神造世界_心像世界 第十七幕 「深層世界。」













 碇レイにとって、自分の存在意義は碇ユイのためにあると信じて疑わない。

 ある意味、惣流・アスカ・ラングレーと似たり寄ったりの考え方なのだろうが、当の本人達にしてみれば、自分の考え方は自分にしか理解できぬものだと考えているし、現実に彼女達の考え方は、他人には理解できないだろう。

 人を愛し、人を信じる。

 世界中で行われているであろうその行為から外れて、もはや狂愛といっても過言ではないくらいに、彼女達の思想は膨れ上がった。

 そんな状態に陥るのは精神的に異常をきたした人間だ。人との関係に見切りをつけて生きている者は、一回や二回、騙されたり裏切られたりしてもさほど動じはしない。

 元より、人間とはそういうものだ、と諦めにも似た考えを持ち合わせている。

 ならば、なぜ人はそこまで病的に依存してしまうのだろうか。

 難しくはない。

 その人物は、自分さえも信じられなくなってしまったから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、他人を頑なに信じようとするのだ。

 自分で決めず、自分で生きず。

 人の手の上で楽して生きていけたのならば、それはなんて甘美な人生なのだろうか。

 なにせ生きることに責任が付きまとわないのだ。全てを人が背負ってくれ、自らは従って生きればいい。自由という生き方を失う代わりに、不安を消し去ってくれる。

 


 















 自分に向けられた第一声は、“バケモノ”だった。

 数多くの人間がリリスと同化した綾波レイを目撃したのだから無理はないだろう。人智を超えた存在は恐怖こそすれ、それ以外に何があるというのだ。

 分かっている。

 この身はすでに人間となんら変わりはなくなっているというのに、一度バケモノとなった自分は生きている限り“バケモノ”にしかなれないのだと。

 クローンとしての綾波レイ。

 ファーストチルドレンとしての綾波レイ。

 リリスとしての綾波レイ。

 一人目、二人目、三人目の綾波レイ。

 全ての“綾波レイ”の記憶を有する彼女は、自分がどのような存在なのかも、瞬時に理解することが出来た。

 だがそれになんの意味がある。
 
 綾波レイが巨大なリリスとなり、ガフの扉を開いてアンチATフィールドを展開したのに変わりはない。

 綾波レイが、人類を滅ぼそうとした事実に変わりはない。

 ならば綾波レイを恐れるのは道理であり、自分が今、こうして一人の女性に銃口を向けられるのもまた道理なのだろう。

 震える手で銃を突き出す女の顔は青ざめており、絶対的に有利なはずの彼女が自分を恐れるのは何かおかしいな、とレイは思った。

 彼女が引き金を引けば、銃弾は頭蓋を突き破って脳を破壊し、灰色の気色悪い流形物を撒き散らして綾波レイは絶命する。変えることが出来ない自然の摂理。ただの人間である綾波レイにとってそれは当たり前のことなのだが、今更それを説いても、彼女が辿る結末に変わりはないだろう。

 スペアがない綾波レイは、ただの少女なのだ。

 「私が死んでも、代わりはいるもの」なんて台詞はもう吐けなくなってしまった訳である。

 誰もが通る“死”を目の前にしても、不思議と恐いとは思わなかった。それも当然か、すでに綾波レイは三度の死を経験しているのだ。一度目は絞殺、二度目は爆死、三度目は文字通り人ではなくなって死んだ。だから銃弾が頭を打ち抜こうがなかろうが、別に痛みも一瞬ならばラッキーだったとさえ思える。

 この状況では、生きる気力さえ沸かないのだ。

 世間知らずの綾波レイでも、生きたまま戦自など他の組織に捕まれば、死よりも辛いであろう解剖や実験の日々が待ち構えているのは容易に予想出来る。

 いくら自分は普通の人間と変わりはないと叫んでも、ヤツラは聞く耳など持ちはしない。

 ならば、と。

 生きていても苦しいだけなら、生きていても痛いだけなら。

 心臓を動かすのも、馬鹿馬鹿しいと思わないか。

 殺すのならばさっさと殺して欲しいものだ。そんな震える手で打たれれば、どこに命中するのか分かったものではない。出来れば一発で頭を打ち抜いてくれないだろうか。

 目の前の人間は、きっと自分をバケモノだと信じて疑わない。

 それだけが、綾波レイには心残りだった。

 せっかく夢にまで見た“普通の身体”を手に入れたというのに、僅か数分にしてその生に幕を閉じようとしている。人として生きたかった。人として死にたかった。人として碇くんと――――――壊れやすい、ガラスの様な、あの少年と生きてみたかった。

