神造世界_心像世界 第十六幕 「みたすもの、みたされるもの」













 NERVが対使徒防衛機関の役割を終えてから、今年で三年が経とうとしている。

 しかしながらNERVの存在意義は失われることなく、戦争抑止を含めての<調停者>として、国連直下の特務機関の肩書きは失われていない。

 武力による抑止は一見野蛮で、それ相応の効力を発揮する。どんな国だってオーバーテクノロジーを抱えるNERVと、面と向かって遣り合えばただではすまないだろうし、何より国連の狗といっても過言ではない従順度をNERVは見せているのだ。

 元より世界情勢の要である国連に逆らったところで得することは一つもない。

 せいぜい、これは幸いにと、各国から批難罵倒と叩かれるだけだろう。

 今やNERVは表向きにも公開組織せいぎのみかたとして成り立っているので、好き好んで敵対するものも少なくなってきていた。



 「碇、最近戦自が五月蝿くなってきたようだぞ」



 例外といえるのが戦略自衛隊、略称戦自である。

 件の襲撃の際に大部分を占める戦力として投入され、数多くのNERV職員を葬り去った過去を持つ。

 未だに殺された職員達(ある意味おかしい話なのだが)は、戦自に対して裁判沙汰で喧嘩を吹っかけているし――――――もちろんそれはあまり効果はないが、嫌がらせとしては抜群だろう――――――おかげで戦自のイメージは地に落ちた。

 お偉いさん――――――特に権力や地位に固執する人間は、その嫌がらせに過敏に反応したのだった。

 NERVへの攻撃は内閣総理大臣が認可した正当なものであったのだが、世間の目と耳はそうもいかない。妄執に取り付かれた老人達の口車に乗せられて、全人類の滅亡に加担したのだから。当然のように国民は元より、世界中の人間が激怒したのは言うまでもない。

 それ以降、戦自はこれ以上下がることはない、と言われたイメージを回復すべく、慈善事業に尽くしてきた訳なのだが。



 「承知している・・・・<目>からも報告があった」

 「碇・・・・今更だと思うのだが、あの男を置いておくのは危険なのではないか?」

 

 冬月は眉をひそめて苦言する。

 勿論、ゲンドウだってその懸念はしているつもりだ。しかし今の彼が裏切ることはない、と断言出来る理由がある。



 「なに、妻持ちの男はそう危険な真似はしないだろう。彼が知りたがっていた<真実>とやらも手に入れたようだしな」

 

 ふむ、と冬月は考える素振りを見せて、顎をさすった。



 「NERVに機密らしい機密はEVAくらいしかないからな・・・・しかも他組織に生体部分を一から作り出せるような技術もない、か」



 実品があっても理解できなければ宝の持ち腐れである。

 目の前にブラックホール発生装置があったとして、下手に弄って地球ごと消滅しては元も子もない。EVAとはそんな類のものだ。

 そして、MAGIやEVAは作成するのにそれこそ天文的な金額がかかる。

 一組織に作り出せるようなものではないし、作るにしても専用の技術者はNERVにしかいない。支部はとっくに解体されているので、事実上NERVが技術を独占しているのだ。

