碇シンジの自室は全くと言っていい程物がなく、そして色がなかった。
リツコ邸の一角に設けられたシンジの部屋は一人部屋にしては広い方であろう。そこに住む彼の持ち物と言えば、愛用の音楽ウォークマンに衣類がほんの少し程度である。鞄一つに納まってしまうそれは、とても人一人の持ち物とは思えなかった。
部屋の使用率は40%と少し。
必要最低限の家具があるとは言え、伽藍としていて殺風景この上ない。
綾波レイのアパートの自室が廃墟だったとしたら、碇シンジのこの部屋は精神病院の一室だろう。
何せ物がない。そして白一色で統一された部屋。
リツコも初めて入った時は驚いたものだ。一瞬視覚がおかしくなったのかと疑ってしまったほどである。
ベッドは勿論の事、シーツから何まで染み一つない白。そして愛用のウォークマン、特注の家具まで全てなのだから驚いても不思議ではない。
彼が何故こうも白に拘るのかは不明なのだが、本人曰く「何となく」ということらしい。
シンジの好きにして良いと言ったリツコは何も言わなかった。驚きはしたが、かと言って文句がある訳でもないのだ。
少々人が変わっているのはお互い様であるし(リツコの部屋は猫まみれである)、シンジが唯一希望したことなのだからこれで良いとリツコは思っていた。
白い衣服入れに入っているのはごく普通の衣服である。勿論白の服も混じってはいるが、他にも青や黒等の半袖やジーパンが収納されている。もし入っていたのが全て白衣とかだったら怪しいだろうが。
――――――真っ白な部屋。
この世界で唯一色があるのは主である碇シンジその人だけであった。
掛け布団から覗く色白だが張りのある肌。
波のように広がっている黒い長髪。
ポツン、と浮かび上がる様にそこだけが生きていた。
まるで時間が止まっているかの様な感覚。勿論、時計の針は一秒も遅れることなく刻み続けているが、見ている者はきっとそう感じるに違いない。
規則正しい小さな寝息がなければ死んでいると勘違いされそうでもあった。
人知れず進んでいた時計の針が、朝の7時を示す。
ゆっくりとした動作でシンジの瞼が開かれた。だがその目は異様なまでに瞳孔が開ききっている。これでは満足に物が見れないだろう。入ってくる光の調節が効かない状態なのだ。
普通の人なら絶叫しかねない状況でも――――――何せ起きたら目がおかしくなっていたのだから―――――シンジは叫ぶでもなく黙ったままであった。
どのくらい時間が経ったのだろうか。シンジは時計を見るが、元々何時に目を覚ましたのかを彼は知らない。一応7時半を示している。どのくらい固まっていたのかを考えようとして、無駄なので止めることにする。
視界は完全に元に戻っていた。
ベッドから降りて、布団を直す。そのままパジャマを脱いで、黒のワンポイント入りの半袖に腕を通し、ジーパンを穿いた。
ふと、床に置かれたパジャマに目が奪われてしまう。
リツコが満面の笑みを浮かべてプレゼントしてくれたパジャマはやっぱり猫柄であった。シンジの好みに合わせてくれたのか、下地は白ではあるが、それを覆い隠すかの如くデフォルトされた猫の顔がこれでもか、と印刷されていた。あまりにも密集しすぎてすし詰めになっている。何か哀れであった。
いい歳した男がこんなものを着ていることがバレたら偉い事だ、とシンジはため息を吐いた。
なら着なければいいじゃないか、と考えそうだがそうもいかない。
このパジャマをプレゼントされたその日、誰が好き好んで着るか、と早々に衣服入れに封印したのがリツコにバレ、本気で泣かれたことがあったのだ。さすがに焦ったシンジは渋々と袖を通すと、目の前にはカメラを構えたリツコが居たから不思議だ。
それから今日に至るまで、シンジは猫パジャマを常用する事を義務付けられたのである。
ミサトにバレたら良い笑いの的にされそうだが、リツコは口が堅いらしく、誰にも言ってないようなので安心したシンジであった。
「今日の予定は・・・・アスカと買い物だっけ・・・・?」
自分で声を出してから、シンジは首を傾げた。
何時の間にかアスカと買い物に行くことになってしまったのは一昨日の事だ。彼女のことを“惣流さん”ではなく“アスカ”と呼ぶようになってからだろう、シンジとアスカはよく一緒に行動するようになっていた。
以前ならシンジが連れ回されていたところだが、今回はその逆になっている。シンジが行く所にアスカがついてくる、そんな図式である。
