神造世界_心像世界 第七幕 「ココロの傷と、その治療方法」

 











 とあるマンションの一室、霧島マナは無線機を片手に声を荒げた。

 いくらなんでも勝手すぎる命令。いや、その勝手な行為を強制させるのが命令なのだとしたら、言葉通りに問題はないのだろう。だが素直に頷けるほどマナは人間が出来ている訳ではなかった。

 そもそも最初の条件を完璧に無視しているではないか、と心の中で悪態をつく。


 「――――――それは、命令ですか?」


 これは最終確認なのだ。

 YES、と言われれば自分に抗う手段はない。ただ“正式な”命令を実行に移すのみ。

 マナが拒む権限はない。


 『そうだ。これは正式な命令である』


 ああ、やはり。無線機から聞こえてくる男の声。

 だがどんなに理不尽だろうが、一兵士であるマナは従わなければならないのだ。

 このまま罵倒を浴びせてやりたい心情を隠したまま「・・・・了解、しました」とだけ答えた。

 条件が良すぎるから不思議に思ってはいたが、結局はこうなってしまったか。マナは深いため息を吐いた。

 贅沢すぎる活動資金。

 任務外は自由行動可能。

 定時連絡さえ入れていれば、他に義務はない。

 美味しい魚には骨がある、とはよく言ったものだ。


 「ムサシ・・・・ケイタ・・・・」


 今頃、自由を満喫して遊び回っている友人二人を思い出す。

 恐らく彼らはマナに対する人質のつもりなのだろう。この事実をムサシが知ったら、さぞ激昂するに違いない。

 このまま逃亡するのも無理。

 命令を拒否するのも不可能。

 見せしめに人を殺すような組織だ、自分も捨て駒の一つでしかない。なら選択は元より一つ。

 まだ人生はこれからだ。

 こんな所で死ぬつもりはない。

 
 「・・・・シンジ」


 捉え所がない彼の顔が浮かんだ。

 彼は魅力的だ。任務以外で知り合えたら、良い友達になれたかもしれない。いや、もしかしたらそれ以上に。

 
 「――――――はあ、」


 少女の手には不似合いな無線機が、ゴロン、と台の上に転がり落ちる。

 チェックの柄のテーブルクロスが敷かれた台の上の、迷彩柄のゴツい無線機はかなりシュールであった。

 そのままマナは背後のソファーに腰を下ろす。ボスッ、と音がして彼女の身体を受け止めるソファー。

 目を閉じて、先程の命令を思い出す。


 





 『サードチルドレン、碇シンジを依存させろ』


 命令口調はそのままに、だが無線機越しに聞こえてくる声は呆れを含んでいる様であった。


 「依存・・・・ですか?」

 『その通りだ。よって霧島マナ。君にはサードと肉体関係を持ってもらう』

 「え・・・・な、何で」


 この任務を受ける時に交わされた条件は、とマナは言いよどむ。

 戦自にはマナのように十代の女性兵士も少なからず存在していた。その中で過去に潜入任務を請け負った女性兵士が、上層部に身体を使ってターゲットを油断させろ、という無茶苦茶な命令を受けたという噂があったのだ。

 もちろん裏世界ではその手で相手を油断させ、寝首をかく暗殺を得意とする者が存在するのはマナも知ってはいたのだが。

 だがマナは未だに処女であった。いくら兵士と言えども女性には変わりはない。故に初めての相手は好きな人と、というのは当たり前の事だろう。だからマナは任務請負の条件として、性的な行為はしない、と条件を付け加えていたのだ。

 いくら兵士とは言え、人権を無視した命令を出すのは世間的にも不味い。

 元々少年兵であったマナ達の存在はすでにNERVによって把握されているのだ。いつそれを脅迫の材料に使われてもおかしくはないと言うのに。

 サードインパクト以前なら揉み消しで事なきを得たそれも、今となっては少しの不祥事でも戦自には致命傷になるのだ。完全にNERVには命を握られていると言っても過言ではなかった。