 それを快く思わない輩も存在するにはするのだが――――――今更NERVに勝負を仕掛けられるほど愚かな組織はないようであった。



 「しかしなぜ今頃動き出したのだ? 世間が望むのは復興であって、戦力の拡大は批難されるだけだぞ」

 「表立ってはそうだろうが、隠れ蓑にして少数で活動しているのだろう。恐らくはOOパーツ戦を少しでも有利に進めるために情報が欲しいのだろうが」

 「やつらも負け続きだしな」



 部隊は壊滅するわ、都市は二つも消滅するわで上層部はさぞ頭が痛いことだろう。

 使徒に続きOOパーツでも当て馬にされているのだ。しかし今回の敵はATフィールドを持っている訳でもなく、先日の戦闘で通常兵器に効果があるのも証明されている。

 NERVいまいましいヤツらの手を借りなくても撃退出来るかもしれない、またとないチャンスなのだ。



 「報告ではチルドレンの周囲を嗅ぎまわっているようだ・・・・」



 ゲンドウは訳がわからない、といった表情でつぶやく。



 「チルドレンの・・・・? 技術部に所属している惣流くんはわからんでもないが・・・・レイやシンジくんは有益な情報を持っているとは思えん」

 「・・・・」

 「待てよ。シンジくんは<第壱拾壱号事件>の生き残りだからな、それで興味を持たれたのか?」



 フロアで逃げ遅れた人間が全て惨殺された中で、シンジとアスカだけは偶然・・生き残れたのだ。何かがあったとみてもおかしくはないだろう。



 「いや・・・・偶然生き残れたのは二人だけではない・・・・・・・・・・・・・・・・・。居合わせた戦自の工作員も一人、重傷だが生き残った」

 「ああ、以前聞いたものだな」

 「直営の病院の患者リストから発覚したのだ・・・・二人いた一人は死亡したらしい」

 「確か、ムサシ・リー・ストラスバーグといったか」

 「それと」



 常に鉄仮面であるゲンドウがやけに苦々しい表情をするので、冬月は珍しいものだ、と思った。

 大体の場合、彼が態度を崩すのは妻であるユイの前だけだ。柄にもなく困った表情を浮かべるゲンドウは、老人の目には滑稽に映ったようだ。



 「――――――霧島マナが、その二人に通じているらしいのだ」

 「なるほど、な」



 ゲンドウが気にしていたのは、やはりユイのことなのだろう。

 霧島マナを結構気に入っていたので、スパイだと知ったらショックを受けるに違いない。ただでさえシンジの一件で打たれ弱くなっているユイに、この話は精神上よろしくないのは目に見えている。