別に迷惑ではないシンジは何も言わないのだが。ここ数日でNERV内にシンジ×アスカ疑惑が浮上したのは言うまでもないだろう。
マナと以前はくっ付いていたのも重なって、男性職員からは憤怒の眼差しで見られることになってしまった。それを飄々と受け流すシンジはなかなかに度胸があるようだ。
一昨日のやり取りを思い出し、待ち合わせの場所と日時を確認する。忘れないように、壁に掛けられたカレンダーに「丸三デパート」「午前11時」とシンジは書き込んだ。
何故今になって彼女が買い物に誘ってくるのかイマイチよく分からないが、その時の表情を思い出す限り、良からぬ事を企んでいる訳でもないだろう。
まあ、アスカは友達が少ないみたいだし(人を言えたものではないが)暇つぶしの相手には自分が適任だったのかもしれない、と納得する。
「そう言えば、近頃マナと会ってないような」
はっちゃけ貧にゅ、もといスレンダー娘とは近頃顔を合わせることが少なくなっていた。
マナは学校に通っているので当然と言えば当然なのだろうが。
シンジは携帯を持っていないのでマナと話す機会もなくなっている。
携帯電話を持っていないとアスカが知った時の驚きようは凄まじいものがあったのを思い出す。何故携帯の一つや二つ持っていないだけでそんなにも驚くのだろうか。別に困る事もないだろうに。話がしたければ自宅の電話からかければ済むだろうし、外出先では公衆電話を使えば良い。まあ確かにあった方が便利なのは確かだろうが。
だが携帯は一度持つと中毒になると以前に聞いたような、と部屋を出て、洗面所で顔を洗いながら思う。
タバコや酒と同じで、一度手にすると止められなくなってしまうらしいのだ。酒で言うところのアル中だ。
(葛城さん・・・・?)
アル中から連想されるのは言わずもかな、我らが某大酒飲みの作戦部長である。驚異的な肝機能の持ち主であろう彼女が摂取するアルコールは通常の何十倍にも達しているのだ。あれでよく普通の生活が送れるわね、とリツコは真面目に感心している。
話が逸れたが、シンジはあえて携帯電話を持ち歩こうとは思わなかった。
それは不用意な呼び出しを防ぐものであり、自由行動を取るためにはそうしなければならない気がするからだ。シンジが携帯を持ったところで、それにかけてくるのは十中八九NERV関係者である。NERVからの電話など不快以外の何がある。
「だけど今日みたいな日には携帯もあった方が便利なのかな?」
もし待ち合わせの場所に相手が現れなかった場合、携帯電話を持ち合わせていたらすぐに確認を取ることが出来る。
行き違いになったり、待ち合わせ場所を勘違いした時に誘導したり等、活用項目も多い。
自分も携帯くらい持とうかな、と思ったシンジだが、NERV製の携帯だけは使わないのは決定済みである。簡単に分解しても、盗聴器等が仕掛けられてそうな確率100%であるからだ。それも黒猫印であったら尚恐ろしい。
安全面やプライバシーから考えてもキチンとしたメーカー製のものを買った方が無難だろう。アスカに聞けば教えてくれるはずだ。携帯初心者の自分では掴まされるのはパチモンかもしれない。資金は贅沢にあるのだ、精々高機能で高い機種を買わせてもらうことにしよう。ククク、と不気味な笑みをシンジは浮かべた。
「・・・・」
鏡に映った自分の顔を見て、目の下に薄っすらと隈が出来ているのをシンジは気づいた。だが不思議でもない。心当たりがあるからだ。
大して気にする訳でもなく、髪を無難に櫛で梳かし、歯を磨くために歯ブラシを手に取る。
シンジ専用歯ブラシの隣には、リツコの歯ブラシもあった。ご丁寧にもブラシの反対の先端に猫のマスコットがちんまりとくっ付いている。何時も思うのだが、この猫グッズはどこからかき集めてくるのだろうか。猫グッズ専門の会社がある訳でもなさそうだから、もしかして自分で作っているのかも知れない。
歯磨き粉を適量乗せ、シャカシャカと軽快に磨いていく。
数分間磨き続け、口を濯いだ。ミントの爽快な感覚が気持ち良い。これでこそ朝が実感できる。
「さて、今日も一日が始めるねえ」
とても無意味な一日が、と誰もいなくなった洗面所に声が響いて消えた。
丸三デパートは第三で一番規模の大きいデパートである。衣料品から玩具、文房具、その他もろもろに至るまで、ここに来れば何でも揃うとまで言われる充実振りである。
