神造世界_心像世界 第九幕 「 死鬼 -シキ- 」












 「――――――え?」


 そう呟いたのは、一体誰か。

 辺りはシン、と静まって皆は赤く汚れた床の一箇所を凝視した。

 バケツの水を溢したかの様に赤いペンキがブチ撒かれている。その中にグチャグチャに潰れた何かが固体を僅かに保っていた。

 混ざっている繊維状の細い糸は、ついさっきまで目の前に立っていたカップルのものだったとは誰も理解できない。いや、したくはなかった。

 




 フシュー、フシュー、と生暖かい息に乗って荒い音が聞こえてくる。よく見ると“それ”――――――禍々しい鬼はゆっくりとだが、確実に呼吸をしていた。

 十人中十人が鬼と答えるその異形は、振り落とした腕を真っ赤に染めながら立っている。

 太い幹のような腕は人二人を軽く潰し、その下のコンクリートまで叩き割っていた。

 飛び散った肉片を浴びた女性は自分の頬についたそれを取って、肉片が魚の内臓に似ているわ、なんて数秒遅れて思ったりした。

 






































 「うわぁあああああああああっ!!」


 最初に叫び声を上げた者はかなり度胸のある人間だろう。叫び声によって止まっていた刻が再び動き出し、それに続いて至る所で悲鳴が上がった。

 嘔吐する者。

 その場に倒れ込む者。

 我先にと逃げ出す者。

 逃げ遅れた老人はその場で倒され、滅茶苦茶に踏まれて意識を失った。だがそれに構う者は誰一人いなかった。皆パニックを起こしてそれどころではない。

 するとどう思ったのか、微動だにしなかった鬼は前かがみになると「グォオオオオ・・・・」と低く唸った。それに続きビキビキと二本の足が音を立てて膨れ上がる。

 蚯蚓ミミズ腫れの様に神経が膨れ上がったそれは嫌悪感しか産み出さない。

 バゴンッ、と何か割れる音が響く。

 瞬間、鬼の姿がかき消えた。

 今まで立っていた場所はコンクリが足の形にひび割れている。凄まじい圧力がかかった証拠であった。

 そして目の前に現れる巨体。170cmしかない人間では正面から見ると腹の位置しか見えない。

 鬼が目の前に現れた事を気づく暇も無く、横なぎに振るわれた腕を喰らって数人が吹き飛ぶ。上半身が飛んでいき、残された下半身からブシュ、と濁った音と共に血が溢れ出す。

 一体何の冗談だ、これは。

 そこに居た誰もが思う。

 休日の家族サービスで付き添っていたお父さんは白目を向いた娘を抱き上げながら、気絶しそうになる自分を叱咤した。ここで気絶したら確実に死ぬ。あれはなんだ? 鬼なんて生易しいものではない。あれは“死”だ。死が具現化したらきっとあんな姿になるのだろう。

 絵本に出てくる様な、金棒を担いだ虎柄パンツの鬼さんではない。

 一睨みされただけで失神しそうな濁った目、ギザギザに尖った牙。鉄のような灰色の皮膚に2m以上はあるであろうその巨体。

 それが動くたびに人間はボロ雑巾のように吹き飛んでいた。

 辺りは真っ赤でスパゲティみたいな腸が散乱している。スプラッタ映画を見た事が無い人間でもそれが何であるかは予想がつくだろう。

 嘔吐しながらも人々は懸命に“死”から逃げようとする。

 ゴウン、と音がするたびに鬼はありえない距離を一気に詰め、腕を振るった。そこに躊躇は無い。運悪く鬼の正面に居た人間は一人残らず肉塊と化して沈黙した。痛みがないのはせめてもの救いか、恐怖に歪んだ表情で事切れるそれを目にし、余計にパニックを誘発させる。

 
 「う、うおおおああああああああ!!」


 一人の男が近くにあったハサミを片手に鬼の背後から襲い掛かった。

 顔は恐怖に引きつらせながらも、涙と汗と涎でグチャグチャにしながらも、男は“死の象徴”である鬼へとハサミを突き立てた。

 















 殺された妻の仇!!

 チカチカと目が痛い。気持ちが悪い。股間が生暖かくなっている。なんて無様。だがなんだ、あれはなんだ。妻は、ヨウコは死んだ。あれに殺されたッ!!

 訳もなく男の脳裏に思い出されるのは惨殺された妻との思い出。

 大学のキャンパスで談笑して。

 結婚式で嬉しそうに笑う彼女が嬉しくてッ!

 子供は何人欲しいとか将来はどんな職業に就くのかとあれこれふざけながら笑いあったッ!!