 しかし、副指令という立場にある碇ユイの耳に情報が入るのは時間の問題だ。

 二人して隠し通したとして――――――いずれはバレるときも来る。そのときに隠していたと知られれば彼らの立場はない。



 「・・・・むぅ」

 「うむむ」



 これは厄介な問題だと、ゲンドウと冬月は顔を見合わせた。

 スパイがどうとかいう以前に、NERVのトップは一人の女性の機嫌をどう取るかで困り果てるのだった。




















 「はい。碇シンジがなんらかの力を使ったのは明白です。でなければ生き残れるはずもありません」



 今時、公衆電話を使う若者は殆んどいない。
 
 テレホンカードさえ過去の遺物となった現在、好き好んで10円硬貨を財布から取り出す物好きがいないのも頷けるというものだ。

 だというのに、ムサシ・リー・ストラスバーグは包帯だらけの身体を引きずってまで公衆電話の受話器に話しかけている。

 病院内を行き来する者の、好奇の視線にさらされながらも、彼が気にする様子はない。かえって堂々としているその態度がカモフラージュになっているのだろうか。



 『ならば君がこうして生きているのも、その“なんらかの力”のおかげなのかね?』



 電話口から聞こえてくる声はムサシの精神を逆なでさせる。

 だからといってメンチを切る訳にもいかない。なにせ相手は家族でもない、自分達の生殺与奪権を握る、敬うべき豚なのだ。

 表面上はヘコヘコとゴマをすって、きっといつかは背中から刺してやろう。



 「いえ・・・・自分の場合は・・・・浅利ケイタに庇われて助かっただけですので」





 ――――――、ズキリ。





 『おおう、そうだったね。いや、実に残念だった。しかし君も幸運だったねえ、あの中で生き残れるなんて』

 「はい」

 『ふむ。それでサードチルドレンの“なんらかの力”とは一体どんなものなのだ?』

 「詳細は分かりかねますが、OOパーツ相手にかすり傷程度で生き残れる、とだけ言っておきます」



 実際のところ、ムサシは“なんらかの力”を垣間見た訳でもない。

 阿鼻叫喚で逃げ纏う人ごみでは、監視対象であった二人からも引き離されていたのだ。

 だが。

 実際にセカンド、サードチルドレン共に生き残っている状況からして、“なんらかの力”が働いたとする考えは一概に否定できない。

 チルドレンは、世間には軽い訓練を積んだだけの――――――勿論命がけの戦場に繰り出していたのだが―――――― 一般人と変わりはない少年少女だと発表されている。

 戦自も独自に調べた結果、夢物語シンクロシステムについても間違いはない、と一応は納得したのだった。



 『ククク・・・・OOパーツ相手に生身で奮闘出来る力か。使えるなあ、これはぁ』



 一体こいつが何に使おうが知ったこっちゃないのだが、この身にまで火の粉が舞ってきては論外だ。注意深く言葉を選びながら、ムサシは口を開く。



 「どうされる、おつもりですか」

 『君に知る必要はない、と普通の上官なら言うのだろうが。別に大したことではない。OOパーツ戦における、我が戦略自衛隊の有意性を世間に知らせるためだ』



 おまえの地位のためだろう、とは思っていても口には出さない。

 これでいい。

 ここまでは順調だ・・・・・・・・

 ムサシは毛嫌いする声を聞いていながら、醜悪に口の端を吊り上げた。




















 ――――――ドクン。




















 「――――――クス」



 自らの掌を握ったり開いたりしながら、碇シンジは嬉しそうに微笑んだ。

 傍から見ればアブナイ人確定なのだが、ここ数週間で彼が普通の人間ではないのは周囲に知れ渡っているので、気にする者もこの場にはいない。

 高校からの帰り道、シンジ、アスカ、マナの三人は方向が同じなので一緒になることが多い。三人が三人、これといって部活にも属していないので、自動的に帰宅部になっていた。

 

 「アスカ」



 駅前と住宅街の分かれ道に差し掛かったとき、不意にシンジが呼び止める。「どうしたのよ?」二人もつられて足を止めた。



 「二人で先に帰っててくれない?」

 「? いきなりどうしたのよ?」

 「いいから、先に帰っててよ」



 問答無用で先を急かすシンジに、アスカは不満げに口を尖らせた。

 彼女にとって、マナと別れてからの二人っきりで歩く帰り道はこの上なく甘美なものなのだ。それなのに肝心のシンジがいなければ意味もない。

 アスカは待っていると言うのに対し、シンジは頑なに意見を曲げない。徐々に口調が荒くなっていく様子に、マナはアワアワと目を回しだす始末である。



 「待ってるだけよ! 邪魔にはならないでしょう!」

 「だからさあ・・・・」



 やれやれ、とため息を吐く。



 「先に帰っていてくれませんか、惣流さん・・・・?」

 「――――――ひ」



 絶対零度、いや、温度の感覚すら感じさせないシンジの黒曜の瞳に見据えられた彼女達は小さく悲鳴を上げた。

 感情がない、という度合いではない。

 彼女達を認識しているのかさえ怪しいだろう。それだけシンジの目は暗く淀んでいたのだ。



 「――――――」

 「あ、ご、ごめんなさい。あ、アタシ」



 シンジは人形の様にアスカを見据えたままだ。

 睨み付ける訳でもない。

 それがかえって不気味で、恐ろしい。

 一向に言葉を発しないシンジを前に、突然胸を押さえたアスカはついに泣き出してしまう。マナからは、彼女の胸に何かが翳ったように見えたのは気のせいなのだろうか。

 