 その上NERV本部襲撃は彼らにとって、消そうにも消せない黒歴史となっていた。

 それに伴い、組織の力の低下。

 一時期は戦自解体案まで出ていたこともあった。


 『・・・・どうしたね? 何か不満でも?』

 
 気色悪い。マナは素直にそう思った。

 この上官には何度か身体を触られたことがあったのだ。

 周囲からは見えない場所で何気なく、くしくも偶然を装った演出の仕方。かなり手馴れているから前科もゴマンとあるに違いない。

 今だって可笑しそうにゲヒゲヒと笑っているような上ずった声だ。

 顔は見えないが、きっと気色悪くニヤついているのだろう。


 『君も満更ではないのだろう? なんせサードは美男だからな。ウチの男達で処女を散らすよりは百倍良いだろうに』

 「・・・・」


 確かに、自分を見る発情した雄の視線を感じたことは何度かある。

 幸いにもマナにはムサシ、ケイタという男友達がいたから安全だったのだが。

 もし自分が独りだったら無理やりに犯されていたかもしれない。そう思うとマナはぞっとした。


 「ムサシやケイタは、このことを知っているんですか?」

 『この任務は極秘任務なのだ』


 つまり、言っていない、ということか。


 『彼らなら久しぶりの休暇で大変ご満悦なようだぞ? ああ、二日後にはそちらに合流するらしいが』


 君は任務中なのになあ、と男はくぐもった声で笑った。

 そうか。それは良いんだ。

 ムサシやケイタが楽しんでくれているというのなら、それだけでこの任務を受けた甲斐があったはずだ。

 マナは自分だけがこの豊かな生活をしているのではないか、という不安があった。

 二人は今も厳しい規則で縛られていて、お遊び同然の自分を恨んでいるのではないか。だがそれも杞憂だったようだ。


 『君が頑張ってくれれば、彼らも良い休暇になるだろう。だが、もしも。もしもだよ?』


 そこで一旦間を空ける。

 部屋には音がなくなり、いや、無線機から僅かにキー、というノイズが混じって聞こえていた。何故か耳が痛くなるような感覚を覚え、マナは米神を押さえる。眩暈の直前の耳鳴りに似ていた。


