NERV。

 だから、悪であるマナに味方することはできない。正義の味方に敵対するのは悪だ。問答無用で“悪”になってしまう。

 対面的にも、彼女を匿うのは難しかった。マナを保護することによって、他の元少年兵達が挙ってNERVに亡命してくるかもしれない。そうなれば混乱が起きて、その少年兵達にスパイが紛れ込む可能性があった。

 
 「マナは、スパイです。いずれ、問題が起きました。それが早まっただけです」


 アスカの無常ともいえる言葉に反論しようとするが、彼女の表情を見て、ユイは言葉に詰まった。アスカとて悲しくない訳がない。だが、世の中はそんなに上手くいくことがないと身を持って知っているから、受け入れることができた。

 悲しい。

 マナが死んでしまったのは悲しい。

 だが。

 彼女は、シンジを殺そうとした。

 殺そうとすれば、自分が殺されても文句は言えないだろう。

 下手すれば死んでいたのだ。

 思い浮かべてみろ、シンジのいない世界を。シンジが欠けた世界を。

 ふざけるな。

 考えたくもない。

 
 「彼女は、シンジを殺そうとしました」


 ビクリ、と、ユイの肩が震える。


 「殺そうとしました・・・・!」

 「アスカちゃん・・・・」


 ならば、迷うこともない。

 自分の命よりも大切なものを守ることに、躊躇はいらない。後悔だっていらない。
 

 「アタシはシンジを守ろうとしました。救おうとしました。その結果、マナが死にました」


 殺しにきた輩に、なぜ同情などしなければならないのか。

 彼らは殺しにきたのだ。

 十数年の人生を、壊しにきたのだ。

 小さい鉛玉一つで壊されるなんて、そんな馬鹿な話、あってたまるものか!
 

 「小母さま・・・・いえ、顧問。世の中には、救えるものと救えないものがあります。私には、その明確な基準があるだけです」


 分かっている。ユイだって分かっているのだ。こうして喋っている最中にも、世界では幾人もの命が奪われていることも。

 でも、それを許容してしまっていいのだろうか?

 仕方がないと諦めてしまっていいのだろうか?

 否。

 そんなの、いい訳がない。

 逃げているだけだ。

 目を逸らしているだけだ。

 救えないものはある。分かっている。十分に承知している。

 それでも、助けを求める者がいたのなら、例え無理だと分かっていても、救いたいと思っては駄目なのだろうか。

 ユイは顔を上げ、アスカの目を見た。そこにあるのは深い闇色の蒼眼。背筋を這い上がる悪感を覚え、慌ててユイは頭を振った。不味い兆候だ。あれは、そうだと信じて疑わない目だ。人生をすでに諦めた目だ。いけない。そんな目をしちゃいけない。


 「アスカちゃん!」

 「顧問、もうすぐ分かります」

 「え?」

 「・・・・」


 アスカは無言で立ち上がる。

 引き止めるユイの声を無視し、彼女は歩き出す。目の前は闇。進む先は真っ暗な世界。

 その先には奈落の底が待っていたとしても。

 アスカは、立ち止まらない。





















 シンジがリツコ邸に着いたのは、日が沈んだ後であった。病院で眠っていたのは二時間程度だったらしい。日付が進んでいないのが幸いだった。

 インターホンを押そうと手を伸ばし、肩に鈍痛が走って顔をしかめる。散々殴られたり蹴られたりしたので、体中が痣だらけだった。骨が折れていなかったのは幸運以外のなんでもないだろう。

 後ろに人の気配を感じた。そのまま固まったままの左手に、白い手が重なる。


 「アスカ・・・・?」


 前を向いたまま、シンジは呟いた。そして蘇る、紅い海での記憶。満たされていく。満たされていく。空っぽのビンを、あかい砂が満たしていく。自分が変わる。碇シンジが変わっていく。

 だけど、不快ではなかった。

 背中にコツン、と、何かが当たる感触。少ししてから、アスカのおでこだと気づいた。後ろから抱きしめられる形になっているらしい。


 「マナ、死んじゃったわね」


 少し遅れて、うん、と、シンジは答えた。

 死んじゃったね、と、アスカは確かめるように繰り返した。


 「僕が、ナイフで刺したんだ」

 「うん」

 「アスカが殺した訳じゃない」

 「違うわ。殺そうとした。隙があれば、殺そうとしてた。頭に血が上って、そのまま引き裂いてやろうと思った。裏切り者って。よくもアタシ達を裏切ったなって」

 
 アスカの手を握り返す。重なった手は、暗闇でもぼんやりと浮かび上がって見えた。

 リンクされた胸に流れ込んでくる感情。ふざけるなふざけるなふざけるな。よくも、よくもシンジに傷つけたなっ。声を押し殺し、アスカは吼える。

 シンジは空を見上げた。

 第三新東京市では、あまり星も見えない。分厚い大気を超えて、月よりも遠い彼方に行かないと、星には辿りつけない。


 「アスカ」


 振り返る。

 俯いているアスカを引っ張り寄せ、両手で抱きこんだ。まるで天使が羽で包み込むような、シンジの精一杯の愛情表現。
 

 「そんな下らないこと・・・・・・、忘れた方がいいよ?」

 「え?」

 「なんで殺されなきゃいけないのか、とか。なんで裏切ったのか、とか。理由を求めるのはやめた方がいい。なんで? どうして? 考え出したらきりがないじゃないか」


 本人じゃないのだから、殺そうとした理由、裏切った理由なんて分かる訳がない。それなのに考え続けると、自分で相手の考えを捏造してしまう。ああだった。こうだった。きっとそうだった。

 何を根拠に?