 「ゴメ・・・・ひっく、うえ・・・・ぐす・・・・ごめ、なさい・・・・ごめんなさい。嫌わないで、嫌わないで」



 幼子の様に泣きじゃくるアスカの姿は、普段の彼女を知る者には想像もできないはずだ。

 するとどうだろうか。

 今まで眉一つ動かさなかったシンジがアスカと同じように胸を抑える。何かを我慢するような、そんな悲痛な表情である。

 すでに事態についていけないマナは一言も発せずに見守るだけ。



 「――――――どうでも、いいはずなんだけどなあ」



 はあ、と今日一番の、盛大なため息を吐く。

 そしてシンジは苦笑しつつ、えぐえぐと泣くアスカの頭に、ぽす、と手をのせた。



 「――――――うぇ?」



 驚いたアスカは目を瞬かせる。



 「ごめんね、僕も強く言い過ぎた。大丈夫、怒ってないから」

 「でも、アタシが」

 「悪いと思っているのなら、もう構わない。ほら、顔拭いて」



 シンジは制服のポケットからハンカチを取り出すと、強くなりすぎないように涙を拭っていく。アスカもされるがままにしている。

 先程まで暗くなっていた雰囲気は一気に払拭されたようだ。マナはホッと胸を下ろした。



 「もう大丈夫だろ?」

 「えへへ。うん」

 

 懸命に笑顔を作るアスカにまたまた苦笑しつつ、隣に寄ってきたマナにも「ごめんね」とシンジは謝った。「ううん、よくわからないけど仲直りしたのなら」マナは、あはは、と笑う。

 

 「じゃあ、アスカ。先に帰っていてくれるかい?」

 「ええ、分かったわ」


 
 すっかり調子を取り戻したようだ。満足げにシンジはハンカチをポケットに戻し、踵を返す。

 そのまま離れていく背中を見つめていたアスカは「シンジ!」と声を上げた。

 こちらに振り返るシンジに、彼女の両手を胸の前で軽く握り締めたその姿は――――――。



 「シンジに何もないんだったら、アタシの全てで満たしてあげるんだから!」



 ――――――どこか祈りの姿に似ていて。



 目を見開いて驚くシンジの表情が。

 霧島マナには、ヤケに印象に残ったのだった。





















 女性組みと別れたシンジは、街中を縫うようにして路地へと進んでいく。普段はあまり足を踏み入れない、殺伐とした路地裏である。

 霧島マナが不良らしき集団に追い詰められていたのもこんな場所であった。

 シンジはそのときの記憶を思い出し、自分は路地裏に縁でもあるのか、と苦笑した。

 辺りに人気はない。

 時折聞こえてくる騒音は遠くで工事でもしているのだろうか。

 淡々と歩を進め、しかしシンジは煮え切らない表情を浮かべては無表情になる、なんてパターンを繰り返していた。

 

 『シンジに何もないんだったら、アタシの全てで満たしてあげるんだから!』



 彼女と行動を共にしているのに理由はない。

 ただ以前と違って、化生の皮を被らない生き方に興味を引かれただけだ。自分も変わったことを自覚しているのだが、それ以上に彼女も変わっていたのだろうか。

 昔から“自分を見て欲しい”願望を持っていたはずなのに、それが今ではシンジ一人に向けられているのは、当人としては首を傾げるしかない。今思えば、NERVでの初顔合わせから様子が変であった気がする。いきなり怒鳴り散らすかと思えば、まるで後ろめたい隠し事があるみたいに大人しかったのだ。

 罵倒の一つや二つないのが、彼女らしくないといえば彼女らしくない。

 でも、と。

 周りが碇シンジを理解できていないのと同じように、自分も惣流・アスカ・ラングレーを理解できていないのではないか、とも思える。

 リンクして以来、異常なほどの信頼を寄せてきているアスカは、もはや己が切り捨てられるまでシンジに従い続けるのだろう。それを彼女が望むなら構わないのだが、どうにも納得できないものもある。

 シンジは、人生には値が付けられないほどの価値があると考えている。

 裕福であったり貧乏であったり、幸せだったり不幸であったりと様々な場合があるのだろう。その一つ一つは決して無駄ではなく、代えが聞かない“その人間だけの人生”である。