 「ォアアアらああああああああああAAAAAAAッっ!!!!!!!」


 もはや喉からは意味のない言葉しか出てこない。

 自分は何しているのだろう。ハサミを付き立て、ふとそんな事を思う。

 くるくるくる。

 チカチカチカ。

 ヨウコと出会った。

 ヨウコと笑いあった。

 ヨウコと共に泣いた。

 

 ――――――ああ、これは・・・・・。



 走馬灯、ってやつなんだろうなあ。

 理解するより早く、男はタンパク質の塊と化した。
















 「なんなのよ・・・・これ」


 目の前の惨状が到底理解できない、その声は震えていた。

 バラバラになった手足、散乱する臓物。

 血の絨毯と化したそこには、休日のデパートとは到底思えない殺戮場が出来上がっている。

 アスカはこみ上げられるものを我慢できず、その場で嘔吐した。

 鼻につく酸っぱい匂い。だがそれが血臭を和らげるのは皮肉であった。

 いくらLCLで血の匂いを嗅ぎなれてるとは言え、本物はLCLの比ではない。何よりネットリトシタ液体の様は最悪だった。。

 

 「NERVに連絡」

 「え?」

 「NERVに連絡。あれはOOパーツでしょ、きっと」



 アスカはシンジの視線を追った。そこに居るのは禍々しいまでの“死”のカタチ。

 ドイツ育ちの彼女にはあまり見覚えのないものであったが、それがありえないモノOOパーツである事は言われなくても分かってしまった。

 まだムカつく喉元を無視し、アスカは懐からNERVの携帯を取り出す。

 そして一つの動作でNERVへと電話を繋げた。




 



 アスカが隣でNERVとやり取りをしている最中、シンジは数十m先にいる鬼を見つめていた。

 アレがその気になれば此処まで一息で来られるだろう。そうなったら逃げる術はない。

 だと言うのに、彼は踵を返して逃げるのでもなく、ただ無表情に殺戮を続ける鬼を見据えている。

 

 (・・・・身体の色が変色している)



 灰色であったそれはすでに漆黒へと色を変えていた。まるで死んだ者の血を吸ったのかの様だ。

 胃がムカつく。こちらさえ見ていないのに死んだ様な気がしてならない。もし殺気をぶつけられたら気絶してもおかしくはないだろう。

 先程鬼に向かっていった男には本当に賞賛する。もはや正気を失っていたのだろうが、あれは見事だった。拍手を送りたいくらいだ。

 先程も言ったように恐らくアレはOOパーツ。全長からして規格内。あれで規格内だと言うのだからため息もつきたくなる。

 グチャ、という音が耳に入る。粘着質なそれは聞くだけで吐き気を催す。また数人が肉片と化した。

 全速力で逃げるものの、あっちへ着たりこっちへ着たりしている鬼は狩をしている様に、軽快な動作で死体を量産し続けていく。

 綾波じゃないけど肉は当分食べられそうにないなあ、とシンジは思った。



 「っく。到着まで十分はかかるみたい」

 「十分・・・・それまで生き残れるのか微妙だな」



 しかし保安部が重武装で来たところで状況は大して変わるまい。

 巨体に反して驚異的な瞬発力、そして桁違いの馬鹿力。金棒を振り回すまでもなく、その爪で切り裂き、叩き潰している。

 あの身体に銃弾が効くとも思えなかった。それに屋内という悪条件。



 「デパートごと吹き飛ばすしかないかもね、これは」



 それでも殲滅できるかどうか。N2なら別だろうが、それは近辺の民家も吹き飛ばす事を意味する。住宅街の近くに作られたのが裏目に出たようだ。


 
 「逃げようにしても・・・・」



 シンジは辺りを見回した。階段へと続く通路はパニックになって使えそうにもない。エレベーターなど論外である。事実上孤立してしまった。

 隣にいるアスカもそれは分かっているらしく、逃げようとは言わなかった。

 唇を紫にして震えていながらも、彼女は正気を保っている。伊達に今まで使徒と戦ってきた訳ではないのだ。だが今はEVAに乗っていない。ATフィールドも張れなければ装甲に覆われている訳でもなかった。アスカの肉体など、鬼のデコピン一つで形をなくすだろう。



 「・・・・! シンジ」



 そっと、アスカの手は暖かいものに包まれた。

 シンジの手を握り返しながらアスカは逃げる術を模索する。このままでは死ぬ。死ぬのは嫌だ。こんなワケモワカラナイ怪物に殺されるくらいなら自殺した方がマシだ。原型を留めない死体なんて考えたくもない。

 どうする。

 どうすれば生き残れる!?