 『君が馬鹿なまねでもしたら――――――きっと彼らは“不幸な事故”に会うかもしれないのだよ』

 「そっ、そんな・・・・」

 『勘違いしないでくれたまえ、霧島君。もしも、の話なのだから』


 恐らく、その“もしも”は、自分がヘマをした時点で確実に起こるものなのだろう。マナは思った。

 これが口からの出任せならば良いのに。

 だが彼は、いや、戦自はその程度のことなら平然とやってのけるはずだ。

 戦自だけに言えたことではない。組織と銘打っているモノならば、それに所属する人間でさえ蜥蜴の尻尾の如く切り捨てられる。

 マナにはもはや、選択肢等なかった。


 『もう一度言う。君は身体を使ってサードを誘惑し、その身に依存させるのだ』


 握られた無線機が、ミシッ、っと音を立てる。

 我慢だ。

 我慢しろ、マナ。

 逆らっちゃ駄目なんだ。

 いや、逆らおうなんて考えては駄目なんだ。

 深呼吸をして落ち着けろ。すー、はー。すー、はー。

 ああ、頭が痛い。耳鳴りも酷い。

 キンキンと頭の中を金槌で打たれているみたいだ。

 脳髄ごと脳みそを引っ張りぬかなければ、痛みは引かないのではないだろうか。

 でも今はそんな暇はない。

 覚悟を、決めるんだ。


 「――――――それは、命令ですか?」


 絞り出された声は、僅かに震えていた。
















 NERV本部内。

 珍しいことに、この日は碇シンジは一人でNERVを訪れていた。

 いつもはワンコの如く霧島マナがくっ付いているのだが、今日は彼一人のようだ。

 職員達にしてみれば、シンジとマナでワンセットと考えられていたので、一人で歩くシンジを皆は興味深げにチラチラと盗み見ている。

 他人からの視線をまるで感じないように平然とシンジは歩いていく。

 黒髪をなびかせて歩くそれは、かなりの絵になっているではないか。だが女性職員の目が見開かれているのはちょっと恐かった。


 「シンジ? 今日はマナと一緒じゃないの?」


 ちょうど休憩所に差し掛かろうかという間際、その曲がり角でシンジはアスカと出会った。

 数日前に和解してからは昔のフランクさが戻ってきているようだ。横暴な態度も以前には考えられないくらい身を潜めている。それが猫を被っているのか、彼女の地なのかはシンジにもわかりかねていた。

 それに対して、未だにシンジは敬語のままであったが。


 「ええ。別に四六時中一緒にいる訳ではないですよ? 惣流さん」


 そう言ってシンジはニッコリと笑う。「うあ・・・・」不味い、とアスカは思う。

 
 (・・・・毎度の事ながら、あの凶悪な笑みとのギャップが激しいわよね)


 クスクス笑いのシンジは好きになれないが、この純真そのものの笑顔はある意味で凶悪すぎるのだ。作り笑いであることは分かっているのだが、それでいてこの笑顔は只者ではない証だ。

 自分の頬が赤くなっているのに気づくアスカだが、今更繕ったりはしない。ええそうですよ、もうヤケですよ。


 「忙しいのは知っているんですけど、かなり暇でしてね。やることがないって辛いんですよ」

 「それは言えるかも。でも別に忙しい訳じゃないわよ?」


 聞くと、「そうなんですか?」とキョトンとした表情をシンジは浮かべた。


 「まあ、OOパーツが世界中で現れてるのは事実だけど・・・・大した量じゃないし。それに全部規格内らしいわ」

 「規格内・・・・?」

 「ああ、規格内ってのはね――――――」


 二人は歩きながらOOパーツ講座を続ける。

 いろいろと解説を混ぜながらも現状を述べていくアスカに、シンジは真面目な表情で頷く。だが驚いたのは彼の理解の早さである。一度聞いた事は忘れないらしく、普通の大学生でも混乱しそうな説明をシンジは事も無げに理解していった。

 そういえば、昔からシンジは理解するのが早かったんだっけ。アスカはサードチルドレンとしてのシンジを思い出して思った。

 EVAの操縦にしても、パイロットとして育ってきたレイや自分と何ら変わりない成果を挙げているのだ。いや、それどころか三人の中で一番際だっていたのがシンジと言えよう。