 勿論、シンジが今、この瞬間を生きている人生も素晴らしいものであると胸を張って言える。例え壊れていても、他人から見ればおかしなものだとしても。

 故に価値観を高めるために“娯楽”を求めるのだ。

 不幸であっても、人生全てが不幸であるとは限らない。産まれた瞬間に殺されれば別だろうが、それでは“生きた”とは言えないだろう。

 振り返ってこその“人生”であり、シンジが求めるのは喜びの思い出である。

 なのにアスカは自分の人生はシンジのためにある、などと取られる台詞を吐いた。

 

 『シンジに何もないんだったら、アタシの全てで満たしてあげるんだから!』



 どうして、彼女はあんなことを言ったのだろうか。

 人は所詮一人で生きていくものだ。

 他人を求めるのは生きていく上で必要なもの、本能からくる欲求だ。子孫を残す、心の孤独感を癒す。

 たった一人だけで生きていくのは容易ではない。

 だから人を愛し、二人で歩を進めていく。

 それでも。

 永遠を誓い合った仲だというのに、騙しあい、憎みあいもする。
 
 誰だって考える。

 あの人は本当に自分を信頼してくれているのだろうか。

 あの人は本当に自分を愛してくれているのだろうか。

 自分は。

 自分は本当にあの人を信頼し、愛しているのだろうか。

 世の中はわからないことだらけなのだ。

 昔のシンジは孤独に怯えて、ただ肌の温もりが欲しいと願った。

 裏切られたって構わない。

 表面だけの抱擁だけだって構わない。

 今、一瞬の孤独感から逃れられるのなら。



 『シンジに何もないんだったら、アタシの全てで満たしてあげるんだから!』



 彼女は一体、何を望んでいるのだろうか。

 恐らく本気で愛していないなんて分かっているはずだ。それでいて、なぜ、あんな、自分の人生を棒に振るような台詞を笑顔で言えるのだろうか。

 



 ――――――それは、とても気持ちの良いコト。





 シンジは、一つになる行為を拒んだ。

 いくら無様でも。
 
 この上なく情けなくても、“バカシンジ”は精一杯生きてきたと思えたから。

 確かに憎いと思った。

 勝手にEVAに乗せられたこと。

 勝手に家族ごっこをさせられたこと。

 勝手に幻想を被せされたこと。

 勝手に、利用されたこと。

 それでも。

 その人には人生があって、自分のために生きていかなければならないのだ。

 騙しあって利用しあって。

 それでも笑って。

 心から楽しいと思えた一瞬を覚えているから。

 心で融け合わなくても。

 心が離れていても。

 十分、一つなんだなあって思える瞬間があるのだ。

 今のシンジは破れた風船である。例え楽しいことや嬉しいことがあっても、その感動はすぐに失われてしまう。自然と淡白になり、物事を冷めた視線で見るようになってしまった。

 その原因は、人の業。

 ドロドロしていて、この上なく汚らわしいそれを見ても。

 ただ、醜悪うつくしかった。



 「――――――きっと、後悔する」



 アスカが望むものは、この身には欠片だって残っていない。

 

 「でも、」



 なんとなく、分かったのだ。

 彼女が望んだものは、仮初であっても、偽りであっても構わないのだと。



 「それでも、最後まで生きるしかないんだ」



 人生に楽しみを。

 この茶番劇に盛り上がりを。

 誰も皆、流されていく。

 世界という、大きな命の流れに。



















 もう何度目かわからない曲がり角を曲がる。



 (・・・・加持さんはアスカあっちに付いたか)



 気配を辿ってみても、加持のものはなくなっている。

 本来その手のプロでもないシンジに“気配”なんてものは読めるはずはない。しかし、ここにきてようやく世界も綻び始めてきた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 所詮、シンジは軍人を真似ただけの似非に過ぎない。

 それでいてこの状況では誰よりも場慣れしているのは、似非である彼であった。

 曲がり角で、足のギアを入れてNERVの監視を引き離す。いきなりの加速と狭い路地裏に手間取ったのか、二人いた監視を巻くことに成功した。普段ならこうもいかなかっただろう。だが、今日の碇シンジは一味も二味も普通ではない。