 大学を出た頭をフルに使っても、導き出される結果はバラバラ死体。

 アスカは不甲斐なさに泣きそうになった。



 「チッ」

 「な、シンジ!?」



 急に抱きつかれた、と認識した途端にアスカは浮遊感を感じた。そのままゴロゴロと転がる。だが痛みは感じなかった。

 起き上がった見た惨状は、今まで自分達が居た場所が吹き飛んでいるということ。隣に居た主婦と青年は混ざり合って変なミンチになっていた。

 









































 ――――――赤い。



 「あ、ああ」



 ――――――赤い。



 「・・・・あ」


 ――――――紅い。



 それはまるで、あの紅い浜辺の様で。

 ガツン、という衝撃。脳みそが沸騰して何がナンダカ分からない。

 数秒でミンチが出来上がるなんてどういう事だ。

 今まで隣に居た主婦はどうした。

 震えていた青年はどうした。

 大丈夫です、きっと大丈夫ですと言って励ましてあげた二人は何処に行った?

 三分クッキングじゃあるまいし、そのミンチはなんなんだ?

 原材料:ニンゲン。無添加。


 
 「あ」



 程よい具合に混ざり合って、髪の毛が血に混じってテラテラとしている。



 「あ」



 さっきまで話していたヒトは、人は、人間は。

 その声帯ごと押しつぶされて物言わない。

 果たしてそれは、死体と言えるのだろうか。

 その、肉塊を。



 「ああ、あああああああ・・・・!」



 数十年と生きてきたそれを、数十年分の歴史を生きてきたそれを!

 この主婦にも家族は居たはずだ。

 青年にも未来はあったはずだ。

 それを、それを。

 この馬鹿みたいな筋肉野郎がッ!!

 全てを奪ったッ!!



 「あああアアアアアアあぁああぁあっぁああああ!!!!???」
















































 コロシテヤル。






































 ユラリ、とアスカは立ち上がった。覇気のないそれとは正反対に目は見開かれて爛々と鈍い光を放つ。

 何か叫んでいる。

 だけど何も聞こえなかった。ただ、自分の口が開かれて声帯が行使されているのだけは何となく分かった。

 隣にはシンジが倒れていた。腕からは血が流れている。

 コイツは。

 コイツはシンジまで傷つけたッ!!

 モノクロの世界は静かに時を刻み続ける。

 その中で、自分だけが色を保つ。

 

 ――――――ああ、今なら分かる。



 目の前の巨体を睨み付け、アスカは地を蹴った。
















 丸三デパート前は野次馬で人だかりが出来ていた。それを押しやるように武装した警官が下がらせる。危ないので下がってください、と何処からかスピーカーを通した声が聞こえてきて、ようやく彼らは下がり始めた。

 TV局もすでに動いているらしく、大衆を前にリポーターが興奮した面持ちで語っている。

 その様子をリツコは離れた指揮車内から見ていた。

 どういう因果か、あのデパート内にはシンジとアスカが居るらしい。こうも偶然が重なっていいのだろうか。そもそも第三に現れたのは偶然なのか。

 思考の海に沈みかけて、リツコは頭を振ってそれを打ち消す。

 今はそれどころではない。

 

 「鬼、か」



 武装した保安部の面々を前にしているミサトを尻目に、リツコは呟く。

 数少ない目撃者の話では突如“鬼”が現れたのだと言う。

 鬼は日本に伝わる昔話によく現れる怪物の一種である。人の形を模してはいるが、人外ゲテモノと言っても過言ではない。気性の荒さも言い伝え通りらしいから厄介な事この上なかった。

 シンジとアスカが生き残っているかは微妙なところだろう。
 
 アスカ一人ならアウトだが、幸いな事に今はシンジが付いている。彼が鬼を倒せるかはわからないが、生き延びる可能性は十分に考えられる。何せあのシンジなのだから。

 
 













 振り落とされた爪を身を捻ってかわす。ブン、という風を切った音が嫌でも聞こえてくる。

 距離を置きながらアスカは鬼の様子を観察する。黒から灰色へと戻った鬼はどう思ったのか、固執してアスカを追い続けていた。コイツにはあまり思考能力がないのか、腕を振り落とす、なぎ払う以外の攻撃パターンは持ち合わせていないらしい。

 アスカが生きていられるのもそのおかげだろう。

 低い咆哮を上げ突進してくる鬼を、床を転がる様にして避ける。致命傷は負っていないが、全身に切り傷や打ち身が出来ている。だが痛みは感じないのが幸いして動きが鈍る事はなかった。

 鬼を常に正面に捉え、突進する一瞬を見極め、そして避ける。

 すでに周りには生きている人間はアスカとシンジ以外に誰も居なくなっていた。大半は肉片と化し、残りは逃げ延びたのだろう。

 アスカ達は逃げる訳にはいかなかった。背を見せればそこで死ぬ。

 