 伊達に三賢者の一人、碇ユイの息子でなない、ということだろう。


 「・・・・でも僕に話しても良いんですか?」

 「別に良いんじゃない? もう世界中で知られちゃってるし。その内、国連が正式に公表すると思うわ」

 「新たなる脅威って訳ですね。使徒に比べると危機感が薄く感じますけど」

 
 そう言えばそうね、とアスカは呟く。

 恐らく一般の人間がこの事実を聞いても、「へえー」とか「恐いなあ」くらいにしか思わないのではないだろうか。

 自分でさえ聞きながら平然とお茶を飲むことが出来そうなのだから。


 「何故かしら。まだ被害が出ていないから? 外見が知りえるモノだから?」

 
 言うなれば、使徒は異形。

 けれどOOパーツは存在こそしないが、その姿は人の良く知るものだったケースが多い。

 神話や伝承で伝えられてきた確固とした存在。中には“神”の域まで達しているものも少なくはない。


 「それもあるでしょうけど、重要なのは結果だと思いますよ?」


 立ち話もナンですし、と休憩所のソファーに腰をかけるようにシンジは言う。アスカは一番近くのソファーに座った。

 彼女の目の前を通り過ぎ、自販機に自分のIDを通す。「スポーツドリンクでいいですか?」「え? あ、うん」

 電子音が二回続く。ガシャン。シンジは両手にジュースを持ちながらアスカが座っている対面に座った。

 「どうぞ?」差し出される缶ジュース。「・・・・アリガト」アスカは手を伸ばした。受け取る時に、少しだけ触れられた彼の手は暖かかった。


 「使徒は倒さないと人類滅亡、なんて凶悪な設定がありましたよね? だけどOOパーツにはそういったものがない」

 「・・・・まあ、自分が生きるか死ぬかだったら本気になるのは当然よね」

 「そもそも彼らの目的がわからないから人間はどう受け取ればいいのかわからない。もしかしたら敵ではないのでは、なんて思っているかもしれません」


 プシュッ、とシンジはプルタブを開ける。アスカもそれに続いた。


 「じゃあ、シンジはどう思っているの?」

 「正直言ってあんまり興味はないんですけど・・・・まあ、第三には現れて欲しくはないことは確かですね」


 死にたくはないですし、と彼は付け加えた。


 「あんな巨体ですよ? 当人にその気はなくても、ただ動くだけで街は破壊されるでしょう。それはもう玩具みたいに」


 迎撃都市でなくなった第三新東京市に、規格外のOOパーツを退けられる可能性は皆無に等しい。

 EVAが出撃しても、人が住めなくなる状況にするのは簡単すぎた。

 それにOOパーツが一度現れた場所に人が好き好んで住むとは到底思えない。

 殆んどの人達が町を捨て、何処かへ移住するはずである。


 「どちらにせよ、僕ら人間に脅威であるのは変わりはない。相成らぬ存在ならば、倒すしかない」

 「・・・・そうね。今は国連や各国の軍隊が動いて抑えているみたいだけど・・・・規格内でさえ手一杯らしいのよ」


 数日前に現れた第参、第肆号を合図にしたかのように、世界中でOOパーツが現れ始めたのだ。

 現在に確認されたものは全てが規格内。

 軍によって排除されてはいるが、人間側も無傷とまでは言えなかった。

 特にエジプトに現れたジャッカルの頭を持つ人型――――――アヌビスを模した第陸号によって負わされた被害は甚大なものであった。

 死を司る神であるアヌビスは圧倒的であった。

 その腕が振るわれるたびに死者を量産し続け、まさに神話そのものの姿と言えた。阿鼻叫喚の地獄絵図をいとも簡単に作り上げてしまったのだ。それもたった数十分の間に、だ。

 機関銃やミサイルでは対応が難しいと考えたエジプト軍は国連軍にN2兵器の使用を要請。

 これを受理した国連軍所属の空爆機がN2を投下、辺り一面諸共第陸号を殲滅した。

 また、後に回収された民間人や兵士達の死体は皆干からびており、ミイラ化していたと言う。これも神話に基づいているのではないか、と推測されている。しかしながら戦闘の形跡はN2で蒸発してしまったので詳しい事はやはり掴めていない。