 だからこそ、単騎でノコノコと人気のない場所にやって来たのだ。

 そのまま全力で突っ走り、僅かに開けたアパートの裏に出る。寂れたそこには誰も住んではおらず、ただ朽ちていくのを待つのみだ。

 無言でその場に留まると、拳銃を片手に男達が湧き出てきた。

 手に持つそれには消音筒サイレンサーが取り付けられている。準備は万端、という訳だ。 



 ――――――バスッ



 ペットボトルに穴を開けたような、間の抜けた音がした。次いでシンジ後方の金具が甲高い音を立てる。威嚇射撃をされたらしい。

 逃げるな、ということか。

 それともここで死ね、という宣告なのか。

 襲撃者はいちいち「我々に付いてきてもらおうか」などとは言わない。言ったところで対象が素直に頷く訳もないだろう。

 もはや交わす言葉はいらない。

 連れ去るつもりなら痛みつけた上で、問答無用で車に押し込められる。



 「――――――戦略自衛隊のお兄さん方、僕に何か用ですか?」

 「――――――。」



 じりじりと、照準はシンジに向けたまま、三人の男が迫ってきた。

 すぐに発砲しないところをみると、どうやら殺すつもりはないらしい。あくまで、抵抗しなければ、の話ではあるが。

 しかし“連れ去るつもり”だとしたらシンジにも勝機はあった。抵抗したら殺してもいいとは言われているのだろうが、あくまで彼らは“シンジの捕獲”を第一に考えている訳だ。

 プロだとはいえ、そこに僅かな油断、いや、躊躇が生まれる。

 

 「シッ!!」



 タイミングを見計らって、シンジは手短にあったゴミバケツを蹴り上げた。「なっ!?」無抵抗だと思われた対象の行動に、一瞬引き金を引くのが遅れた。バスン、という音がしたときには、そこにシンジの姿はない。

 ぶちまけられるゴミ。

 生理的な嫌悪感から三人はバラバラにそれを避けた。そして地面に転がったそれから、いっきに湧き出てきたゴキブリに一人が悲鳴を上げた。

 誰だって気持ち悪いものは気持ち悪い。

 いくら軍人とはいえ、さすがにゴキブリに対する免疫訓練は受けてはいないようだ。

 その中でも際だってゴキブリが苦手なのか、一人の男の視線からシンジが外れ、這い回るそれに釘付けになった。

 その隙にシンジはたった数歩で背後に回りこむ。

 すでにそこらにいる青年の動きではない。明らかに異常だ。

 残った二人は発砲することができない。仲間の射線上にシンジが回ったためだ。彼らに仲間ごと打ちぬく非道さがあれば話は別だが、今回の彼らはそういった特殊部隊に属していた訳でもない。

 撃ったとしても、携帯性を重視した小口径に人体を打ち抜いて、シンジに致命傷を負わせる威力は期待できない。

 その間僅か五秒。

 気配に気づいて振り返ろうとする男の脊髄を、シンジは鉄芯入りのつま先で、



 「――――――火事場の馬鹿力イグニション



 蹴り抜いた。


















 加持は問題なく赤木邸に入っていくアスカを見送りながら、納得いかないように眉をひそめた。

 接触してくるとしたらアスカだと思っていたのに、彼女には声もかけられることがなかった。一体どういうことなのか。

 利用価値があるのは間違いなくアスカの方なのだ。

 言っては悪いが、シンジが敵の手に落ちたとして、NERVが被る損害は大して酷くはない。サードチルドレンという肩書きは確かに存在するが、そのEVAさえ今では動かせないのだ。