このデパートには専門店街というそれぞれの小さな店が集まって形成されているものがある。
その店一つ一つに店長がおり、店の売り上げの数%を親――――――即ち丸三デパートに献上することになっていた。これによってデパート内で店を開くことが認められるのだ。
名の知れていない店は新しく開いても大多数の客が訪れる事はまずないだろう。だが丸三デパートという“座”の上で開店したのならば話は別だ。上納金と引き換えに丸三というバックを得ることが出来るのだから。
故に小規模な店でも安心して営業できるこのシステムは店主には好評であった。
我先にとそれに続く者が出始めたがすでに遅く、丸三デパートに開店出来るのは基準を満たしたごく少数となってしまっていた。基準を設けるにあたって良質の店が増えたのは言うまでもない。
「・・・・♪」
その丸三デパートの入り口に女性は立っていた。
入店する男達は一人の例外もなく視線を向けてしまう。精力が枯れ果てている老人までもが目を細めて頬を緩めた。彼からすれば孫を見ている心境なのかも知れない。だが足を止めたのも事実で、見惚れてしまったのもまた事実であった。
ロングの金髪を纏めたその髪は、彼女が日本人ではないことを教えてくれる。だがその顔のつくりは完全な外人風ではない。
機嫌よさそうに微笑を浮かべる彼女を無視するなど出来ようか。すでに数十人の男が声をかけ、ものの見事に撃沈していた。弾かれんばかりの笑顔で「彼氏との待ち合わせなんです」なんて言われたら引き下がるしかないだろう。
実際のところ、アスカとシンジは付き合っている訳ではない。男を追っ払う言い訳のつもりであった。待ち合わせしているのは嘘ではないのだから。
左腕の時計を見る。時刻は午前10時50分を示していた。
アスカは視線を着ている服に移す。結構気合を入れて選んだ服は自分では様になっていると思う。そこらのモデルにも負けないつもりだ。
だが肝心のシンジが気に入ってくれるかは正直微妙なところであった。そもそも彼の好みがよく分からないのだから当たり前なのだが。
「でも遅いわね、レディを待たせるなんて」
皮肉る言葉も嬉しそうに言われるのだから大して意味はない。勝手に口から出た言葉だ。
まさか誘いに乗ってくれるなんて思いもしなかったアスカは文字通り舞い上がった。自分でも過剰かな、なんて思いながらも嬉しいものは嬉しいのだからしょうがない。
友人が少ないことを自覚している彼女にとって、買い物にいける間柄など数えるくらいしかいないのだ。
男友達もいることはいるのだが、全員が仕事の関係での付き合いだ。休日に出かけるなんて持っての外である。
近づいてくる男が皆が皆彼女の外見を目当てに寄って来るのだから男性不信になるのも無理はなかった。故に面識のない男に対して警戒心を持ってしまう。まあ、ニヤついた表情で寄って来られれば、アスカでなくても嫌悪感は感じるだろう。
「アスカ」
声をかけられてアスカは顔を上げた。
艶やかな黒髪は彼女の髪にも劣ることはないだろう。一瞬呆けてしまった頭をブンブンと振って「遅いじゃないのよ」と言って誤魔化す。
「待ち合わせには遅れてないと思うんだけど」
「アンタが来ない間大変だったんだからね。数分おきに声をかけられる身にもなってみなさいよ?」
ああ、と納得した表情でクスクスとシンジは笑った。
「アスカは可愛いからね。仕方がないさ」
「なっ」
平然と言ってのけるシンジを呆然と見て、それから思い出した様に顔を沸騰させた。
いつからこいつはこんな女垂らしになったのだろうか。アスカは何となく負けた気がして悔しかった。
まさに美男美女カップルと言っても過言ではない二人は注目の的であった。道行く人が彼らを見て―――――――対象はシンジだったりアスカであったりと性別によって異なってはいたが。
男から熱い眼差しで見られた暁には、シンジはもう泣きそうになった。某ナルシスホモと噂されていた友人の顔が思い浮かんだのだが、シンジは躊躇なく握りつぶしてそれを捨てた。何かデジャビュのような感覚を感じたが気にしないことにしよう。
腕を組むわけでもなく、二人は並んで歩いていく。
ただの友人関係にしては近すぎる距離を保ちつつ、アスカは内心ドキマギしていた。シンジは気にした素振りはない。
デパート内は涼しい。暑さを逃れるだけでもここに来る価値はあるだろう。
「で、今日の目的は何かな?」
何となく誘ってみただけよ、とは言えず、アスカは予め用意していた言い訳を述べる事にした。