 「第陸号はその中でも圧倒的だったらしいわ。あれで規格内なんだから、規格外のヤツはハンパじゃないわね」

 「規格内、規格外って言うけど、何でそう決めてるんですか? 基準があるんでしょう?」

 「ええ。単純に大きさ、全長の度合いで決めているのよ。5メートル以下は規格内、それ以上は規格外」


 分かりやすいでしょ、とアスカは苦笑いした。


 「大きいっていうことはそれだけで脅威になるからでしょうね。5メートル以上だったら歩兵では手も足も出ないのは当たり前よね」


 確かに、とシンジは頷いてジュースをコクコクと飲む。男にしては妙に艶かしい喉下にアスカは顔を赤くした。

 ブンブンと頭を振って邪念を振り払う。

 赤みを帯びた金髪がキラキラと光りながら乱れる様子を、シンジは不思議そうに見ていた。








 「あら?」


 ユイは見知った顔を見つけたので足早に近寄っていく。それは楽しそうに談笑しているシンジとアスカであった。

 彼ら二人セットだけでNERV居るのは珍しいことなので、何故だか新鮮に感じられる。

 傍から見ても美男・美少女コンビである二人はまさにお似合いと言えた。


 「ふふふ、楽しそうね?」


 このお似合いカップルが、とユイは言おうとしたのだが、何時も一緒にいるマナの姿がないことに気づき、彼女は寸前で言葉を飲み込んだ。


 「ここここ顧問!?」


 妙に焦るアスカを見て「あらあら」と頬を緩ませる。なかなか良い雰囲気ではないか。


 「・・・・どうも」

 「ええ。シンジ、こんにちは」

 
 シンジの態度は親に向けられるものではない。どちらかと言うと知り合いの小母さんに見せるそれである。

 最初こそショックは受けたものの、今では普通に受け答えが出来るようになってきたことをユイは嬉しく思っていた。

 シンジは反抗期、などと生易しい拒絶ではなく、本当に自分達を親と見ていないと気づいたのだ。それでも礼を持って接すればそれ相応の態度で答えてくれる。

 今は離れてしまっているが、少しずつ歩み寄っていけば良い――――――だって血の繋がった親子なのだから。

 息子を抱きしめそうになる自分を、ユイは自分で叱咤する。


 「この頃よくNERVに来てくれるのね? 母さん嬉しいわ」

 「・・・・・・・・・・・・家に閉じこもっているのもナンですし」


 隣にいるアスカには、シンジの口が引きつっているのが見て取れた。だがユイにはわからなかったようだ。


 「そうね・・・・なら学校にでも通ってみたらどうかしら? 確か普通なら高校二年生くらいでしょ? シンジは」

 「学校、ですか」

 「でも大丈夫なの? シンジってこの三年間放浪してたんだから、勉強だって・・・・」

 「ああ、それなら心配には及びませんよ、惣流さん。息抜きにチョコチョコと勉強してましたから。高校終了過程くらいなら問題ないですよ」

 「「へえ」」


 ユイとアスカの声がハモった。


 「まあ、行ってみるのも悪くはないかもしれませんね。この辺りだと・・・・中央高校なのかな?」


 頭の中に地図を思い浮かべて言う。

 第三新東京市には第三中央高校と日橋高校の二つの高校があるのだが、リツコの家からは中央高校の方が近い。


 「中央だったらヒカリがいる高校じゃない? 確か・・・・盗撮魔もいたと思うけど」

 「盗撮魔って、もしかして相田ケンスケのことですか?」


 うん、とアスカが頷くと、シンジは腹を抱えて笑い出した。「ははははっ、ほ、本当に」「ど、どうしたのよ、シンジ」「いや、だって」

 
 「元3馬鹿トリオの中で一番早死にしそうだったのが相田さんでしょ。それなのに今でもピンピンしているときた」


 本当に可笑しそうに、そして不思議そうに彼は笑う。
 
 確かにアスカの中でもケンスケは一番最初に死にそうな感じはしていたのだ。それも自分から死んでいくような死に方で。

 例えばだが――――――自ら戦場へ赴いて、流れ弾に当たって死ぬような。或いは地雷を踏んで、カメラごと吹き飛ばされてお陀仏になったり。

 まあ、実際にそれに似たことを第4使徒戦で行って痛い目を見ているのだが。


 「馬鹿は死んでも治らないって言うけど、相田さんはまさにその通りだね、きっと。何回転生しても盗撮魔に生まれるんじゃないかな」


 クスクスクス。

 ああ、この笑い方のシンジには突っ込まない方が賢明だろう。アスカは瞬時に理解した。

 
 「ま、相田さんのことは置いときましょう」


 そう言ってシンジは空になった空き缶を投げた。

 弧を描いてそれは飛んでいき――――――資源ゴミ、と書かれたゴミ箱にカラン、と音を立てて入った。

 
 「学校には近々通いたいと思います。手続きは自分でやりますので」

 「そう? 母さんがやっても構わないのよ?」

 「いえ、そこまで迷惑をかける訳にもいきませんよ」


 それは遠巻きに拒絶の意を示していた。気づいたユイは途端に暗い表情へと変わる。

 何の反応も示さないまま、シンジは「では」と席を立つ。アスカも慌てて空き缶をゴミ箱に捨て、それに続く。

 残されたユイが動き出したのは、それから十分後のことであった。








 前を歩いていくシンジの表情は伺えない。

 アスカが母親であるユイに冷たく接する彼を目にするのは初めてのことだ。

 噂で彼ら親子が上手くいっていないことを知ってはいたのだが、それを目の当たりにしてみると噂が正しいことがよく分かる。ゲンドウとシンジが不仲なのは使徒戦役時代からなのだが。