 レイの頬に涙が伝う。

 いくら悔しいと思っても、いくらまだ死にたくないと神に祈っても、ソレは誰よりも優しく微笑み、こう詠うのだろう。

  



 ――――――私を、信じなさい。




 なにを馬鹿な。

 助ける気など、元からないくせによく言う。

 神ほどあやふやでつかみ所のない存在はないだろう。誰もが等しく救われると信じ、罪人でさえ神の名の下に浄化されるとでも本気で思っているのだろうか。

 サードインパクトという人類全てを巻き込んだ集団自殺――――――いや、心中といった方が無難か――――――の最中でも、神など一秒も姿を現すことがなかった。ほら、どういうことだ、神に選ばれたとほざく人間達よ。

 善行を積み、天国へと至れるというのならば。

 あの血なまぐさいLCLに融けるのが、神の元に逝くということなのか。

 ああ、悔しい。

 きっと目の前の女はバケモノを殺すことに、何の罪の意識も感じていないのだろう。

 ただ恐ろしいから殺す。

 自分に害を成すから殺す。

 自分が生きていくための、当然の行動理念。

 それでも。

 生きたいと。

 何もなくて、生きていても仕方がないとしても。

 バケモノとして死ぬことだけは、絶対に嫌だったのだ。

 出来ることならば。

 出来ることならば、一人の人間、綾波レイとして、生涯を終えたかった。

 けれど、レイには成す術もなかった。

 銃弾を弾くATフィールドもなければ、死んでも生き返るなんて、不死身じみた真似も出来ない。

 命はたった一つなのだ。
 
 今更になって実感できるとは、なんという皮肉なんだろう。

 悔し涙を流しながら、綾波レイは目を瞑り。





 ――――――けれど、一向に銃声は聞こえてこない。





 カラン、と。

 目の前の茶髪の女性は銃を落とし、レイにすがり付いて嗚咽を漏らす。「ごめんなさい、ごめんなさい」壊れた玩具のように、彼女は何度も繰り返した。

 それが、綾波レイと、碇ユイの。

 本当に奇妙な、最初の出会いであった。



















 彼が目を覚ますと、自分がLCLを漂っていることに気づいた。

 そして実感する。

 ああ、駄目だったのだ、と。

 何もかも投げ出して、何もかも利用してやってきたというのに、最後に残ったのは薄汚い自分だけ。

 感情など、とうの昔に置いてきた。

 残っているのは妻に会うという、ただ一つだけの願い。

 神に祈った。

 星に願った。

 ありとあらゆる手段を講じ、それでも妻は帰ってこなかった。

 自分が最低な男なのは分かっている。

 他人に言われるまでもない。人が恐いと遠ざけ、信じることが出来ないと傷つけた。

 分かっているのだ。

 結局は全て自分が悪いのだと、彼は分かっているのだ。

 それでも考えを改めるつもりはなかった。今更変えたところで何になる。今まで踏みにじってきた人間にどう謝罪するというのだ。

 彼は自分のために他人を切捨て、傷つけ。

 それでも精一杯生きてきたのだ。

 いや、そうすることでしか生きられなかった。

 だから文句を言うつもりはない。
 
 独りで生きていくことも。

 他人に外道と罵られようとも。

 彼の心は、すでに冷え切って凍り付いてしまった。

 人の温かさを知っていても、その身に触れれば凍傷けがをさせてしまう。

 だから、彼は独りでも生きていく。

 きっと自分は独りで生きて、誰にも知られずに死んでいくのだろう、と。

 彼は半ば自分を嘲笑しながら、皮肉気に口を吊り上げてワラう。





 ――――――あら、何か嬉しいことでもあったんですか?