「新しい服、かなあ。そろそろ新作が出てるだろうし」
「ふーん」
「シンジは興味ないみたいね・・・・」
一転してシュン、とアスカは項垂れた。こうもそっけなく返されると自信がなくなってくる。
俯き加減の彼女を気にしたのかどうかは不明だが、シンジは首を振ってそれを否定した。
「別に興味ない訳でもないんだけどね。自分の服はどうでもいいけど、アスカのだったら興味あるかな」
「じゃ、じゃあ早速行くわよ!」
ツカツカと先を行くアスカを追いながら、シンジは「ハイハイ」と苦笑しながら歩き出した。
他とは違う雰囲気を振り撒くシンジとアスカの二人から数メートル後にその人物はいた。
ムサシ・リー・ストラスバーグと浅利ケイタは二人を追う様にして早足になる。だが何処にでもいそうな彼らを不審に思う人間は居なかった。
対して、ムサシは表情を険しくして伺っている。ケイタは不思議そうに聞いた。
「どうしたの? ムサシ」
ああ、と彼は曖昧に返事をし、ケイタに向き直る。
「サードの隣に居る女、恐らくセカンドチルドレンだ」
「そうだね。間違いなく惣流・アスカ・ラングレーだよ。彼女は有名人だし、見間違えるなんてないよ」
「不味いな・・・・」
苦虫を噛み潰した表情のムサシを見てケイタは首を傾げた。
「癪な話だけど、マナはサードに近づいてNERVの内情を探るのが任務だろ? なのにセカンドが居たら近づきにくくなる」
「あ」
マナの過剰とも言える接近はシンジを色仕掛けで油断させるものなのだ。ムサシはこの事を良しとしていないが命令なのだから仕方がない。
その上での好待遇。任務が失敗したらどうなるかなど考えたくもなかった。
気づいたケイタも今更ながら把握したようである。
今この場にマナは居ない。このまま二人が付き合うことになれば、マナは完全に入り込めなくなるだろう。
肝心のマナは体調を崩したと言って療養中である。「風邪か?」と聞いたムサシに「あの日よ・・・・」と死にそうな顔で返されたものだから彼は焦った。それはもういろんな意味で。
無理強い出来るはずもなく、こうしてケイタと二人で監視するに至る。
この行為に意味はあるのかと聞かれれば迷うところなのだが、何もしないよりはマシだろうと思いたかった。
「でもこれってどっから見てもデートなんじゃ・・・・」
「・・・・」
そうではない、と答えられる訳がない。
あの嬉しそうなセカンドの表情は恋する乙女のそれではないか。
「でも・・・・サードの方が冷めてるって言うか」
「そうだな。一応笑ってはいるが・・・・セカンドは気づいてないようだが」
同姓である男二人にはどうもそう思えて仕方がない。
泣いて喜ぶはずのシチュエーションだと言うのに、彼はどこか冷めているような感覚を覚える。それが本当なのかは二人には分からない。
「まあ、サードだしなあ・・・・?」
「うん。あのサードチルドレンだしね・・・・?」
それで納得できてしまうのだから、不思議である。
「ん?」
「どうしたのよ? シンジ」
雑談中に急に振り返ったシンジに、アスカは聞いた。
「いや、理不尽な何かを感じてね」
振り返った先には大人数の客の姿がある。その中でも色黒の青年は目立っているが大して不自然でもなかった。シンジは肌の色で差別するような人間ではないのだから。ただ、その黒い肌には何となく見覚えがある気がした。
シンジは軽く記憶を探ってみるが思い当たる節はない。
再び目線を戻すと、色黒の青年の姿はもうなかった。まあ当然か、とシンジは気にするでもなく怪訝そうにしているアスカへと振り返った。
「気のせいかな。次行こうか、アスカ」
「え・・・・うん」
ゼイゼイと荒い息でムサシとケイタは深呼吸を繰り返す。
サードが意識してこちらを向いたのかはわからないが妙に焦ってしまった。以前に不良紛いの格好で襲ったときは変装していたから顔は知られていないと分かっていても、だ。
何人かが不思議そうにこちらを伺っているが気にしたことでもないだろう。
驚きべきことにサードは偶然にもこちらを振り返ったのだ。別段、殺気を放っていた訳でもない。確かに凝視していたのだが、それに気づいて振り返ったのだとしたら、気配を察知する事に関しては達人級と言えるだろう。
ようやく治まってきた荒い息を整え、二人は向き合った。
「偶然、だよな?」
「まさか気づかれるなんて訳なさそうだし」