 でもどうしてだろう、とアスカは淡々と歩を進めるシンジを見ながら首を傾げた。

 雰囲気的なものなのだが、今のシンジは先程のことも“どうでもいい”ことのように感じられる。実際そうなのだが。

 アスカにとって母親とは欲しくても手に入らない家族であり、欲しているものなのだ。それが目の前にあるというのに、彼は拒絶の意を示している。

 もしかして養子となったレイに遠慮しているのか、とも思ったりもした。


 「・・・・」


 だがこのシンジがそんな些細な事を気にするような性格にも思えない。三年前なら未だしも、今の彼は結構図太い性格をしている。

 となれば残っているのは数年ぶりの再会のせい・・・・ではないだろうな、と苦笑。

 掴み所がないのは今に始まったところではない。

 ただ単に、ユイのことは“あまり好きではない”ということなのだろう。

 言うなれば食べ物の好き嫌いと同じなのだ。ピーマンを嫌いな人間に、ピーマンがいくらゴマをすって近づいても拒絶されるように。匂いを感じただけで不愉快な思いをするのだから、近づかれるのも嫌なはずだ。

 ああ。

 なんか例え話に変えたら急に馬鹿っぽい話になってしまったではないか。

 顧問には悪いが彼女も親馬鹿すぎるのだ。

 まあ、自分だってママが還ってきていたとしたらマザコンになっているだろうから他人の事は言えないけど。彼女は苦笑した。


 





 二人は無言で通路を歩く。

 だがアスカには不思議と気まずくは感じなかった。

 長年連れ添った夫婦はこんな感じなんだろうなあ、と思って、彼女は顔を赤くした。

 シュッ、と扉が開く。

 訪れたのは何時も通りにリツコの研究室である。シンジがNERVを訪れている時は殆んど入り浸っていると言えよう。

 その部屋の主は歓迎しているのだが、助手のマヤには敬遠されているのをアスカは知っている。当人は大して気にしていない様なのだが。

 故にシンジが研究室に入ると代わりにマヤが出て行く、という行動が定番となってきていた。

 「珍しいわね? 今日は一人・・・・じゃないみたいね」「「では、失礼します」」ペコリ。

 
 「ええ、まあ」


 珍しいことに今日はレイの姿もあった。シンジの顔を見てしっかりと顔を顰めさせたのは流石だ。普通ならこうも素直に表現できまい。

 無表情の二人はそのまま横を通り過ぎ、一礼して出て行った。

 レイと友人であるアスカは複雑な心境である。レイがああも感情を表すのは滅多にないことなのだから。


 「嫌われたものよね、シンジ君も」

 「教祖様のご機嫌を取るよりはマシでしょう?」


 確かに、とリツコは笑った。

 会話についていけないアスカはちょこん、と大人しく近くにあった椅子に腰をかける。

 軽い雰囲気で会話をする二人は先程の出来事など、小指の爪程も気にしていないようだ。マヤには可愛そうだが、彼女は大して重要視されていないのではないか、とアスカは思った。

 
 「それでですね――――――」


 だが明らかにアスカの時よりも会話が弾んでいるのは明らかであった。

 
 ――――――これがアタシとリツコの差か。


 悲しくなると同時に、アスカは嫉妬にも似た感情をリツコに持ってしまったことに気づく。

 それが無様で余計に悲しかった。


 「・・・・惣流さん? 大丈夫ですか?」

 「え!?」


 まさかシンジが自分を気にしてくれるなんて思いもしなかった。焦ってアワアワと意味不明な行動を取る。

 不思議そうに見てくる二人の視線が痛い。


 「・・・・無様ね」

 「・・・・否定はしないわ」


 もうどうにでもなれ。








 「マナちゃんは用事がある、と」

 「ええ。なんか少し落ち込んでいたみたいでしたけど」


 心配だなあ、とシンジは呟く。


 (心にも思っていないことをよくもまあ・・・・マナちゃんもシンジ君のお眼鏡には敵わなかった、か)