 何を理由に?

 金のために裏切ったかもしれない。保身のために裏切ったのかもしれない。家族のために裏切ったのかもしれない。

 
 「僕はね、感情がなくなってから、相手の言葉をありのままで受け止められるようになったんだ。自身で歪曲して受け取るんじゃない。ありのまま・・・・・で受け取るんだ」


 人には感情があるから、どうしても自身の都合で解釈してしまう。相手は感謝しているのに、自分には皮肉として聞こえたり。相手が思っていることと、自分が受け取ったこと、どうしてもズレが生じてしまう。

 だが、わざわざそれを考える人間はいないだろう。一番最初に感じた解釈で受け止め、言葉として認識する。

 受け答えのシステムとは、なんて穴だらけなのだろうか。

 シンジの場合、感情が欠陥したことによって、自身で歪曲することがなくなった。都合のいいように解釈しない。悪い方に考えない。

 すると、今まで見えなかったものまで見えてきたのだ。

 相手が心の底で思うこと。

 言葉に隠れた、本音の破片。

 感情がなくなってから感情を読むことができるようになるとは、なんて皮肉なのだろう。

 シンジにとって感情とは“情報”だ。

 相手が“怒った”。相手が“悲しんだ”。相手が“喜んだ”。

 なんて淡白。

 なんて馬鹿馬鹿しい。

 いつも腹を探りあって、見当違いの解釈で喜び勇む。

 傍から見れば、とんだ茶番だ。

 下らない。

 相手のことを考えてどうすると言うのだ。

 これだという答えを探し、相手を喜ばせるのか? それでは誘導と変わらないではないか。

 時折見せる醜悪な顔が、ヤケに不快だった。

 “不快”だった。


 「アスカ、考えてごらんよ? マナは僕を殺そうとした。なんのため? 一緒にいた男のため? 自身のため? まだ見ぬ他の人のため? 分かるはずないじゃないか」


 淡々とシンジは言葉を紡ぐ。

 アスカはそんなシンジを見ているのが辛かった。自分のせいでこうなってしまった。感情を忘れてしまった。自分のせいで、自分のせいで。


 「僕を哀れんでいるのかい?」

 「ち、違うわ」


 慌てて言いつくろうアスカをなでる。彼女の金髪が玄関の灯に反射して、キラキラと光った。


 「いいんだ。“哀れんでくれる”、それは心配してくれているってことだろう? それだけでいいんだ。理由なんか考えるから駄目なんだ。自分を心配してくれている。ありのまま受け取ればいいのに。もしかして見下されているんじゃないだろうか、小馬鹿にされているんじゃないだろうか、なんて疑う。相手の考えなんか分かるはずもないのにね」

 「でも、不安なのよ。みんな不安なのよ」

 「そうだね。分からないことは不安になる。相手が何を考えているか、どう思っているか。分かるはずもないのに、どんどん深みにはまっていく」


 分からないのは分かっている。

 分かるはずもないのも分かっている。

 それでも、不安なのだ。考えてしまうのだ。もしかしたら、もしかしたら。どんどんマイナスに走って、憂鬱になる。止めたくても止められない。一度考えてしまうと、忘れたくても、簡単には忘れることなどできやしない。

 不安が焦りになり、焦りが怒りになり。

 ついには、相手を憎み始める。

 感情を持つから、相手を愛し、大切にする。

 感情を持つから、相手を憎み、粗末にする。

 愛して、憎んで。憎んで、愛す。永遠絡む二つの相反する感情。メビウスのリングのように、いつの間にか裏返るその感情。

 人の感情は、論理ロジックなんかじゃない。

 言葉で言い表すことなど以ての外だ。人を愛す。愛とはなんだ? 好きになるとはどういうことだ? 信頼するとはどういうことだ?