これでも訓練は真面目に受けているつもりなのだ。それが一般人――――――多少は訓練を受けているが、サードチルドレンに見破られたとなっては笑い話にもならない。
正規の訓練を受けたアスカでさえ気づいていなかったはず。ならばサードは動物的な直感のみで振り返ったとでも言うのか。
まさか、な。
超能力でもあるまいし、偶然だったのだろう。彼らはそう思う事にした。
丸三デパート警備員室。
一日に数百人単位で客が訪れるここで、揉め事が起こらない日はない。それが万引きであったり、迷子であったりと様々だが、それに対応するのが彼ら警備員の仕事である。
数十個のモニターには店内の様子が映し出されていた。
その画像右上には「二階専門店街」「三階玩具売り場」等の、その映された場所の明記がある。
担当の警備員は眠そうにそれらの映像を流し見ていた。この数だ、全ての映像を細部まで見ていたら堪ったものではない。故に流し見る程度で済ませている。
今日も今日とて、万引きした中学生を補導したり、迷子になったボケ気味の老人の連れ添いを探したりと孤軍奮闘していた彼、正木ユウタロウは疲れきった身体を椅子のスプリングに沈み込ませた。
毎回そうだが仕事が多い。休日の今日は訪れる人も多く、それに比例して出動回数も増えているのだ。仲間達も頑張ってくれているようだが、果たして閉店まで持つのだろうか。
給料を貰っておいて言うのもナンだが、これはキツすぎる。
傍らに置かれた無線機からは引っ切り無しに声が聞こえてくる。それにユウタロウは南無、と走り回る仲間の姿を重ねて手を合わせた。
今の仕事はモニターの監視。
たまにばっちりと万引きするところが映っていたりするから面白い。以前、エロ本を万引きした小学生が映った事があったのだ。まあ、高学年ともなれば悶々とする年頃なのだろう。
だが悪く思うなよ、少年。
恨むならパパの隠しエロ本で満足しなかった君が悪いんだぞ?
ユウタロウは悔しそうに(顔はワラっていたが)少年を補導すべく警備員室を飛び出した。
結局少年は注意だけで返すことになった。親を呼ぶかなあ、と言った時の反応は凄まじいものがあったのを思い出す。何せ万引きで捕まっただけでも顔向けできないのに、盗んだものがエロ本だったらこれ以上悪い事はないだろう。これなら通り魔した方がマシに思えてしまうのだから不思議だ。
帰り際、「ありがとうございますありがとうございます」と涙を流して感謝する少年を見送り、ユウタロウは何か良い事をした気持ちになった。自分で捕まえておいてナンだが。
ユウタロウはモニターを見ながら麦茶を飲む。
ふと、「二階専門店街」のモニターに目をやって、彼は首を傾げた。
ゴシゴシと目を擦って再度それを凝視するが、結果は変わらない。
疲れすぎて幻覚を見たか?
だがモニターの中に見える幻覚など聞いたこともない。それはつまり、現実に起きている、という証拠なのだ。
客がごった返す二階専門店街に、突如として“それ”は“現れた”。
まるで転移してきたかの様に、何もないところから一瞬でその巨体は現れた。
突如として姿を見せたそれを、周りの人間は一瞬呆けながら仰ぎ見た。そして「何? イベント?」「うわあー、リアルすぎてキモ」と呟かれた声が耳に入る。
それに気にする訳でもなく“それ”は佇んでいた。
周囲の好奇の視線を感じても身じろぎ一つしない。無表情で動かないそれはかえって不気味である。
目の前にいた高校生のカップルがそれに近づいていく。「うわー、マジかよ?」「何コレぇー?」自然と見上げる形になって二人は言った。
すると今まで動きのなかった“それ”はゆっくりとした動作で腕を振り上げる。怠慢としたその動きはスローモーションで見ているかの様に錯覚してしまった。これでもし急な動きであったのなら、カップルは驚いて逃げていただろう。だが今回はそうではない。
腕を上げた“それ”は軽く3mに届くか否や、という高さであった。
無音。
あたりは自然に静かになる。
まるで次に行われる動作を見守っているかのような、そんな感覚。
状況が読めない遠くに居る客はどうしたと言わんばかりに皆首を傾げた。
そして、“それ”は――――――。
一気に腕を――――――。
呆けるカップルに向け――――――。
「がああああああああああああAAAAAAああああAAAあAAAAあああああああああああ亜嗚ああ!!」
――――――振り落とした。
■ 第九幕 「 死鬼 ‐シキ‐ 」に続く ■