 しかしアスカに接触がなかったとすれば、消去法でシンジに回ったことになる。

 彼女から避けるように郊外への道を行ったシンジも不自然だ。もしかしたら他組織に繋がりがあるのだろうか。

 兎に角、シンジに会ってみないことには始まらない。

 加持は元来た道を戻り始めた。


















 ボキリ、と嫌な音がしたかと思えば、先程まで目の前に居た仲間の一人がこちらに吹き飛んできた。

 訳がわからない。

 サードは民間人と大して変わりはないはずではなかったのか。

 男達が受け持った指令はサードチルドレン、碇シンジの拉致である。NERVの監視さえどうにかすれば、難しくはないと考えられていたのに。

 いざそのときになってみれば、サードは化け物じみた動きを見せ付ける。

 冗談じゃない。

 しかし勝てない相手だとは思えなかった。

 こうやって射線上に隠れたり、注意を逸らしたりするのは銃を撃たせないためだ。つまり、相手は銃弾を喰らえば死ぬことに変わりない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、ということだ。

 男は吹き飛んでくる仲間の身体に押し潰されないように回避行動をとりながら、蹴り上げたであろうサードを探す。

 真横を弾丸の如く仲間が通り過ぎていった。背骨を蹴り砕かれたとすれば、生存の可能性は低い。舌打ちしながら目を凝らした。



 「え?」



 すでに目の前に迫っているサードの顔を呆然と見つめ、男の目の前は真っ暗になった。


















 男を蹴り抜いたシンジは、そのまま力の限り、前を吹き飛んでいく体の真後ろに向かって跳んだ。

 ほんの数コンマ遅れて走り抜けていくシンジの姿は、前方からは死角になって見えてはいない。

 相手は銃を持つ複数人なのだ。

 どうやって相手の気を散らすか、それと銃を使おうと思わせないかが勝利の鍵なのである。

 案の定、予想外の展開に一人の男に空白が生まれた。ちょうど目の前にいるから皮肉といえば皮肉なのだが。

 突進力をそのままに、思い切り掌底で顎の骨を打ち抜く。拳だとこちらまで壊れかねない。いくら威力が上がってるとはいえ、人体の構造そのものが変わった訳ではないのだ。撃たれれば死ぬし、怪我をすれば痛い。

 打ち抜かれた男の顎から陥没し、首の骨が音を立てて外れた・・・

 そのまま二人目が屍と化し倒れこむ。

 残された最後の一人は顔が真っ青だ。それも当然、簡単に拉致出来ると思っていたサードチルドレンが抵抗した上に、すでに仲間の二人が倒されたのだ。彼が仲間の生死を確かめる暇もない。

 

 「キエアッ!!!」



 突然の大声。しかし男が上げたものではなかった。

 何を考えたのか、シンジは意味もなく奇声を上げる。「ひっ」異常だ異常だ。意図してではない、体が絶叫に反応して銃の引き金を引く。

 バスンッ

 撃たれると分かっていたシンジは、余裕で銃口の先から身を捻る。

 奇声を上げたのは引き金を引かせるためだ。銃弾を避けるなんて達人技ができるはずもないシンジは、銃口の向きと、撃たれるタイミングを合わせて回避するしかない。

 しかし、実戦で敵が「今から撃ちますよー。いち、にの、さん」などと言ってくれるはずもない。銃口の向きはなんとか分かる。問題は引き金を引くタイミングがわからない、ということであった。

 だからあえてシンジは引き金を引かせてみせた。

 極度の緊張状態にあった身体は少しの衝撃で反射的に筋肉が収縮する。故に引き金に手をかけてしまい、まんまと撃たされてしまった訳である。

 この作戦はタイミングが命なのだ。奇声を上げると同時に身体をずらし、初弾をやり過ごす。そして生まれるのは一発分の空白。



 「――――――!?」



 自然と体が反応したことに驚いて、男の頭はほんの数瞬真っ白になってしまった。

 迫ってくる。

 迫ってくる。

 何が?