 人はいちいち考えて行動なんかしないし、感情に任せて行動するのが普通だ。考えないからこそスムーズに過ごせているのに、なぜ理由を付けたがる? なぜ、また元に戻ろうとする? 理由を付けないと行動できないのか。理由がないと不安なのか。不安になって理由を付け、自分勝手な思い込みで疑心暗鬼になっていく。最悪のループだ。


 「不安かい? 恐ろしいかい? でもね、アスカ。僕らが経験したのは、そんなものじゃなかっただろう?」


 大人に利用されるだけだった、哀れな子供達。

 気づかないうちに計画に巻き込まれ、傷つき、心を磨り減らして、最後にはあの紅い海。


 「それに比べたら、生きることの不安なんて目でもない。紅い海、紅い海、紅い海。真っ赤で真っ赤で真っ赤。人々の感情が剥き出しになった世界は、今まで見たことがないくらい醜悪だった。あれがヒトの全てだなんて、考えたくもないけど」

 「・・・・っ」


 そうだ。

 思い出せ、あのくれないの海を。

 ココロを犯した、あの感情を。

 全人類のココロが融けているというのに、現れるのはどれも気色の悪いものばかり。憎しみとか妬みとか。同じように融けている愛とか思いやりはどこへ行った? 呑まれたのか塗りつぶされたのか。あの海は、神経を侵すだけ犯す、ただの泥水だ。人は美しい? だったらその“美しい”感情はどこへ消えた。割合的なものか? 正が三割、負が七割。はい正の負け。負の大勝利。

 ぐちゃぐちゃして、生臭くて。

 ヘドロみたいにガスを噴出す。欲、欲、欲、欲!

 そんな地獄てんごくに、碇シンジは、一人取り残された。


 「誰かがね、言ったんだ。『生きていれば、どこだって天国になる』って。そうだね。あの紅い海に比べたら、どこだって天国に見えるよ!」


 だから嘆かない。

 不安? それでもいいじゃないか。

 それ以上考えなければいいじゃないか。“愛してくれる”、そのどこに不安があるというのだ。


 「この世は醜悪うつくしい。そう思うだろ?」


 抱きしめる。今この瞬間、確かに存在していると確かめるために。不安なら触れ合えばいい。それでも不安なら確かめ合えばいい。疑うのなら聞いてみればいい。毎日、毎日。不安になるたびに、確かめればいい。

 でも、一人ではできないことだ。

 二人いないと、できないことだ。

 独りしかいない、これほど寂しいことはない。だから感謝するのだ。他人がいること。感情を向けられること。独りじゃないと実感できるから。愛されても、憎まれても、それこそが、素晴らしいことなのだ。
 

 「不安かい?」

 「うん」

 「僕は壊れちゃったけど、だからこそ言える。アスカだけは疑わない。アスカだけは離さない・・・・初めはね、誰にも興味を持てなかったんだ」


 でもね、と、シンジは言った。

 アスカが顔を上げると、微笑むシンジがいた。いつもの笑顔。作った“笑顔”。でも、その笑顔こそがシンジの“笑顔”なのだ。作っていたとしても、上辺だけのものだったとしても、シンジは笑うために、“嬉しい”と理解しなければならない。考えなければならない。

 でも、それになんの問題がある。

 嬉しいと感じたことは事実だ。ありのまま感じたことは事実だ。歪曲しないぶん、シンジは誰よりも純粋なのだ。この世界の憎悪を一身に受けてもなお、シンジは純粋なのだ。


 「でも、つながった。アスカが来てくれた。嬉しかった。紅い海を一緒にいてくれて、寂しくなかった。本当に、嬉しかったんだ」

 「シンジ・・・・」

 「この世界では、不信は自身を弱くする。疑うことは周りを弱くする。アスカ、僕はこんななりだけど、アスカのこと、疑ったことはないよ。だって――――――」


 ワラう。

 笑う。

 シンジは、笑う。

 だって、不安なんて怖くないから。

 疑うことなんて、考えもしないから。


 「――――――この世界の誰よりも、アスカだけを信じているから」

 「あ、・・・・」


 それは、何よりも待ち望んでいた言葉。

 世界なんか知らない。他人なんて知らない。シンジだけのために。それだけを信じて。それだけを願って。

 



 ――――――ドクン





 不安なんて目じゃない。





 ――――――ドクン





 誰からも信じてもらえなくったって、構うことじゃない。





 ――――――ドクン





 独りじゃない。独りじゃない。独りじゃない。





 ――――――ドクン





 ほら、感じるだろう。





 ――――――ドクン





 この温もり。





 ――――――ドクン





 この気持ち。





 ――――――ドクン





 この、鼓動。

 



 独りはイヤ。誰かアタシを見て。アタシは独りでも生きていける。でも独りはイヤ。独りはイヤ。独りはイヤだっ!!

 でも、もう大丈夫。

 世界を信じられなくても、心から信じられる人ができたから。

 怖くない。

 もう、何も怖くない。

 シンジ以外、何もいらない。

 不安、不安、不安。さようなら、不安。さようなら。





 ――――――ドクン





 さようなら、今までの世界。

 そして、こんにちは――――――。





 ――――――ドクン





 

















 ――――――新しい、世界。


























 二人は一つに、一つはゼロに。

 たった二人の出来事だから。

 今を大切に。

 人生に楽しみを。

 この茶番劇に、祝福を。



 そうして、二人は、唇を重ねた。

 暗闇の中で。

 二人の周りだけは、さらに深く、暗く。

 漆黒の満月が、彼らを照らし出していた。

 もう、独りじゃない。

 それはなんて、



 ――――――それはなんて、気持ちの良いコト。







                                            ■ 第二十二幕 「世界の周辺物語」に続く ■