 聞こえてくる、茶髪の女性のその声が。

 そして、その考えは間違っていたのだと。

 伴侶となる女性と出会うことで、彼は身をもって知ることになる。



















 「――――――殺さないのか?」

 「――――――ええ」



 プカプカとLCLに漂いながら、彼らは呟いた。

 ゲンドウのすぐ真横には、彼が撃ち殺した赤木リツコが漂っており、ただ穏やかな表情で浮かぶだけだ。

 不思議だった。本来ならば、自分は復讐のために殺されてもおかしくない立場だというのに、彼女は事も無げにこう言うのだ。



 「お互い、生きるのに必死でしたから」



 だから、気にするな、と。

 赤木リツコは心地良い浮遊感に身を任せる。

 ゲンドウが自分を愛していないのは気づいていた。それでいてレイに嫉妬し、憎んで、最後には愛した人に殺された。

 なんて馬鹿げた人生だろうか。

 しかし、母の呪いに囚われて、鎖につながれていた赤木リツコはもういない。

 

 「ホント、馬鹿みたい」



 生きることも、死ぬことも。

 人を愛し、愛されることも。

 世界中の全てが、どうしようもなく馬鹿らしく思えてならなかった。



 「でも、」



 他人を傷つけることしか出来ないゲンドウも。

 他人を淡白にしか見ることが出来ないリツコも。



 「――――――それでも、生きているんですね」

 「・・・・、ああ」
 



















 目の前の女性は、碇ユイと名乗った。

 そして確信する。碇指令が追い求めていたいた人は、この女性なのだと。

 よく見ると、毎朝鏡に映っている自分の顔と、目の前の女性は瓜二つだと気づいた。クローニングされた身だとは分かっていたが、こうして完全な遺伝子提供者オリジナル・ワンを目の前にすると、なんとも不思議な気分だった。

 ゲンドウが自分を通してユイを見ていたのも頷けた。もはや親子姉妹の域ではない。髪や目の色を同じにしたら、双子でも通りそうだ。

 二人目の綾波レイは、碇ユイに対してコンプレックスを持っていた。ユイの劣化クローンであること、自分は身代わりの人形だということ。何一つ“綾波レイ”として求めるものは、そこにはなかったのだ。

 彼女が求められたのは、サードインパクトのため。

 そして、ファーストチルドレンとして。

 碇ユイの代わりとして。

 早い話、綾波レイは彼女を憎んでいた。同属嫌悪ではない、自分が望むものを全て持っているユイが、この上なく妬ましかったのだ。

 仮初の命として生まれ、人に利用されて朽ちていく。

 そんな“綾波レイ”として生きていくうちに、もはや自分の願いなど、どうでもいい事になってしまった。ゲンドウの言うことを聞き、死んでも代わりはいると、諦めにも似た感情で淡々と過ごす。感情なんてものは余計だったのだ。喜怒哀楽が在るから心が痛み、苦しくなる。

 だから。

 そんな感情は、一人目の綾波レイが死んだ時点で置いてきた。

 そう、自分に言い聞かせるしかなかった。

 

 「そう、レイっていうの。――――――良い名前ね」



 何を言っているんだ、この女は。

 さっきまで死にそうな顔で銃を自分に向けていたのに、今は知らん顔で世間話をしている。性格がおかしいとレイ自身感じていたが、もしかしてオリジナルから引き継がれたものなのかもしれない、この性格の破綻は。

 しかもお互いに全裸で座り込んでいる。傍から見れば、さぞや滑稽に映ることだろう。

 サードインパクトの余波のせいか、未だに施設の完全回復はしていないようだった。綾波レイと碇ユイ以外の人間は、目を覚ましていないのかもしれない。



 「男の子だったら碇シンジ。女の子だったら碇レイ」

 「え?」

 「ゲンドウさんがね、そう言ってたの。あの人がどんな想いであなたに名前を付けたのか分からないけど、恨まないであげて」



 レイは彼女に今までの経緯を粗方話していた。自分がユイのクローンであること、使徒を全て倒した後、ゼーレと敵対したこと。そして、自分がリリスと同化して、サードインパクトを引き起こしたこと。