 呆れるリツコに対して、アスカは面白くなさそうに「ハンッ」と鼻を鳴らす。

 おお、懐かしい、と当人を除く二人は思った。


 「どうせロクでもない事でしょ」

 「アスカ」

 「何よ、リツコ」


 大人気ないって言いたいんでしょう? 分かってるわよ、そんなこと。アスカは表情を曇らせた。

 頭では分かっていても、人間は感情を優先してしまう事が多い。

 三年前よりは改善されてはいるが、まだまだ喧嘩っ早いところは相変わらずであった。


 「皆してマナマナマナって・・・・何なのよ、もう」


 語尾は消えてしまいそうな程小さい。傍から見れば構ってもらえない子供のそれなのだが、本人も自覚しているだけに雰囲気も暗くなる。

 
 「・・・・相変わらずだよね、アスカってさ」

 「うっさい――――――、って」


 今、何て言った?

 確かに“アスカ”って。


 「自分からも心を開かなければ好きになって貰えない。アスカだって分かってるんだろ、そんなことは」


 ああ。

 分かっているわよ、そんなこと。

 でも実際に行動するのと、口だけで言うのじゃ全然違うんだから。

 いくらシュミレーションしたってその時には吹き飛んじゃってる。
 
 なんて、無様。

 アタシだって好きでこんな性格になったんじゃない。

 デフォルトでこれなのよ?

 泣けてくるわよね。

 何が天才アスカ様、よ。

 自分で良い気になって舞い上がって。

 それで一旦落ち始めたら一気にどん底。

 自分は悪くない。

 悪いのはアタシを認めない周りの連中だ!

 ・・・・今思えばなんて無茶苦茶。

 ・・・・やめてよね。

 なんでそんな目でアタシを見るのよ?

 軽蔑こそすれ、なんで優しい目でアタシを見てくれるの?