 決まっている。
 
 サードチルドレンバケモノが、だ。



 「う

   あ

     あ

       あ

         あ

           あああああああああああああああああああああああああアアアアアッ!!!」



 右方向から迫るサードに銃口を向けようとして、



 ――――――ペタン



 なんて、気の抜ける音が聞こえてきた。

 サイレンサーを装着した銃口の、その長さが問題であった。すでにシンジは懐まで潜り込んでおり、右から振り返ったことで、その返しがシンジの頬を叩いたのだ。長い消音筒が裏目に出たのだった。

 ニヤリ、と口の端を吊り上げたシンジは力任せに男を突き飛ばす。柔道の心得があったなら背負い投げの一本や二本お見舞いしていたところなのだが、生憎シンジにそのスキルはない。

 突き飛ばされながらも、男は苦し紛れに銃を乱射した。だが空に打ち上げられるばかりで、シンジの身を貫くことはなかった。

 

 「ぐはっ」



 背中から強打したせいで息が一瞬止まる。次の瞬間、視界には、逆さY字をした物体が、文字通り目に入っていた・・・・・・・・・・・



 「ひ、ひぎぃああぁああああやああああぁあっ!?」



 両目を潰された男は絶叫した。

 銃を投げ捨て、ドロリと何かを垂れ流す、両目があった場所を必死に押さえつける。しかし止らない。男に二度と光が戻ることはなく――――――。



 バスンッ



 頭を打ちぬかれた最後の一人は絶命したのだった。




















 カラン、とサイレンサー付きの銃を投げ捨てたシンジは息をついた。

 はっきり言って、ギリギリだった。あと一人仲間がいたのなら構わず逃げ出していたし、運が悪ければ最初の一撃で死んでいたかもしれない。

 それでも、シンジは生き残った。

 右手に残る男の眼球を潰した感触が不快に思えてきて、彼は舌打ちする。

 結局、三人とも殺してしまった。

 人間の人生を尊いものだと考えるシンジは、自分の人生を脅かすものに容赦をするつもりはない。故に全力で排除するのは当然の行動といえる。

 死ぬかもしれないものであったのだが、決して必ず死ぬ、とは断言できないから勝負に出たのだ。

 世界が綻び始めて、彼にも、いや、彼らにも通常では考えられない動きが可能になってきた。<第壱拾壱号事件>から予兆はあったものの、最近になってようやく実感出来るようになった。

 それが示すのは舞台の最高潮グランドフィナーレであり、茶番劇の終焉なのだ。

 それは兎に角。

 この瞬間、碇シンジは生きるか死ぬかの状況を切り抜けていた。

 

 「ははっ」


 
 なんて清清しい。

 感情を垂れ流すようになってからでは一番の興奮ではないのだろうか。

 殺し合いに性的興奮を持つ異常者もいるとは聞いていたのだが、今はそいつらの気持ちがよく分かるとシンジは思った。



 「はははははははははははははっ」



 素晴らしい。

 娯楽を求める彼にとって、今回の命のやり取りはまさに刺激的なものであった。

 しかしながら彼は殺しを求める殺人狂などではない。必要があれば殺しはするにしろ、自分の欲求を満たすために殺しをするほど常識がない訳でもない。

 人間社会を生きる上での常識は守っているつもりなのだ、彼でも一応。



 「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははっ」



 だから今は、この甘美な興奮に身を任せたい。

 そうそう味わえるものではないのだから。




















 「――――――シンジ? 何がそんなに嬉しいの?」



 胸に流れてくるのは歓喜。

 滅多に揺れ動かないシンジの内面を感じて、アスカはふと口に出した。



 「ま、シンジが喜んでるなら、なんでもいいか」



 例え彼が人を殺して楽しんだとしても、アスカなら嬉しそうに一緒に喜ぶのだろう。

 

 「こんな下らない世界、せめてシンジのために役立って欲しいものね」



 クスリ、と彼女は妖艶にワラッたのだった。












 ■ 第十七幕 「深層世界。」に続く ■