 今こうして生きていることは、レイにも不思議だった。

 あの時、確かに自分は碇シンジと共にインパクトを起こしたはずなのだ。だというのに、周りは元の姿を取り戻し、固体としての生を受けている。

 サードインパクトのプログラムとして機能した自分にさえ状況が読めないのは、どういうことかのか。

 そして何より。



 「どうして、私は人になっているの・・・・?」

 「・・・・」



 赤い目も、蒼がかかった銀髪もそのままである。しかし、綾波レイをバケモノとしていた<リリスの因子>が綺麗サッパリなくなっていた。

 プログラムの誤作動による変異か、それとも、神が彼女の願いを聞き届けたとでもいうのか。

 兎に角、綾波レイは純粋な人になった。混ざり物というコンプレックスから開放されたのだ。しかし、サードインパクトの後というのは皮肉のつもりなのだろうか。今更人になりましたと言ったところで、世界が彼女を危険視するのに変わりはないだろう。

 実際に目の前のユイは、さっきまで自分を殺そうとしていたのがいい証拠だ。

 死ぬことは恐くないけど、バケモノのまま死ぬのが嫌だった。

 でも、本当に最後の最後に。

 



 『そう、レイっていうの。――――――良い名前ね』





 神様はくじょうものは、哀れなバケモノの願いを聞いてくれたようだ。

 もう、思い残すことはなかった。

 苦しいのはもう嫌だ。

 寂しいのももう嫌だ。

 

 「お願いがあるの」

 「なに? 言ってごらんなさい?」



 聖母のような笑みで、ユイが返す。

 ああ、もし自分が彼女のようになれていたら、もっと早くに、“人”として生きることが出来たのだろうか。

 なんて羨ましい。

 なんて妬ましい。

 いっそ目の前の女性をズタズタに切り裂いてから死のうか、と頭を過ぎったけど、そんなことをしてはバケモノに逆戻りしてしまう。

 だから、潔く。

 無表情で、何も感じない。

 それこそが、綾波レイという少女であり、生き方だったから。



 「――――――私を、殺して」

 「嫌よ」



 ぽかん、と。

 自分で言っておいて、綾波レイは、鳩に豆鉄砲を喰らった表情を浮かべた。



 「どうして」
 
 「そんな泣きながら言われて、はいそうですかって言える人間がいると思う? さっきもそうだった。

  確かに一部始終を見ちゃったから貴女が恐かったけど、貴女は泣いていたわ。そんな女の子を殺そうなんて、正気では出来っこないでしょう?」



 それにね、とユイは微笑んで。



 「貴女は、私の娘だから」



 何を言っているんだろう、目の前の女は。

 綾波レイは碇ユイのクローンで、使徒との因子が混じったバケモノで。

 サードインパクトを引き起こした、張本人だというのに。



 「息子や娘がどんなに悪いことをしても、親は親なのよ? それにね、貴女はバケモノなんかじゃないわ」



 ユイのクローンだということが、彼女が嘘を付いていないことを確信させた。

 双子は見えない線で繋がっているとよく言われるが、レイとユイもまさに似たような状態であった。遺伝子レベルで酷似している二人には、第六感と呼ばれる感覚で、“なんとなく”分かってしまったのだ。

 綾波レイが苦しんでいること。

 綾波レイが悲しんでいること。

 いくら苦しいと想っても、いくら悲しいと想っても、今まで鉄仮面であった彼女の心を知る者はいなかった。

 感情を表に出さず、自分の運命を受け入れた人形の少女。

 皮肉にも。

 一番憎いと、妬ましいと思っていた女こそが、レイの、ただ一人の理解者だったのだ。



 「でもっ!! もう痛いのは嫌なの! 苦しいのも嫌なの!! 私には何もない。だったら死んでも構わない!!」

 「なら――――――」



 綾波レイの正面には、微笑む碇ユイの姿があった。

 憎いと思った。

 殺したいと願っていた。

 それなのに、目の前の女性は、死にたいと願った自分を叱るかのように、言うのだ。



 「死んでもいいような命なら、私に寄越しなさい。貴女がいらないっていうなら、私がもらうわ」

 「――――――。」

 「誰にも渡さないから安心なさい。戦自にも、国連にも、もちろん、NERVにも」

 「なん、で」

 「生きていれば、それだけで天国なのよ?」



 嘘だ。

 それは嘘だ。

 死んだ方がマシな現実があると、綾波レイは知っている。

 一人を残して死滅した紅い海。

 全てが憎いと、復讐を願ったかもしれない、ありえた碇シンジの末路。

 生きていることが辛い。

 だから毎年、それこそ途切れることない自殺者がいるのではないか。

 

 「天国は、楽しいことだけじゃないわ」



 極楽浄土。

 理想郷。

 苦しみのない、優しい場所。

 

 ――――――なんだ、そうだったったのか。



 そんなありえない場所こそが、ただの戯言だったのだ。



 「苦しくて、痛くて、死にたいと思って。それでも、私たちは生きてきたんでしょう? 貴女にとって天国とはどんな所なの?