 なん、で。

 
 「もっと素直になってみなよ、アスカ。君だってそうでありたいと思っているんだろ?」


 全てを見透かしたような、その視線。

 いや、アイツは分かっているんだ。

 感じているんだ。

 自分と同じような、このアタシを。

 もしかしたら、アタシがシンジにあたっていたのは似ていたからこそ故なのかもしれない。

 近親憎悪、ってヤツなのかな。

 ああ、ホントに。

 なんで今まで気づかなかったのだろう。

 自分でも気づかなかった、“惣流・アスカ・ラングレー”の弱さを、醜さを、愚かさを――――――。

 碇シンジは気づいていた。

 碇シンジは分かってくれていた。

 惣流・アスカ・ラングレーを見てくれていた。




 ・・・・いつから自分はこんなにも泣き虫になったのだろうか。

 何故かわからないけど、シンジの声を聞いているだけで涙が次から次へと溢れ出してくる。

 この身体の何処に溜め込んでいたのだろう。まるで湧き水の様だ。

 流れ出していく。

 流れ出していくその度に、あんなにモヤモヤしていた心が軽くなっていくのが分かる。

 でも何時の間にアイツは大人になったのだろうか。

 三年前までは青いガキだったのにさ。

 今では背中さえ見えないくらいに追い抜かれて。

 気づけば、その姿さえ霞んで見える。


 「言うようになったじゃないのよ、バカシンジ・・・・」

 「その言葉は頂けないな、アホアスカ」

 「ん、ごめん。アタシってさ、まだ子供で素直じゃなくて馬鹿で。ああ、バカなのはシンジじゃなくてアタシなんだ・・・・」


 当たり前だろう、バカアスカ。心の中でそんな声がした。

 だからそのままに罵倒を受け入れよう。

 自分が馬鹿だったのだ。

 本当はいくら謝っても許されないことをしたのに、シンジは許してくれたというのに。忘れることが出来ない、あの一年間。

 思い出すたびに苛立ったのは、シンジに対してではなかったんだ。

 本当に苛立ったのは。

 本当に嫌悪していたのは。

 本当に見たくなかったのは。

 ――――――アタシの姿、そのもの。

 
 「ひ、ひっぐ・・・・ごめ、ごめんね、シンジ」

 「何を謝っているのかわからないけど、うん。許してあげるよ」


 ふわっ、と暖かいものを感じた。

 気づくとシンジの胸が目の前にあるではないか。

 シンジに抱かれている?

 嫌じゃない。

 むしろ、嬉しいかな。

 ああ、ヤバイ。もう駄目だ。

 何とか押さえ込んでいたものが溢れ出てしまう。

 ママが死んだ時に、もう泣かないって決めたんだ。

 一人でも立派に生きていくんだって、そう決めたんだ。

 でも。

 それも無茶なことだったって、今なら分かる気がする。

 人は一人じゃ生きていけない。

 だからこうして触れ合って確かめ合うんだ。お互いの心を、想いを。

 泣かないのは、もう止めた。

 素直になるって、そう決めた。

 これがアタシの、新しい誓いなのだから。

 
 「うえ、うえええええええええ―――――――んっ!」


 一度決壊するともう止めることは不可能だった。

 17歳だとは思えないくらい馬鹿泣きしてしまった気がするのは自分だけではないだろう。

 でも、そんなことは些細なことだと思えてしまうくらいに。

 あんなに大泣きしたのはママが生きている時でもなかった気がするのだ。

 そっと撫でてくれる暖かい手。

 男だとは思えない、白くて細い指だった。ちょっと羨ましいかな。


 「・・・・アスカ」

 「ひぐ・・・・シンジぃ」


 ほら、泣き止んで。そう言ってシンジの手がアタシの頬を撫でる。

 くすぐったい。でも嫌じゃない。

 この時間が何時までも続けばいいと、信じてもいない神様に、アタシは願った。
















 「あー、お楽しみの最中で悪いけど・・・・わたしの事はお忘れかしら?」

 「ちょ、リツコぉ!?」


 気づいていませんでした、と言わんばかりにすっ飛んだ声を上げるアスカ。

 「やっぱり気づいてなかったのね」「いや、あはは・・・・」

 どう答えればいいのかわからず、アスカは助けを求めるようにシンジを見た。


 「ほら、涙の跡が残っちゃってるから。顔洗ってきなよ?」

 「そ、そうね! ちょっと席外すわよっ」


 大急ぎで逃げる後姿をシンジはクスクスと可笑しそうに眺めていた。

 気配が離れていったとわかると、リツコは真顔でシンジに問う。「どういう風の吹き回しかしら?」

 彼がアスカを快く思っていなかったのは確かなはずだ。

 それが今日になって手のひらを返すような真似をしたのを、リツコはどうにも解せなかった。


 「クスクスクス・・・・面白いでしょう? 彼女。それなら良いんですよ、それならね」

 「・・・・」

 「もしかして・・・・クスクスクス。嫉妬ですか? リツコさん」

 「それが半分。後は好奇心、ってところね」

 「あらら」


 シンジの手が伸び――――――リツコの金色の髪をすく。

 何気ない動作に色っぽさを感じさせるシンジに多少ドキマギしながらも、ポーカーフェイスを貫いた。


 「これでも僕、結構女性にはモテるんですよ?」


 わかってるわよそんなこと――――――と言う前に、「ん、ふ」シンジの唇に塞がれてその言葉は出ることがなかった。

 ・・・・もしかしたら加持君よりも上手かもね・・・・別に加持君としたことある訳じゃないけど。

 霞がかかった思考の中で、リツコはふとそんなことを思ったのだった。












 ■ 第八幕 「 ゆらゆらと揺れる非日常の彼方に 」に続く ■