 (だけど死ぬ気はないッ)



 驚くほどイメージ通りに身体が動く。

 まるでEVAに乗っている時の様な、その高揚感。

 普段の自分なら最初の一撃で死んでたわね、と他人事みたいにアスカは思った。



 「グオオぉおお!!」



 水平になぎ払われる豪腕。それに当たれば、一瞬で下半身とオサラバする事になる。バックステップでアスカはそれを回避する。が、鬼は休む暇もなく追撃を仕掛けてきた。何度目かの攻撃で要領を得たのだろうか。



 「しまっ・・・・」



 突き出される凶悪な抜き手をかわすのは不可能。

 















 ああ、なんて理不尽なんだろう。

 馬鹿みたいな腕で貫かれたらきっと即死だろう。そのまま上半身が千切れ飛ぶかもしれない。そしてビュービュー、と血を撒き散らして惣流・アスカ・ラングレーは絶命するのだ。

 なんて、理不尽。

 こんな何処の馬の骨ともわからない筋肉ダルマに殺されるのは悔しい。

 きっと脳みそも筋肉で出来ているのだろう。でなければ全身が筋肉なのか。

 コイツを倒すには未来から来たターミネータンも苦労するに違いない。

 畜生。

 アタシは死ぬ訳にはいかないってのに。

 畜生。

 諦めにも似た表情で迫る爪を呆然と見詰め――――――。

 惣流・アスカ・ラングレーは壁に叩きつけられて意識を失った。















 
 「火事場の馬鹿力イメージングで身体能力の向上、か」



 いつつ、と腕を押さえながら碇シンジは殺戮場と化した専門店街に立ち上がった。

 アスカが見せた動きは女性が到底出切るものではなかったのだ。本人が気づいていたかどうかは別として。

 鬼は依然凶悪な視線をシンジに向けている。床に倒れたアスカには目もくれないのはどうしてなのか。もしかしたら動くものに反応するのか、とも思ったのだが、今更シンジが動きを止めても意味はないだろう。それこそ紙で出来たヒト型のごとくなぎ払われるに違いない。

 

 「そして最後に見せたのはッ」



 言い終わるよりも早く鬼は接近を仕掛けてきた。それをシンジは許す訳もなく、距離を取る為に跳躍する。その後の突進を想定して、跳躍後、すぐに真横へと飛ぶ。案の定、身体のあった場所を抜き手が貫いていた。

 唯一勝機があるとすれば知能の低さ、か。シンジはアスカから鬼を引き離しながら思った。

 腕の傷は深くはない。血もすでに止まりかけている。


 
 (・・・・僕に出来るのかな)



 ――――――思い出せ。



 紫の鬼を。

 破壊の象徴を。

 目の前の鬼の数百倍は危険な悪鬼を。

 その豪腕がなんだ。

 お前が“死の象徴”?

 笑わせるな、筋肉ダルマが。


 
 「生憎、僕はまだ死ねない身の上でね」



 数百人をミンチにしたところで良い気になってるんじゃない。


 
 ――――――思い出せ。



 トウジの妹の死ぬきっかけになった。



 ――――――思い出せ。



 覚悟もせぬまま、褒めて欲しいばかりに嫌々乗った。



 ――――――思い出せ。



 その手は、使徒の血でベッタリと粘ついていた。



 ――――――思い出せ。



 トウジの足を奪った。



 ――――――思い出せ。



 殺した。



 ――――――思い出せ。
 


 殺して、殺して、殺しつくした。



 ――――――思い出せ。



 そして最後には。







































 目の前には、アカい海が。






































 「全人類を殺した僕には、君では少々役不足かもね?」



 クスクスクス、とさも可笑しそうに彼はワラった。






































 午後1時20分。

 突入したNERV保安部は碇シンジ、惣流・アスカ・ラングレーの両名を無事救出。

 同時刻、OOパーツ第壱拾陸号に対する殲滅戦を開始。

 現存装備では荷が重いと見た葛城ミサト二佐は、本部へエヴァンゲリオン零号機の出動を要請、これを本部は受理。

 1時35分、零号機が到着。

 1時37分、ATフィールドにより第壱拾陸号を圧殺。その際に丸三デパートは半壊。足止めをしていた保安部員数十名も巻き込まれる。







 ■ 被害報告 ■

 
 死者:131名

 負傷者:23名

 丸三デパート第三新東京市支店:半壊

 エヴァンゲリオン零号機:損傷なし


 尚、戦闘で死亡した保安部員の死傷者数は含まれず。













 ■ 第十幕 「 大破壊/創造/碇シンジ 」に続く ■