  苦しいことがなくて、毎日が平穏で。でもね、そんな場所で、人が生きていけると思う? 楽しいことしかない場所で、きちんと人として成長できると思う?」



 怪我をして、痛みを知るから怪我をしないようにと用心する。

 人から傷つけられ、痛みを知ったから、人を傷つけないように優しくする。

 ならば、痛みや苦しみを知らない、忘れた人間は、どんな人間に成長するのだろうか。

 傷ついて、復讐を願うのは、優しさを知るからだ。
 
 そして、復讐の先には後悔しか残らないのも、きっと承知しているのだろう。

 それでも。

 優しかった時間と、人のために。

 人は、傷つけられた痛みを持って、その人間に、思い知らせてやるのだ。



 「死にたい? 甘ったれるんじゃないわよ。たかだか十数年生きただけでしょう? これからの時間に、苦しいことや、悲しいことがきっとある」



 天国は、楽しいことだけじゃない。

 地獄は、苦しいことだけじゃない。

 言うなれば、表と裏。

 この世は綺麗なだけじゃないのだ。

 犯罪が溢れて、人々は憎しみ合い、殺しあう。

 それでも。

 この世は、醜悪なだけじゃない。



 「それと同じくらい、楽しいことだって、きっとあるのよ? 苦しくて、楽しくて。そんなバランスの取れた日常だから、人は生きていけるんでしょう?

  貴女がもし死にたいっていうのなら。天国がどんな場所なのか、確かめてから死になさい」



 綾波レイは、バケモノのまま死にたくないと、ただそれだけを願った。

 自分は人間なのに。

 自分は普通の人なのに。

 相手が知らない・・・・それが許せなかった・・・・・・・・・

 そうなのだ。

 綾波レイが、自分を人間だと知らない人を許せなかったように。

 世界は苦しいと。

 世界には何もないと。

 天国を知らない、いや、現実から甘んじて逃げ出そうとする輩を、碇ユイも許せなかったのだ。

 

 「子供達には、明るい未来を知って欲しかった。苦しいことも汚いことも、全部を含めて、世界は、人の世界は美しいと、知って欲しかった」



 ユイがEVAの実験に身を捧げたのは、自分の力だけでは、その願いが適わないと分かっていたからだ。

 だからEVAに願いを託し、LCLへと融けていった。

 今思えば、どんなに自分勝手だったか。

 全ての人に幸せを知ってもらいたいと。

 天国はここにあるのだと知って欲しいがために。

 彼女は、身近の、愛してくれている夫を、不幸にしてしまった。



 「貴女が悪くても平気よ。私だって悪いこと、いっぱいしちゃったもの。でも、安心なさい。貴女の命は、私が護ってあげるから」

 「――――――天国、に。連れてってくれるの?」

 「そうよ。貴女の天国がどこにあるかは分からないけど、生きていれば、きっと見つかるはずだわ」



 うふふ、とユイが笑う。

 その笑みは一見して無邪気なそれであったけど、レイには、ユイが今までに汚いものも、十分に見てきたのだと直感できた。

 それでも、こんなに綺麗に笑えるのだ。

 そう考えると。

 こんな何もない世界も、悪くはない気がしてきた。



 「――――――うん。」



 だから、天国を探すために、もう少しだけ生きてみようと思った。

 それが自分を生かすための文句だったとしても、目の前の女性は信じられる気がするのだ。

 綾波レイは、バケモノのままでは死にたくないと願った。

 だから、碇レイは。

 碇ユイおかあさんと共に生き。

 



 「――――――私は、もう少しだけ、生きてみる」
 




 天国で、死んでみたいと願ったのだ。











 ■ 第十八幕 「終末への第一歩」に続く ■